第5話 ゴミ捨て場を荒らすカラス

東京の旅から帰ってきた翌朝、私はいろいろな夢をみてぐっすりと眠ることができなかった。


一つ目は無賃乗車する夢であんまり内容を思い出せない。


二つ目の夢は中で私の地元が現在の見慣れた景色からすこしだけ変化し、神戸の異人館を思わせる洋館が私の見慣れたマンションの間に埋まっている奇怪な風景へと変貌を遂げていた。そして地元の小さなスーパーが、温かみのあるオレンジ色の照明で柔らかく照らされていたこと。


この夢の中のスーパーでは、地元の人々が日常の買い物をしている光景があり、それがなぜか映画のワンシーンのように会話劇が描かれていた。人々の表情は生き生きとしており、小さな会話一つ一つが重要な意味を持っているかのように感じられた。


そして、場面が変わり、人々が集まり、共に食事を楽しむ場面があった。美人のおかみさんらしい人がどうしたのと一人やけ酒している中年の作業服をきたおっさんを慰める。そのおじさんはやさしさに包まれていた。そこで目が覚めた。


夢は私の心の奥底を探り、時には忌まわしい記憶を掘り返す。特に小学生時代の楽しかった思い出が、しばしば夢の中で再現される。これは、過去のあの無邪気な日々への憧れが、現実の私の孤独感と直接的に結びついているからだ。映画を見ることが私の夢の素材になることもあり、見た映画が夢に影響を与えることが時折ある。


しかし、その夢の楽しげなシーンの背後には、現実における私の欲求が隠されているような気がしてならない。私が夢で楽しそうに遊ぶ子どもたちと交流する場面は、実は私が今でも求めている「友情」という基本的な人間関係を象徴している可能性がある。夢は、私が表面上は女装やその他の趣味に没頭しているように見えても、本質的にはもっと深い人間関係を渇望していることを暴露している気分だ。この洞察は私にとっては防御反応として作用し、時には現実から目を背けさせるほどの不快感を引き起こす。


今日は働こうか、働かないか迷った。しかし昨日の交通費分ぐらいは稼ぎたいものだ。夜にちょっとだけ働くことにした。私は祖母たちが来る前に封印していた、私の女装コレクションを再び引っ張り出してきた。


東京でいろんな女性服を見てきたけれども、正直もっと自分がときめくための改善の余地はあると思う。それには現在はお金の制約がある。私はメルカリでちょっとづつ出品することを決意する。


ユニクロで手に入れた実用的なボーダーのレディーストップはまだ使えそうだが、衝動買いした大きめのレオタードのニット帽は、私にはあまりにも似合わない。それをメルカリで売ろうと思う。女装カフェで目の当たりにした店員たちは、それぞれに似合うものを確実に見つけ出していた。彼らの洗練された姿は、元々持っているポテンシャルの差が生み出す自然な魅力なのだと感じる。ファッションが嫌いだった理由の一つはこのポテンシャルの差があまりにも大きすぎるからである。


しかし骨格診断、ブルべ、イエベ診断みたいに近頃やかましく言われるようになった風潮には嫌気がさしている。ネットで見かける人たちは、まるでそれが新たな宗教のように、色彩を教義にして日々を送っている。彼らは自らの「カラー教団」に入信し、ブルベだからと青みがかったリップを使い、イエベには絶対に合わないとされる色を避けるかのようにふるまっている。これは一種の女のくだらない占い好きを理解した化粧会社のマーケティング手法によるつくられた信仰であるように思えることからさらに嫌気がさす。


それは結局自分の変えることのできないポテンシャルに向き合うことになるのだから。しかし自分と違うなにかになりたくて始めた頭皮としての女装がこういった現実的な似合う、自分と向き合う、着たいアイテムを無理に頑張って似合わせるようにするという方向性に行くのは皮肉なものだ。それを突き詰めた先にあるのがパーソナルカラー診断、骨格診断に行きつくと思うと、随分と納得がいく。それがもう接続していると思うが親ガチによる「運」の重要性に気づかせてくれ、「運」のいい人を過度に持ち上げず、運の悪い人を排除せず、認めることにつながればいいのだが。


