リトル・ワールド

九大文芸部OBOG会

白木悠吾                       

                             作者:阿久井浮衛


 そういえば,あの蝉の抜け殻はどうなっているのだろう。

 五十路前にして早くも頭頂の禿げ上がった後藤の声を聞き流しながら,僕はぼんやりと頬杖をついた。十月も一週間を過ぎようとしているのに,窓から見下ろす校庭は眩い日の光を受けて白くぼうっと浮かび上がっている。その色濃く残る夏の残滓に,下足箱近くの銅像に張り付いていた蝉の抜け殻と同じ匂いを嗅ぎ取った。

 指先に付いたチョークの粉を乱雑に振り払いながら,後藤は黒板の前を落ち着きなくうろつく。僕は見咎められない内に頬杖を外し,共通テストの模擬問題集へ目線を戻す。国語の,しかも評論の問題なんて回数を重ねて解くようなものではないだろうに。こんなことをやっているから生徒自ら底辺校なんて揶揄することになるのだ。ちらり,と今度は窓と反対の方向へ視線を滑らせる。

 もうあと二,三か月もすれば受験というこの時期になると,一応は公立進学校の,しかも成績優秀者が集められた文系クラスの空気はぴりぴりと張り詰めていて息苦しい。このクラスでも学業成績で五本の指には入ろうかと思われる優等生はもちろん,一か月前体育祭の仮装行列で女装していたムードメーカーさえ問題集に齧り付いている。僕としてはその時の姿を思い起こしてギャップに吹き出しそうになるのだけれど,誰もその愚直な態度に滑稽を覚えないらしい。

 僕がおかしさを覚えるのは彼だけじゃない。しかつめらしく評論文に線を引いているクラスメイトの大半がさして勉強しなくても入学できる大学を進学先に選んでいる。それなのに,態々回りくどいやり方で眠い眼を擦っている様子は滑稽を通り越して無様だ。

「ここでの筆者の主張は,鳥獣保護法に反し飼育が禁止された鳥類を飼う愛好家の態度と,動物愛護団体の行動原理は等質であるということだ。つまり彼らの一見相反する行動の動機は,全て下位存在に対する優位性の保持欲求という進化人類学的知見に立脚しているということだな。じゃあ白木,この主張に関する問五の答えはどれだ?」

 不意に名前を呼ばれ,泡を食う頭で回答を確認する。

「三です」

 後藤はそれを聞くとそうだな,と黒板に振り返り問題の要点を板書し始める。クラスメイトもそれが至極当たり前という顔で赤ペンを動かしている。態と間違えたら少しはこの空気を変えることができたのだろうか。茶目っ気が微かに沸き起きるものの,それでもやはり大して反応めいたものは引き出せなかっただろうな,と諦念がすぐさま駆け抜けた。

 当てられたばかりでしばらく指名されることはないだろうと見当を付け,こっそりページを前に戻す。今授業で扱っている評論文は動物愛護団体の主張には矛盾があるという,在り来りで頗るつまらないものだ。その主張自体にはさして興味が引かれなかったけれど,具体例として用いられた野鳥の話は目に留まった。

 この評論の批評家によると,鳥獣保護法の下では狩猟できる鳥獣や狩猟免許など厳格な規則が種々に定められているが,それを破って野鳥を飼育する人々がいる。彼らが何故法を犯してまでウグイスやメジロを飼おうとするのかというと,鳴き合わせという会で鳴き声の優劣を競うためだ。そうした大会では賞金が出る上,優勝した個体は高値で取引されることもあるという。

 このため愛好家はできるだけ多くの野鳥を捉えたり優れた個体を手に入れ交配させたりして,多い時には数十羽も飼育するという。鳥籠の中で飼われる彼らは長年狭いケージの中に居続け,場合によっては生まれてから一度もそこから出ることがないせいで,籠の外に出しても空を飛ぶことができなくなってしまうらしい。

 ページを捲って,設問のある箇所まで戻す。後藤が再び板書し出したのをいいことに,今度は遠くの空を見上げる。高いところを漂う雲の端からゆっくりと刺し込む日差しに,思わず目を細めた。

 多分僕も,空を飛べない。

   ***

「白木。この間の模試,かなりいい結果だったな」

 冗長なだけの授業を終えると,僕は次の移動教室に備え教材を持って廊下に出た。そこで運悪く,黒板側の扉から教室を出た後藤に捕まってしまった。脇を通り過ぎていくクラスメイト達には目も呉れず歩み寄ってくる彼に,悟られないよう小さく溜息を吐く。

「あの模試は易し過ぎるように感じたのですが,先生から見るとどうでしたか」

 隣のクラスの喧騒を背中に受けながら仕方なく話を合わせる。すると内容はどうあれ質問されたことで気をよくしたのか,後藤は愉快そうに唇を弧の形に変えた。

「頼もしいな。この調子だともう一つ上の志望校狙ってもいいんじゃないか」

 せっかく気取られないよう払った努力を忘れ,思わず渋面を作りそうになる。拳大の空気の塊が鳩尾の少し上辺りから体の外へ押し出ようと食道を上昇していく気持ち悪さを感じ,慌てて息を呑み込んだ。

