第4話

 結局その日はよく眠れなかった。翌日になって、憂鬱が湊の心を覆う。「君」とか、「他人」とか。確かに出会ってからは二週間も経っていないが、あんなに楽しそうに話してくれたのに。

 長い溜め息を吐いてから、視界を両手で覆う。普段自分に興味を持つ人に対してこちらが少し心を開けばそれでいい。湊の知る人間関係はそれくらいで、簡単でしかなかった。


 

 どれだけ傷付いても、どうやら習慣は抜けないらしい。ふらりと向かったいつもの場所には大きく手を振る理紗がいた。相変わらずの笑みを屈託なく浮かべて。

「もう、何も言わずに帰ったのかと思った」

 理紗は笑っていた。防波堤に腰かけて、足をぶらぶらさせながら。

 湊は勇気を振り絞って言葉を紡いだ。

「ごめんね、何も知らずに理紗を傷つけて」

「えっ?」

「……僕は人と違う環境で育ってきたらしいからさ。それに気付けたのも、高校で普通を知ってからだけど」

 俯いて手に力を込めた湊を覗き込み、理沙は笑って肩を叩いた。

「ごめん、喧嘩でもした? 私、すぐ忘れちゃうんだよね」

 拍子抜けする湊をよそに彼女は前を向く。

「重いのも暗いのも苦しいのも、覚えておくだけ嫌になっちゃうし。もう気にしないで。だってほら、覚えてないから」

 湊はつられて笑みをこぼした。立ち上がった理紗は取り残されたままの湊を見下ろす。

「今度、湊の家族の話聞かせてよ。うちもなかなか厄介だからさ。じゃあね」

 何だ、全部杞憂だったんだ。鼻歌でも歌いそうな勢いで、湊も今の家へと帰っていった。

 



「ただいま。おばあちゃん、今日はお休み?」

「うん。どうしたの?」

 湊は満面の笑みを浮かべて奥の部屋へ走っていく。すぐに帰って来たかと思うと、携帯を手に画面を見せた。

「個展、橘秀一郎の。一緒に行こう」

「あら、もう一人でもいいのに」

「おばあちゃんだけは絵をわかってくれるでしょ。それに『光』が見られるんだよ。本物。那倉町じゃ遠すぎるけど、ここなら電車ですぐだよ。ねえ、これって運命でしょ」

 目をぱちくりさせた祖母はやがて大笑いした。

「久しぶりにその湊を見たよ。やっぱりその人なんだね。よし、行こうか」

 立ち上がった彼女は鞄を手に、意気揚々と進む湊の後を歩いた。



 電車に揺られること数十分、二人は美術館に入った。

 ブースは至ってシンプルだった。大きな白い壁に飾られた作品たち。それこそが絵の繊細さや色の細かい違いを引き立たせていた。湊は小さい頃から彼の絵を幾度となく見てきたが、最高傑作と言われる「光」だけはお目にかかれていなかった。

 確定された感動に少し息を吸って、湊は足を踏み入れた。



***



 忘れていたんだ、あの恐怖を。

 祖母は震えて頭を抱える湊に慌てて声を掛けた。

「湊? どうしたの、湊」

「駄目だ、はは、何でだろ」

 項垂れた湊の肩を揺すり、急いでその場を離れた。家に着いてから、祖母はその手を包んで目を合わせる。

「……おばあちゃんには見えたんだよね? ねえ、どうして」

 湊は大好きな祖母の手を握ったまま泣き出した。彼女は約十年ぶりのその涙に呆気に取られて、それからゆっくりと抱き締めた。

 湊の目に、光は映らなかった。


 



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