本編

 月明かりに照らされたミミの墓の前に、澄夫はひざまずいていた。完成したばかりの墓に、彼は花を手向ける。花びらが風に舞い、儚げな影を作る。


 「ミミ、安らかに眠ってくれ…」


 そう呟いた瞬間、再び聞き覚えのある鳴き声が響いた。


 「ニャア…ニャア…」


 今度ははっきりと、猫の鳴き声だと分かる。声の主はミミではない。けれども、間違いなく猫だ。


 「ミミ…?いや、違う…誰なんだ?」


 動揺を隠せない澄夫。まるで助けを求めるかのような鳴き声がする。

 

 悲痛な鳴き声が夜空に響く。


 「一体、何が…」


 立ち上がり、周囲を見回す澄夫。しかし、闇に目を凝らしてもどこにも猫の姿は見えない。鳴き声だけが、どこからともなく聞こえてくるのみだ。


 風が止んだかと思うと、さらに鳴き声が大きくなる。


 「ニャアア!ニャアア!」


 鳴き声は一匹や二匹のものではない。まるで大勢の猫が一斉に鳴いているかのようだ。声なき声が、夜の静寂を引き裂いていく。


 澄夫は思わず耳を塞いだ。鳴き声の大合唱に、頭がクラクラとする。現実なのか幻覚なのか、その区別もつかない。ただただ、正体不明の猫たちの声が、彼の心を蝕んでいく。


 「い、一体…何なんだ…これは…」


 立っているのもやっとのように、澄夫はその場に崩れ落ちた。ミミの墓を前に、うずくまる彼。現実と非現実の狭間で、戸惑いと恐怖に震えていた。


◇◇◇


 幾分か鳴き声が収まったころ、澄夫はようやく立ち上がることができた。フラフラとしながら、彼は周囲を調べ始める。


 「いったいどこから聞こえてきたんだ…」


 鳴き声の主を探すべく、庭中を探索する。耳を澄まし、鳴き声が聞こえてきた方角へと向かう。


 「ニャア…ニャア…」


 かすかな鳴き声を頼りに、澄夫は庭の奥へと進んでいく。草むらをかき分け、木々の間を縫うように進む。


 「ニャア…」


 今度ははっきりと、すぐ近くで鳴き声がした。


 「そこか!」


 声のした方向へ駆け寄る。しかし、そこには誰の姿もない。ただ、夜風に揺れる草花があるのみだ。


 「どこだ…どこにいるんだ!」


 焦りを募らせながら、澄夫はさらに奥へと進んでいく。鳴き声は一瞬聞こえたと思えば、また遠のいていく。まるで、彼を翻弄するかのようだ。


 「ニャア…ニャア…」


 鳴き声は、あちこちから間欠的に聞こえてくる。一箇所に留まることなく、絶え間なく場所を変えていく。まるで、庭中を駆け巡る無数の猫の姿が見えるようだ。


 「まさか…」


 ふと、ある考えが澄夫の脳裏をよぎる。しかしそれは、あまりにも非現実的過ぎた。


 「…猫の霊なのか…?」


 口に出した瞬間、自分でも信じられない言葉だと感じた。けれどもこの状況を、他にどう説明できるだろうか。


 現実であることを信じたくない、そんな思いが澄夫の内側で渦巻いていた。


 彼は、立ち尽くしたまま、再び鳴き声に耳を傾ける。果たして、この声の正体は何なのか。そして、彼を何処へと導こうとしているのか。


 闇夜に響く謎の鳴き声が、澄夫の心を一層深い闇へと誘っていった。


◇◇◇


 一晩中うなされ、ようやく朝を迎えた澄夫。昨夜の出来事が脳裏に焼き付いて離れない。未だ鳴き声の正体は分からないまま、彼は疲労感に襲われていた。


 「澄夫さん、おはようございます」


 近所に住む老婦人、美代子さんが庭先で声をかけてきた。78歳になる彼女は、この地域に古くから住んでいる。優しい笑顔の一方で、どこか陰影を感じさせる眼差しが印象的だ。