ただかわいいものを着るだけってものは半年ぐらいで飽きが来る。女性下着をみにつけるだけで勃起していた過去が懐かしい。


この冬の季節は、配達員にとって一種の試練の時であり、同時にボーナスタイムでもある。街は寒風が吹き荒れ、人々は家にこもりがちになり、その結果、配達の需要は一層増加する。私にとって、これは必死に稼がねばならない季節である。特に税金の支払いが控えており、その準備のためには今年の稼ぎからして例年以上の頑張りが必要になる。私はまだフリーター歴が浅くまだ税金滞納したことはなかったので、それをした場合何が起こるのかわからなかった。


しかし税金というのは稼いでいる以上、逃げることができない。その事実が、日々の生活に緊張感をもたらす。それはまるで、絶え間なく私を追い詰める銃弾のように感じられる。


個人事業主としての僅かな救済措置を求め、まだ時期尚早であるが私はアマゾンの購入履歴を丁寧に探り始めた。これは税務上の経費として落とせる可能性のある女装グッズを見つけるためだ。


私は日々の生活に丁寧さを取り入れることを心から望んでいる。今のままの自分の状態で日常に新たな希望を見出し、それを大切にしたい。希望のある人生を妄想のなかの優れた自分か、今までの自分は、プリンスやアレサ・フランクリンのような音楽の偉大な才能に希望を託している。


女装がありのままの自分を肯定することを邪魔している気がする。


私は昼間、時間を潰すようにしてアマゾンプライムでアニメを流していた。最近の配信ラインナップを見れば、なろう系の原作をもとにしたアニメがどんどん増えているのが分かる。自分が求めるものが存在するコンテンツは音楽だけになってしまう。


映画に関しても、私には難解なものが多い。外国映画特有の文化的背景やジョークは、私には理解し辛い。しかし、そんな中で「タクシードライバー」や「ジョーカー」のような映画には強く引き込まれる。それらの作品における主人公の狂気や深層に迫る描写は、私が求める稀有な体験を提供してくれた。


夕方になると私は巨大なバックをもって町に繰り出す。私のアパートのゴミ捨て場はカラスによってひどく荒らされていた。私の住んでいるアパートのゴミ捨て場はいつでも捨てていいことになっていて、そのためゴミの量のせいでゴミ捨て場の蓋がしまらないことがある。そういったときカラスが荒らしに来るのだ。そしてこのカラスは結構人間慣れしているのか私が近くをバイクで通っても全然動こうとしない。カラスをまじかでみると、カラスの体の大きさに気づく。夕方になると、私は巨大なバックパックを背負って町へ出かけることにする。バイクのエンジンを入れ、静岡の街へ繰り出そうとすると、おぞましい光景を見た。



私の住むアパートは、いつでもゴミを捨てられるという住人からすらばありがたいルールがあり、その結果、ゴミ捨て場が溢れかえっていることが多い。この自由さが、カラスたちの楽園を形成している。蓋など閉まるはずもなく、羽ばたく黒い影たちが好き放題に荒らす光景は、もはや日常風景の一部となっている。夏の場合には最悪にも大きめのハエが飛び回る。私はたまにこのでかいハエが自分の部屋にゴミを放置してきたときに、入ってきたことがあった。そのときはかなりの恐怖で、その大ハエを追い出すのにかなりの時間を要した。


そして、これらのカラスは、ある種の無礼なまでに人間慣れしており、私がバイクでほとんど触れるほど近くを通っても、まるで私が透明人間であるかのように、堂々とその場を動かない。この野生動物たちの図太さには、私もある種の感心を禁じ得ない。私にもこの図太さが必要である。


ある冬の一日私の21日の誕生日だ。私は今日ほど誕生日を恨んだことはない。20歳の誕生日は母からのみラインが来た。


「誕生日おめでとう、ねえ。もう21歳か。時間が経つのは本当に早いね。若いうちから時間の価値を知ること、それがどれだけ大事かわかるうちに実行してほしい。今しかできないこと、今しか楽しめないことがたくさんあるから、それを大切にして。そして、人生を豊かにするために、常に学び、成長し続けてね。」


そんな部屋の静寂を切り裂くように、急に「カチャ」という金属音が響き渡る。その音を聞いたとき一瞬、心臓が跳ね上がる。それはポストに何かが投げ込まれた音だ。もしかしたら祖母からの手紙かもしれないと思った。


