君の住む夏

架織

第1話

君の住む夏





 僕は知っていた。こんな幸せは今だけだということを、この約束が叶わないことを。

 あの頃の僕は全部知っていた。君の笑顔も、その白い手の柔らかさも。

 懐かしい潮の香り、風の吹き抜ける高台。君の麦わら帽子が飛んでいく。


「私は、わかるよ」


 息を呑んだその景色、透き通った声。

 俯いてばかりの日々に現れた君の名前を、僕は知っていた。


 

***

 


「お待たせ、湊(そう)」

 新井湊は絵筆をパレットに戻し、声のする方に顔を上げた。

「絵梨」

 驚いて名前を呼ぶと、福山絵梨は時計を見てその大きな目を見開いた。

「あと五分だ。ごめん、つい見入っちゃって」

 絵梨はここ那倉中学校の有名人だった。幼い頃から習っていたピアノの全国コンクールの常連である。

「用事、もう大丈夫なの?」

「うん。推薦のこと、熱弁されちゃって」

「天才は大変だねえ」

 湊は目を細めた。視界の両脇に連なる木々が、色を変えていることにやっと気付く。

「湊はもう少しで引退だっけ」

「うん。一週間後に結果が来たら、それで」

 そっか。絵梨は見つめていた自分の影から目を逸らして、その視線を湊に移す。

「もうすぐお別れか」

 


「ただいま」

 湊は父方の祖母の新井ひかりと暮らしている。しかし彼女は仕事でいないことが多い。

 湊は足早に自室へ向かい、腰を下ろした。ぼんやりとした視界の中で、数えきれないほどのトロフィーや賞状が輝いている。これらは湊のものではなく、二歳違いの兄である新井楓のものだった。

 湊はその棚の隅に追いやられていた写真立てを手に取った。埃を被っていたが、指でなぞると家族写真が浮かび上がる。大河を背景に並ぶ四人。よく笑っていて、眩しかった。

 僕はもう覚えていない。家族で暮らしていた時のことも、見てきた数々の景色も、全部。

 


 一週間後、湊は顧問に呼び出された。

「東芸大付属。お声が掛かったの」

 近い距離と一向に絶えない笑みに、思わず引いてしまう。

 東芸術大学附属高等学校。さっきのように省略して呼ぶのが一般的だ。名だたる芸術家を生み出していて、高等部はスカウト制という唯一無二の出願条件を提示している。

「遂に那倉中から出るなんて」

 噛み締めるようにそう言う彼女に、湊は少しして苦笑をこぼした。

「お断りします、すいません」

 顧問は頭を抱えた後湊の肩を揺さぶった。

「こんなチャンス、もう来ないのよ?」

 湊は無意識に感情を消した。そして歩き出し、離れていく。いつかのように。

「新井くん!」

 誰の声も、聞こえなかった。


 

 夜九時過ぎ、一人きりの家の扉を引く音が響く。リビングにいた湊はソファーから飛び降りた。

「おかえり、おばあちゃん」

 大好きな祖母の笑顔が返ってくる。

「ただいま」

 湊は音楽の名家・新井家に生まれた。指揮者の父、声楽家の母。間に生まれた楓は天才ピアニストで、最近作曲の才能も見出された。世界を飛び回る三人から離れ、ここ那倉町に来たのは小学二年生だったと思う。

「湊って名前の由来を、いつか聞いたんだ」

 少しして編み物を始めた祖母はぎょっとしていた。

 楓に付ける予定だったのを画数が良くなかったから自分に下ろしてきたこと。奏を湊に、「かなで」を「そう」にしたら、音楽の才能に恵まれなかったこと。

 沈黙のまま、湊は立ち上がった。光を失うことのない祖母の瞳とうっすら目が合う。

「おやすみなさい」


 

***



 綺麗な絵。


 


 僕は、ただ。


 


 ばいばい。


 


 僕は。




***




 ベッドから転がり落ちて目が覚める。大きな音に駆け込んできた祖母を宥め、湊は不思議な夢に深く息を吐いた。

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