 「ああ、美代子さん。おはようございます」


 重い足取りで庭に出る澄夫。憔悴しきった表情を見て、美代子さんが心配そうに尋ねる。


 「どうされました?随分とお疲れのご様子ですが」


 「いえ…実は昨晩、庭で猫の鳴き声が聞こえて…」


 昨夜の不可解な出来事を話すと、美代子さんの表情が曇った。しばし沈黙の後、重々しい口調で語り始める。


 「澄夫さん、実はこの辺りは昔から『猫の墓場』と呼ばれておりましてね…」


 「猫の墓場…ですって?」


 聞き慣れない言葉に、澄夫は眉をひそめた。美代子さんは続ける。


 「ええ。大昔、この地域では猫を大切な守り神として崇めていたそうです。そして、亡くなった猫たちをこの辺りの土地に埋葬していたのですよ」


 澄夫の背筋に、冷たいものが走る。美代子さんの語る話は、さらに不気味さを増していく。


 「でも、ある時を境に猫たちを葬る風習は廃れ、墓も放置されるようになりました。すると、夜毎に猫の鳴き声が聞こえるようになったんです。まるで、成仏できない猫たちの魂の叫びのようだと…」


 「ま、まさか…」


 震える声で澄夫が呟く。美代子さんの話は、昨夜の出来事と重なり合う。


 「伝説では、満月の夜になると、猫たちの霊が蘇って彷徨うと言われています。永遠の安息を求めて、生者の元へと現れるのだとか…」


 そう言い残すと、美代子さんはするりと立ち去っていった。残された澄夫は、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。