私は慎重に席を立ち、ドアに近づいた。ポストを見ても届いたのは住んでいるアパートのいたづら・嫌がらせの注意喚起の警告書だった。


それにはどうやら隣の住人に壁ドンするものや自転車のタイヤをパンクさせるものがこのアパートにいることが書かれている。もしかしたらちょっと前に私が自転車がパンクしたのもその人のせいかもしれない。ゴミ捨て場があんなに荒れるのもその人のせいかもしれない。


ゴミ捨て場にはたまに酒の空き缶でほとんどが埋まった袋が放置されている。ビール、日本酒、時には洋酒の瓶までがゴチャゴチャと無秩序に詰め込まれており、それは誰かがここで一人、あるいは仲間と共に過ごした時間の名残りである。


これが安価な賃貸で生活するときの代償なのか?さいわい私の両隣にはまだ空き部屋だ。人が入居してくるといまみたいに音楽をスピーカーで流せなくなるかもしれない。


私はしぶしぶ近くのエスポットというスーパーで自分へのご褒美を買うことにした。私はこの自分へのご褒美という言葉が嫌いだ。それは主に女が頻繁に軽々しく使っている感じがするからだ。


私は自転車にまたがりさっそうとでかけた。私が手に取ったのは、慎ましやかなチーズケーキ。これが私の誕生日のご褒美だ。誕生日というものは、実際にはただの日付の繰り返しで、その日が何か特別な意味を持つわけではない。それでも人は、なにか特別なことをしたいと思うのだろう。私にとっては、これが少しだけ特別な瞬間を加える方法だった。


小さなケーキを手にしたとき、少年時代の記憶が蘇ってきた。誕生日にはいつもシャトレーゼの「スターダスト」という名の100円ケーキが登場した。それは私にとっての小さな贅沢であり、特別な日の象徴だった。今日買ったチーズケーキも、その日々の延長線上にある、ささやかな祝福の一つだ。これからは自分で楽しみを見つけていくことが寿命が尽きるまで続くことになる。


宮台真司が刺された。私の思考の深みを増すための灯台のような存在であった。彼の言葉は常に私の興味を引き、私の世界観を形作るのに一役買っていた。宮台に大学一年の時に出会ってなかったらこんなことにならなかったかもしれない。


まもなく世間はクリスマスや年末の祭典へと目を転じる。あたかもこれらのイベントが、何か大きな意味を持つかのように。街はキラキラと飾り付けられマライア・キャリーのクリスマスソングが流れ、人々は無理やりでも幸せを演じる。まるでこれらのイベントが、我々の人生を何とかしてくれるかのように振る舞う。


しかし、これは何の思想もない、ただの集団的な浮かれ行為だ。日本人のこの「何も考えず、流される文化」が私は心底嫌いだ。それは思想性の欠如を、さも長所であるかのように装い、実際にはただのカオスと無秩序を招いている。そのカオスは、混沌とした市場の雑踏のように、一見活気があるようで、中身は空っぽ。これは宮台真司の受け売りだが。


宮台と私がもし対話することになったら感情の劣化した人間とまっさきに批判されるだろう。そう私は宮台のいう感情の劣化した人間だと自覚している。なぜ人は劣化するのかというと、誰かに死ぬ気で助けてもらったことがないことや、親が損得マシーンであること。これは私にばっちりとあてはまった。 私はシステム社会のまさに配達員という入れ替え可能な存在。


私は女に対して自分の人生がうまくいかないことも外部帰属化していることもするどく突き刺されるだろう。でも私の人生がうまくいかないのは明らかに普通の女がちやほやされやすいという傾向からの精神的な攻撃を受けていることは確かだ。


私は本質的な人間関係を築く機会を失い、代わりに一時的な欲望の充足に走る。これが私の女装趣味にも表れているのだろう。異なる自己になることへの憧れから始めたはずが、いつの間にか外見の追求だけに終始してしまっている。


本格的にクリスマスが近づいてきて、街やネットのコメントで浮かれたコメントが目立つ。配達業からかこういう街の浮かれ具合を肌にしみて感じやすい。だからといってチップ文化が根付いた国みたいに、チップしてくれる額はほかの季節と全く変わらない。


