第2話
放課後、絵梨はいつものように湊を迎えに来た。美術室の真ん中に座り、キャンバスを眺めていた彼が振り返る。
「絵梨。ここに、何か見える?」
「え? ……赤い電車が、田舎を走ってるね」
繊細なタッチで描かれた田園風景。写真のようにリアルなのに、どこか幻のようだ。
「……そっか」
絵梨はそこで初めて気付いた。絵筆を持つ湊の手が不自然なほど震えていた。突然立ち上がった彼は、一瞬絵梨の顔を包んでから崩れ落ちるように座る。
「昨日描いたはずなのに……絵梨の顔はこんなにもはっきりと見えるのに、世界は鮮やかなままなのに」
「落ち着いて、湊。ちゃんと聞くから」
湊は真っ黒な絵筆を床に落とし、頭を抱えながら告げた。
「見えないんだ。僕の絵だけが、何も」
「絵を始めたきっかけを思い出して」
絵梨は帰り道の途中にある公園のベンチに座って湊に言った。珍しく口数の多い絵梨に気圧されて、湊は口を開いた。
「急にどうしたの?」
「前に有名なカウンセラーから教わったの」
「……家にアトリエがあって、それで」
言ってから疑問が残った。嫌でも音楽の家、新井なのだ。当然自宅にアトリエなどない。
「あれ、いつ始めたんだろ」
「物心つく前とか? 次は目標を思い出すの。例えば私は憧れの人がいてね。並ぶ……なんておこがましいけど、認めてもらいたい」
絵梨にそんな人がいるんだと思った。素晴らしい才能の持ち主さえも、羨む存在が。
「……でも、僕もいるな。橘秀一郎さん。あの人になりたい」
「ああ、『光』の人か。あれ凄いもん、きっと教科書にも載るよ」
「本当にいい絵を描くんだ。生きてるうちに会えなかったのだけが残念。小さい頃、よく祖母にお願いして個展と美術館を回ったんだ。彼の絵を見てるとね、言葉を失って、それから描かなきゃって衝動に駆られる。僕はその感覚が大好きで、よくわがままを言ったんだ」
我に返った湊は絵梨を見た。彼女は湊の顔を見て笑った。
「じゃあ次、絵を辞めたいって思った日は?」
「今。描きたいのに描けない。こんなに苦しいことってないよ」
二人の間に沈黙が落ちる。何分経ったか、湊が薄く口を開いた。
「……絵梨さ、新井楓って知ってる?」
「もちろん。さっき言ってた人、私、楓さんになりたいの。大好き」
絵梨は目を輝かせた。
「何か、芸術的な面だとしても、彼女に楓を好きって言われるのは複雑だね」
「え?」
「もう五年以上会ってない兄なんだ」
目を見開いていた絵梨は少ししてから湊の肩を揺すった。
「新井楓は、新井響と神田舞の息子でしょ? 現代の新井家は三人で……音楽の家だよね?」
「こっちでは僕はいないことになってるんだね。はは、悲しいな」
「湊」
名前を呼んだ絵梨は真っ直ぐ目を合わせた。湊の両肩を掴んでいる手に少しずつ力がこもる。
「……本当に言ってる? 湊は、あの新井家で絵を描いてるの?」
湊はただ笑って返した。
先に別れを告げたのは湊で、二人は夕焼けの中を足早に進んでいった。
***
一ヵ月経っても湊は絵を描かなかった。
湊を誘った場所は絶景で有名な公園だった。彼は柵に頬杖をついて、海を見つめている。無表情だからか、とても絵になる景色だった。
湊は目立つ存在だった。本人は無自覚なのか、誰の注目を集めても態度を変えなかった。住む世界が違う。全国を回ったコンクール作品が飾られた廊下に立ち止まり、息を呑んだのを覚えている。ああ、これが。これが本物。
新井湊は天才だ、と。
先生の言葉が今ならわかる。認めたくないけど。どんなに想い合っていたって、私は。
***
「今から天才と言うけれど、類いまれな才能に恵まれた人には神様が憑いてくれるんだよ。生まれ持った道しか歩けない。例えば……平鹿(ひらか)百合は知ってる? うん、女優の。そういう人に会えた時、自分がその神様になれるかを見極めなくちゃいけない」
「神様になる?」
「天才はね、孤独だから神様がいるんだ。有り余る才能は重過ぎるから。神様の代わりになる人に出逢えた時、解放された時、天才は初めて才能を操れるようになるんだよ」
***
「湊」
振り返った彼の作り笑顔に痛いほど胸を刺されて、絵梨はやっと息を吸った。
「友達に戻りたい」
湊は大きな瞳を見開いて固まった。絵梨は熱くなった目を擦った。
「私、ずっと」
言い終わる前に、湊はその長い手を伸ばして絵梨を抱き寄せた。
「お願い、絵梨まで僕を見捨てないで。僕には絵梨が必要なのに」
「違う」
その胸を押して離れる。湊は絵梨と会う度、キャンバスを前に頭を抱えるようになった。隠していたから気付けなかったが、これなら全て合点がいく。湊のために私ができることは一つしかない。
最後はと、滲んだ視界で思いきり笑った。
「今までありがとう」
湊はもう、代わりになる誰かに逢っている。
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