 昨夜聞いた鳴き声は、本当に猫の霊の叫びだったのか。頭の中が、恐怖と困惑でいっぱいになる。全身の毛が逆立つような感覚に、澄夫は思わずその場に座り込んでしまった。


◇◇◇


 夜が近づくにつれ、澄夫の不安は募っていく。美代子さんから聞いた話が、脳裏から離れない。


 「満月の夜に、猫たちの霊が蘇る…」


 窓の外を見やれば、夜空には丸々とした満月が浮かんでいる。まさに、伝説の通りの夜だ。


 「ミミ…お前も、あの猫たちと一緒に彷徨っているのかもしれない…」


 そう呟いた瞬間、カサカサと庭を横切る音がした。


 「!誰だ!?」


 飛び上がるように立ち上がり、庭に駆け出す。月明かりに照らされた庭を見渡すが、そこには誰の姿もない。


 時計の針が零時を指した、その時だった。


 「ニャア…ニャア…」


 再び、あの鳴き声が聞こえ始めた。昨夜よりも、さらに大きく、さらに近くで。


 「や、やっぱり…」


 戦慄しながら、澄夫は声の出所を探る。すると、月に照らされたミミの墓の周りに、ぼんやりとした影が見えた。


 「あ、あれは…」


 そこには、たくさんの猫の霊が集まっていた。薄く透明な姿で、ゆらゆらと蠢いている。生前の面影を残した猫たちが、一斉にミミの墓を囲むように佇んでいるのだ。


 「ミミ…ミミもいるのか…?」


 震える足で近づこうとする澄夫。だが、猫たちは彼に気づくと、一気にさっと散らばってしまった。残されたのは、虚ろな闇だけだ。


 「待ってくれ!どうか、教えてくれ…」


 澄夫が叫ぶが、もう誰もいない。ただ、風に乗ってかすかな鳴き声だけが聞こえてくる。


 ミミの姿は見えなかった。しかし、あの猫たちと同じように、この満月の夜にミミも蘇っているのではないか。そう直感した澄夫は、力なく庭に座り込んだ。


 猫たちは一体何を求めているのか。ミミもまた、安らかに眠れずにいるのか。


 無数の問いかけが、澄夫の脳裏を埋め尽くしていた。満月の光を浴びながら、彼はただ途方に暮れるばかりだった。


◇◇◇


 満月が煌々と輝く夜。庭に集まった猫たちの霊に、澄夫は恐る恐る語りかける。


 「君たちは、何を求めているんだい?」


 掠れた声が、闇に溶けていく。返事の代わりに、猫たちはさらに警戒するようにそっぽを向いてしまう。


 「お願いだ、教えてくれ…ミミも、君たちと一緒にいるのかい?」


 必死に問いかける澄夫。だが、猫たちの霊は彼から離れていくばかりだ。


 「ニャア…」


 その時、弱々しい鳴き声が聞こえた。振り向くと、一匹の霊だけが佇んでいる。見覚えのある三毛の柄に、澄夫の心が大きく揺さぶられた。


 「ミ、ミミ…?」


 震える声で呼びかける。するとその霊は、ゆっくりと彼に近づいてきた。


 「ミミ…ミミなのかい?」


 澄夫が手を伸ばすが、指先は虚空を掴むだけだ。それでも、ミミの霊はすぐ目の前にいる。懐かしい面影を残した瞳が、彼を見つめている。


 「ミミ、どうしてこんなことに…」


 涙があふれ、言葉が詰まる。するとミミの霊は、まるで彼を導くかのように庭の奥へと歩き出した。


 「待ってくれ、ミミ!」


 必死で後を追う澄夫。月明かりに照らされた道を、ミミの霊はひたすら奥へ奥へと進んでいく。


 ついに、ミミの霊が立ち止まった。そこは、庭の最奥部だった。足元には、ひっそりと朽ちた墓標が並んでいる。まるでそれを隠すかのように、木々が生い茂っていた。


 「ここは…」


 呆然と佇む澄夫に、ミミの霊は儚げに微笑んだ。そして、彼女の体がふわりと宙に舞った。


◇◇◇


 ミミの霊が漂う場所。そこは、忘れ去られた猫たちの墓場だった。


 「まさか、こんな場所が庭にあったなんて…」


 ゆらゆらと蠢く霊たちの姿に、澄夫は息を呑む。朽ち果てた無数の墓の中から、骨が顔を覗かせている。


 「彼らは、皆この場所に眠っていたのか…」


 ぼろぼろの墓石を、そっと撫でる。刻まれた文字は風化して読めないが、そこには確かに一匹一匹の猫の人生があったはずだ。


 ふと、ミミの霊が骨の山に降り立つ。するとそれに呼応するように、墓場全体がざわめき始めた。


 「ニャア…ニャア…」


 骨の隙間から、次々と霊が立ち上がってくる。まるで眠りから覚めたかのように、生前の姿を思わせる影を曳きながら。


 「ここに眠る猫たち、彼らもまた成仏できずにいるのか…」


 そう呟いた時だった。ミミの霊がすうっと澄夫の頬に寄り添ってきたのだ。それは冷たくも、懐かしい感触だった。