「いえ。今以上となると実家からかなり遠退いてしまいますし,やはり首都圏はお金がかかりますから。親にあまり負担はかけられません」

「親御さんは志望校を変えるのに反対しているのか」

 意外そうな声に,背筋を冷え切った指で撫でられたような恐怖を覚える。どう上手くごまかしたものか。汗が滲む額で考えるものの「そういうわけでもないんですけれど」とはっきりしない言葉しか口先には浮かんでこない。白々しい沈黙が漂い,後藤は手持無沙汰に左手首に目を向ける。困るくらいだったら話しかけないでくれよ。

 悩み事ならいつでも相談に乗るから遠慮するなよ。如何にも自分に酔っているらしく言い残して足早に職員室へ向かう背中を,うんざりした思いで見送った。まさか本当に悩み事を相談されるなんて,露とも思っていないくせに。

 気が付くと大半のクラスメイトが既に移動してしまったらしく,教室の中には五,六人しか残っていない。溜息を吐いたところで,廊下に出ようとしていたその内の一人と目が合った。彼女はそれを見逃さず,思惑通りに事が進んだ悪戯っ子のように笑った。

「後藤先生に捕まってたね」

 どうやら,後藤との会話を耳にしていたらしい。えっと,この人誰だっけ。移動した先の教室で隣の席だったことを思い出しながら,困ったような顔をしてみせた。

「早目に移動しておこうと思ったんだけどな。長いのは授業だけにしてって感じ」

「あはは,本当だね。でも白木君偉いなー」

 何のことか分からず見返すと,感心と釈明の入り混じった声が返ってきた。

「志望校を決めるのに親の負担を考えているところだよ。普通,そんなことにまで気が回らないのに凄いね」

 何と言葉を返せばいいのか分からなくて,取り敢えず力ない笑みを浮かべる。気付くと右手は頬を掻いていた。

   ***

「……そんなんじゃない」

 昼間の同級生の言葉を思い返し,ぽつりと呟く。その呟きは灯りを点さないせいで沈殿する深夜一時二分の暗がりに拡散して,消える。いつの間にか立ち止まっていたらしく,フローリングの上を這う空気は冷え切った素足から更に体温を奪おうと,容赦なく踝を撫でる。僕は構わず階段から顔を覗かせて,そっと階下の様子を伺った。

 リビングは扉こそ閉められているものの,そこから漏れ出す照明の光と諍う声までは封じ切れていない。玄関の鍵が開けられる音は日付が変わる前に聞こえたから,既に一時間以上あの人達は言い争っていることになる。毎晩毎晩,何か進展するわけでもないのに,どうしてこうも心労を積み重ねられるのだろう。

 ああ,まただ。

 後藤を前にした時とは打って変わって,気兼ねすることなく思い切り溜息を吐いた。両親が感情を露わにして口論しているのにその心境が全く想像できない自分を見つけて,悄然と全身から力が抜け落ちる。僕は人並み外れて醒めているのだろうか。それとも,これは最近の若者であれば当然の無気力なのだろうか。そうだとすれば昼間のあのクラスメイトも,親であるという事実を下手な脅し文句のように感じているのか。

 考えても仕様がないことを見過ごして,足音を立てないよう静かに階段を降りる。細心に意識を巡らせても全く音を立てないということはできそうにないけれど,我を忘れた口から飛び出る怒鳴り声は僕の焦りなど頓着していないようだった。

「子供の育て方もそうだ,頭ごなしに押さえつけるばかりで碌に悠吾のことを見ていなかっただろう」

「見ていなかったのはあなたの方でしょう。悠吾の高校受験の時も,成績が伸び悩んでいたあの子と話そうともしなかったじゃない! 大体,それがあなたの浮気を正当化する理由になるの?」

「話を逸らすな」

「逸らしているのはあなたでしょう?」

「大体というなら,君は週末必ず実家に帰って家の掃除もしていなかったじゃないか。妻として勤めを果たしていない君にとやかく言われる筋合いはない」

「浮気を繰り返すあなたが帰ってくるこの家が嫌になっちゃ悪い? それに不満があるならそう言えばいいでしょう!」

「僕はその前から夫婦関係は破綻していたと言っているんだ」

「何それ。浮気を正当化するためにありもしないことをでっちあげたつもり? じゃあ具体的にどう破綻していたのか説明してみてよ」

 しかし父は弁明できなかったのか,熱り立った足音に続いて乱暴にリビングの扉が開け放たれる。彼はリビングを出たところで階段半ばに立ち尽くす僕の姿を認め,驚いたように一瞬だけ足を止める。けれどすぐさま目を外して,リビングの対面にある和室の方へ逃げ込んで行った。

「悠吾が受験に失敗したらあんたのせいだからね!」

 湿った母の叫びは,音を立てて閉ざされた襖に吸い込まれてしまう。僕は母の嗚咽を聞きながら,肌の上を這い上がってくる冷たい空気にじっと嫌悪感を押し殺そうとしていた。

 僕は,あなた達の道具ですか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る