2. 惑わす月
廊下を歩いていると、シャルロットは、よく知る人物を見つけた。騎士団には似合わない、華奢な身体を持つ男性。歩くたびに、上で束ねられた長髪がふわふわと揺れる。スラッとした後ろ姿の正体は……
「お兄ちゃん?」
「……おや、シャルロットじゃないか」
『お兄ちゃん』と呼ばれた男性・カミーユは、駆け寄ってくる妹に、柔らかい笑みを向けた。
「仕事?」
「あぁ、極秘のね」
「重症なの?」
「かなり」
「お偉いさん?」
「守秘義務があるからね」
「私が手伝えないやつ?」
「そうだね」
このやり取りで、シャルロットは『関われないものだ』と判断し、すぐに身を引く。
「そっか。ありがとう。引き止めてごめんね。お仕事、頑張って」
「そっちも、上手くやりなよ」
去っていく妹に手を振ると、カミーユは目の前の部屋の扉を開いた。
部屋の中には誰もいない。カミーユは電気をつけないまま、金庫の鍵を開ける。そして鍵を開けた後、金庫のそこにある溝に、一冊の本を差し込んだ。
カチッ、という音と共に、金庫の底が開く。カミーユは下に道ができたことを確認すると、そのままハシゴを使って降りて行った。
今度こそ、電気をつけて中に入る。
「……」
無言でカミーユを睨みつける女性の体は、酷く衰弱していた。今も力を使っているせいで瞼がピクピクと動いている。右腕と、右足がない。左目も包帯で覆われている。布団は赤く滲み、出血していることがわかる。
「なるべく早く終わらせますから。少しだけ、辛抱してください。ね、ソフィアさん」
ソフィアは体を起こすと、虚ろな目でカミーユを見た後、ゆっくりと体を倒し、視線を天井に戻した。
「とりあえず、まずは止血しますね」
布団を剥ぎ、カミーユは患部を確認する。腹部だった。止血を始めとし、手際よく、対応していく。
「だいたいの傷は塞がっていますが、やはり、動くと広がる感じですかね? ……動いちゃいましたか。まぁ、そう簡単に悪夢は覚めませんよね……」
少し哀しそうに呟くカミーユの頬に、ソフィアは左手でぎこちなく触れる。まるで、人の死に際のような、随分と冷たくなった彼女の手に、カミーユは救えなかった命を重ねる。わなわなと体を震わせながら、カミーユはソフィアの手をしっかりと取った。
「死なせません。絶対に、死なせませんから」
視線こそ合っていなかったが、ソフィアに想いが伝わったのか、彼女は少し口角を上げて彼に応えた。
カミーユは道具を片付けると、ベッドの隣に椅子を置いて、ソフィアに話しかける。他愛のない雑談だった。返事はない、一方的なもの。しかし、カミーユはソフィアに会うと必ず国の話をした。復興の様子や、民の様子、そして、騎士団の様子を。
その成果があってか、ついにソフィアは動き始める。
「……」
口元が微かに何かを示した。口の動きを見るに、おそらく「かみ」だろう。カミーユはすぐにポケットからメモ張を取り出すと
「こちらですか?」
ソフィアに見せた。コクリ、と首が動く。正解らしい。
「では、ペンも必要ですかね」
カミーユは、メモ帳とボールペンをソフィアの左手の近くに置くと、しばらく、彼女を待つ。ソフィアは何度か指を動かした後、何かを書き始めた。利き手でない分、字はかなり歪だったが、
『私は死んだことにしておいてください』
と、かろうじて読むことができた。
「……どうして、です?」
カミーユが聞けば、ソフィアは再び紙にペンを走らせる。
『また、戦争がしたいのですか?』
その一文で、言いたいことはわかった。もし、自分が生きていると知られた場合。確かに、敵にとっては脅威であり、味方にとっても毒だ。今度はソフィアを殺すため、或いはソフィアを利用するために争い始めるだろう。ソフィアの頭脳は人を救うが、同時に人を殺す。彼女は酷く恐れていた。平和を壊すかもしれない、自身の存在を。
「……それでも、あなたの相方は、あなたの『太陽』は、ソフィアさんを待っていますよ」
カミーユのこんな言葉を受け、ソフィアの顔に困惑が浮かび上がる。
『私は、彼には会えません』
『合わせる顔もない』
悲しそうな笑みに、そんな二文が添えられる。カミーユはその意味に気づくと、拳を強く握りしめ
「力不足で、すみません」
悔しそうに頭を下げた。慌てて、ソフィアは
『違う。悪いのは私』
『ごめんなさい』
『助かります。ありがとうございます』
急いで、そんな文章を残す。だが、カミーユの心には、確かに黒い感情が残っていた。
__隣国が、憎い。
このような姿になるまで彼女を苦しめた隣国が憎い。命を平等に救うべき者でありながら、医者でありながら、彼女をこんな目に遭わせた隣国の者たちを殺してしまいたいと、本気で、そう思ってしまった。
そんな思いを自覚しているからこそ、余計に悔しかった。一人でも自分のような考えを持つ者がいる限り、戦争は終わらない。ソフィアは救われない。
そして、一番戦争を起こす可能性が高い人物こそが、彼女の想い人・ノアだった。万が一、彼が彼女の現状を見てしまえば……何を思い、どんな行動を起こすのか……そんなこと、手に取るようにわかる。
だからソフィアは会えないと言うのだ。会いたくても、会えないのだと。
カミーユは大きなため息をつくと、ゆっくりと立ち上がり
「また、来ますね」
と、その場を足早に去った。彼女を見ることで敵を恨む気持ちが強くなる。ソフィアと交流があったシャルロットではなく、他人である自分が彼女の専属医に選ばれた意味が、ようやく、わかったような気がした。
自分の心に鞭を打ちながら、次の患者の元へと駆けつける。
次の患者は、もしかしたら
しかし、彼らのような『医者』は患者を選べない。果たして、それでも冷静に、「大切な命だから」と、その命を平等に救うことができるだろうか。
医者として『あるべき姿』を貫く難しさを、カミーユは改めて痛感した。
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