クリスマスの季節が近づくにつれ、街中では祝祭の装飾が溢れ、人々のコメントも一層浮かれたものに変わっていく。しかし、配達業をしている私には、この浮かれた雰囲気が一段と肌にしみて感じられる。街を行き交う人々の期待感や喜びが空気を濃厚にする一方で、実際の仕事の現場では、浮かれた雰囲気とは裏腹に、普段と変わらない厳しい現実が待っている。


アメリカのようなチップ文化が根付いている国では、クリスマスシーズンはチップが増えるかもしれないが、日本ではその様子は見られない。配達をしていても、クリスマスシーズンだからといってチップをもらえる額に変わりはなく、お金の流れは他の季節と全く変わらない。


そしてクリスマス当日、私の配達の収入は30,000円を超えた。どこもかしこも、ピザ、ケンタッキーのフライドチキン、マクドナルドのバーガーが次から次へと注文される。きっと各家庭ではクリスマスパーティが盛り上がっているのだろう。その光景は私には外からしか見えない。家の中からは楽しそうな笑い声が漏れてくることもある。その音は私の心をざわつかせる。「やめてくれ」と心の中でつぶやく。それは私が見たくない、参加できない楽しみの象徴なのだから。これがクリスマスの風景――一部の人々は贅沢な夜を楽しみ、私のような者はその配達で生計を立てる。


元日の三日前、母親から「正月帰ってくるか?」というLINEが届いた。私は即座に「帰らない」と返信した。具体的には聞いていないが、妹や親戚たちも集まるだろうという予感がしたからだ。


「実家に帰るというのは、心が休まる場所への帰還のはずだ。だが私にとってそれは、過去に縛られ、現在を問いただされる場所でもある。」と、私はふと考える。


正月の鐘がなった。家々は閉ざされ、それぞれの家庭が新年の幕開けを祝っている中、私の部屋だけが時間から取り残されたような静けさに包まれていた。とくに正月はみんな規制しているようで外から私のアパートの明かりを確認する。かなりごくわずかの家しか明かりがついていない。寒いので駆け足で部屋の中に入り、孤独を紛らわせるためにスピーカーのスイッチを入れる。私の選んだのは、プリンスのアルバム『Purple Rain』だった。私はいままでしかことのない音量を最大にして聞いてみることにした。かつてこの音楽を聞いていた時に、今はもう退去した隣の住人に壁ドンされたことがあった。だから私はこの曲を選択した。


正月の朝が明け、外の空気は新年の寒さで凛としていた。私は近くのスーパーに足を運び、年末に売れ残ったおせち料理の総菜が安くなっているのを見つけた。昆布巻きや栗きんとん、田作りなど、普段手を出さないような豪華な料理がカゴに次々と入る。特に昆布巻きの大袋を手に取り、自宅に戻るなり、野生動物のように思いのままに食べ始めた。


昆布巻きは甘くて磯の香りがして、栗きんとんは甘露煮は期待よりおいしくなく、田作りはぱりぱりとした食感が心地よい。次々と口に運ぶうち、どんどんとお腹が膨れていく。そしてとうとう気分が悪くなった。


昼過ぎ、気を紛らわせるために、私は久しぶりに女装をした。鏡の前でゆっくりとメイクを施し、去年買った未だ着る機会のなかった地雷系のセットアップを身にまとう。青いリップスティックで唇を丁寧に彩る。


夕方になると、普段の正月感覚がなくなり普段の日常に戻っていた。今日初めてラインを開くと母親からおいしそうなおせちの写真と新年のあいさつが送られてきていた。思わずながくため息がでた。


年が明けてから、母からのラインが私のおびえさせた。それは私にとって、新年の始まりを告げる鐘の音よりも重く、深刻な内容を含んでいた。「おじいちゃんが亡くなったよ。葬式は3日後、今回はきてほしい。」読むたびに、心の中で何かが重く沈んでいく感覚に襲われた。


空は鉛色で、窓の外を見ると、冬枯れの枝にカラスが一羽、じっと佇んでいた。そのカラスの目は、なぜか私を見つめているようで、その黒く深い瞳には、何かを訴えかけるような力があった。その視線が私の心に突き刺さり、祖父の死という現実をよりリアルに感じさせた。






























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