 澄夫は目をつむり、ミミとの思い出に浸る。生前のミミを抱きしめていた感触が、リアルに蘇ってくる。


 「ミミ、私に何を伝えたいんだい…?」


 ぼんやりと問うと、ミミの霊は静かに庭を見渡した。骨と化した猫たち。未だ彷徨を続ける魂たち。


 「わかったよ、ミミ。君も、この子たちも、まだ安息の地を求めているんだね」


 そう言って、深く頷く澄夫。彼の胸に、新たな決意が芽生え始めていた。


 全ての猫たちを、静かに眠らせてあげよう。そのために、自分にできることを。


 「ミミ、必ず君たちを解放してあげるからね」


 月明かりの下で、澄夫はミミの霊に誓った。彼女もまた、安らかな眠りにつける日が来ることを。


◇◇◇


 翌日、日が沈むと同時に、澄夫は庭へと向かった。両手には花束と、小さな石と彫刻刀が握られている。


 「今夜こそは、君たちを解放してあげるよ」


 そう呟きながら、忘れられた猫たちの墓場へと足を踏み入れる。するとミミの霊が、まるで彼を歓迎するかのように現れた。


 「ミミ、一緒に君たちの仲間を自由にしてあげよう」


 力強く告げると、ミミの霊はうれしそうに身体を寄せてくる。その冷たい感触に、澄夫は微笑んだ。


 一つ一つの墓へ、丁寧に花を手向けていく。枯れた骨に語りかけ、安らかな眠りを願う。そして土が剥がれ落ちた墓石へ、それぞれの名前を刻み始めた。


 「君の名前は、タマだね。そしてキミはミケ…」


 まるで生前の彼らと対話するように、澄夫は語りかける。彫刻刀で名前を刻む度に、かつて愛された猫たちの姿が脳裏に浮かんでくる。


 気づけば夜は更け、澄夫の体力は限界に近づいていた。けれども彼は作業の手を止めない。ミミの霊に見守られながら、黙々と祈りを捧げ続ける。


 「もう少しだ、もう少しで終わるからね…」


 額の汗をぬぐい、最後の墓石へと向かう。そこには、ミミの遺骨もひっそりと眠っていた。


 「ミミ、君にはもう新しい墓石があるけれど、ここにも君の名前を刻ませてくれ」


 すると、ミミの霊が優しく瞳を細め、身体で澄夫を包み込むようにした。その柔らかな感触に、澄夫の頬を涙が伝う。


 全ての墓に花が手向けられ、骨には名前が刻まれた。澄夫は疲れ果て、その場に座り込む。頬に伝う涙は、悲しみではなく安堵のものだった。


 ゆらゆらと揺れる霊たちを見渡し、微笑む。彼らの表情は、生前のようにどこか穏やかに見える。まるで、解放への喜びに満ちているかのように。


◇◇◇


 一晩かけて完成した猫の墓場。朝日に照らされ、花々が鮮やかに輝いている。


 「綺麗だね、ミミ。これで君も、みんなも安心して眠れるよ」


 心から安堵の表情を浮かべる澄夫。するとミミの霊が、優しく彼に寄り添ってきた。これまでにない温かな感触。まるで、生前のミミがそこにいるかのようだ。


 他の猫たちの霊も、次々と墓場に集まってくる。彼らは澄夫を取り囲み、喜びの鳴き声を上げ始めた。


 「ニャーニャー」


 まるで感謝を伝えるかのような、心地よいハーモニー。澄夫はその音色に耳を傾け、目を閉じる。


 ふと、眩いばかりの光が目の前で弾けた。驚いて目を開けると、猫たちの霊が光に包まれ始めている。


 「これは…」


 ミミの霊も、優しい光に包まれていく。最後に一度だけ、澄夫の頬に身体を寄せ、儚く微笑む。


 「ありがとう、澄夫。さよなら…」


 風に乗って、囁くような声が聞こえた気がした。


 「ミミ…!」


 手を伸ばすが、もう彼女の姿はない。かわいい鳴き声を残して、光の中へと消えていった。


 他の猫たちも、次々と光に包まれ、空へと旅立っていく。それはまるで、天国へと続く一直線の道のようだった。


 「みんな、安らかに…」


 空を見上げ、澄夫は手を合わせる。忘れ去られた場所で、長い時を待っていた猫たち。ようやく彼らは、自由を手に入れたのだ。


 最後の霊が光の中へ消えると、不思議な静寂が庭を包んだ。長い歳月を経て、ここはようやく本当の「安らぎの場所」となったのだ。


 「ミミ、君のおかげだよ。ありがとう」


 澄夫は空を見上げ、深く息をつく。胸の奥に温かいものが広がっていく。


 愛する者との別れ。しかしそれは、新たな始まりでもあるのだ。そう感じた澄夫は、清々しい表情で家路についた。


(エピローグに続く)

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