第3話
翌朝、毛布の端に重みを感じて湊は目を覚ました。ベッドに腰かけた誰かの背中が映る。不機嫌な視線に気付いたのか、その青年は振り返った。
「あ、起きた。ひかりさーん」
やけに通る中低音の声。湊は思わず顔を顰めた。
「……おばあちゃんしかいませんけど」
「あー、ごめん」
新井家には舞台上で年上の身内をさん付けで呼ぶ風習がある。だが、私生活でもその癖が抜けないのは一人しかいない。
「……楓」
そう名前を呼ぶと、楓は一瞬目を見開いた後で笑った。
「はい、おはよう。久しぶり、湊」
一瞬の間があってから、湊は飛び起きた。
「何でいるの? てか勝手に入んないでよ」
「一応俺の部屋でもあるんだけど。今年新井のコンサート任されてさ。こっちで作曲の依頼もされてたし、とりあえず一ヶ月帰ってきたの」
懐かしいと零しながら楓は部屋を見渡す。
新井のコンサートは、世界に点在する新井一族が年に一度集まる風習から始まった演奏会だ。ただ湊は全く興味がなかった上に、そういう親族の関係を嫌っていた為一度も出席した記憶がない。
「どうでもいい。ただ、いい加減呼び方くらい間違えないでよ。何歳になったのかも忘れたけど、もういい大人でしょ」
「湊に四足せばいいだけなんだけど」
笑い飛ばしてから、楓は尋ねた。
「もうすぐ進学でしょ。湊はどこ行くの? 俺こっちの高校ほとんど知らないけど」
俯いた弟を見て、立ち上がった楓は机の上にあった資料を手に取り、目を見開いた。
「東大って橘秀一郎が教授だったとこじゃん。スカウトされたの?」
湊は何も答えずに毛布を被り直した。
そうして殻に閉じこもるように、顧問にも口を閉ざした。
そして、あの夏が来る。
***
長梅雨が明けた昼下がり、祖母は唐突に話をした。仕事で夏休みの間家を空ける。それは例年通りだが、その間「本家」と呼ばれる家に湊も一緒に引っ越すという。
「何で僕も? 部活入ってないからいいけど」
「……それがね、取り壊すかもしれないの」
荷物をまとめ終えた祖母は、空っぽの鞄を湊に手渡す。
「でもあと一週間学校あるでしょ? 終わってからでも」
「ううん、行く。ほぼ授業もないし」
近くの公立高校に入学した湊は、普通科でそれなりに楽しんでいた。
本家は何もないような村にぽつんと立っていた。息を吸うと潮の香りがして、懐かしい気持ちになった。
「ここは私が育った場所なの。もう一度表に出るまで、湊と二人で暮らした場所」
「結構前? 覚えてない」
一通り荷物を運び終えた後、湊は比較的新しい扉に手を掛ける。閑散とした部屋。フローリングの上にはグランドピアノが置かれていた。
嫌なものを見た。一瞬で顔を歪めた湊はその扉を強く閉め、玄関に放ったままだった鞄を引っ掴んで外に出た。弱い海風に誘われるまま、湊は歩き始める。
僕が暮らしていたのは、いつの話なのだろう。何だかもどかしくて、嫌になって、湊は景色の変わらない田んぼ道をただ歩き続けた。
異変に気付いたのは三十分後だった。途中波音も聞こえたのに、未だ海が見えない。引き返そうか。そう思ったときだった。
「あの」
突然背後から綺麗な声が聞こえて、湊は肩を揺らした。振り返って、思わず見惚れてしまった。
「これ、忘れてます」
幼い頃からの癖は抜けないらしく、無意識に持ってきていたらしい。赤いスケッチブックと、あの日から芯が折れたままの青い鉛筆。
「綺麗な絵。家に飾ってあるのに似てる」
笑みをこぼした横顔に、湊は言葉を失った。学校や道端で会う人と比べ物にならないくらい美人だった。
「ええっと……あらい」
「ソウ。湊って呼んで。君は?」
「理紗」
その日は一時間ほど話した。理紗は気さくで、すぐに打ち解けた。同い年の彼女もこの夏だけ村に住むらしい。家を出てここに来れば理紗に会える、そんな日々が一週間続いた。
「また明日、会えるといいな」
「会えるよ」
「でも私、ここに着くのに時間かかるから、そのうち待たせちゃうかもね」
「理紗が来る限り、僕もここにいる」
今日も「またね」と笑って手を振り、理紗が走って遠くに消えていく。
理紗と出会って一週間が経った頃。別れた後の幸せな気持ちのまま、穏やかな日差しの差す砂浜に寝転がるのが日課になっていた。
その日はいつの間にか眠っていたらしい。目覚めたのは昼過ぎだった。湊は砂を払って体を起こす。
見上げた先に、麦わら帽子を被った彼女がいた。
「……理紗?」
一瞬目が合ってから彼女は走り去った。何もなくなった空間に、波音が入り込む。鼓膜が揺らされるまま振り返った。一瞬、深い青が湊の目を見開かせる。
湊は振り返って初めて、ここが海だったことに気付いた。
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