第4話 主婦業なんて取るに足らない(達也)
朝の6時半。
鳴り出したスマホのアラームをオフにし、達也はもぞもぞと起き上がる。
同じベッドに寝ていた妻のみなみが、
「今何時…?」
と寝ぼけた声を出した。
「6時半だよ。みなみはまだ寝てな。言ったろ、今日は俺が一日家のことをやるって。まずは朝食作りからだ」
達也は、まだ夢の中にいる一人息子のみつるを起こさないようそっと声をかけ、寝室を出た。
「そっか、そういえば今日だったね……ありがと…」
みなみの返事を後頭部で受け止めながら、そういえば妻から感謝のセリフを聞いたのはいつぶりだろうか、と達也は思った。
***
朝食はトーストに、目玉焼き、ウインナー。
野菜室にトマトもあったので、それも添えることにする。
マグカップを2つ取り出し、インスタントコーヒーを作る。
学生の頃からみなみと結婚するまでの間、一人暮らしをしていた達也にとって、これくらいは余裕だった。
一人暮らしの頃と違うのは、用意する食事が息子も入れて3人分というところくらいだ。
何、大した違いじゃない。
トースターに一気に3枚の食パンを入れようとして、入りきらないことに気づく。
まずは2枚だけ先に焼こう。残り1枚はあとだ。
そもそもみつるは食パン1枚食べきれるのだろうか?
達也は、自分の息子が一食にどれくらいの量を食べるのかを知らない。
フライパンに油を薄く引き、卵を3つ割り入れる。
久々に卵を割るという行為をしたが、奇跡的に黄身を潰すことなく上手く割ることができた。
これは幸先がいいな。というか、俺、料理向いてるんじゃね?
知らず知らず、達也の口からは鼻歌が漏れていた。
***
「おはよ」
みなみが、まだ半分夢の中にいるみつるを抱いてダイニングへ入ってきた。
「え、今何時!?」
「7時過ぎ。そろそろご飯できた?」
達也は慌てて目玉焼きをフライパンからすくい上げ、皿へ盛る。
ちょうどいい半熟具合にするのに、意外と時間がかかってしまった。
ウインナーを焼く時間はない。トマトだけ雑に切りわけ、目玉焼きの横に滑らせた。
トーストとコーヒーはすっかり冷めている。
みつるの前に目玉焼きを置くなり、みなみは
「あ、この子まだ半熟の卵ムリだから。固焼きにしないと」
と言って自ら台所に立ち、フライパンを再加熱した。
さいですか、と呟き、達也はみつるに向かって
「今日は父さんが作ったご飯だからな、残さず食えよ~」
とおどけてみせた。
母と離れたみつるは途端に顔をゆがめ、
「いやだ、いやだ、ママがいい」
と泣き出す。
これでは朝食どころではない。
テーブルにつこうともしないみつるに手をこまねいていると、
目玉焼きを固焼きにし終えたみなみが戻ってきて、みつるを抱き上げた。
ようやく笑顔を取り戻し、食事を始めるみつる。
やっぱ子供は母親が一番なんだな。達也はほっと息をついた。
「今日は私がみつるを幼稚園に送って行ったら、そのまま出かけるから。
お迎えは14時にお願いね。夕飯もお願いできるんだよね?」
みつるの着替えを補助する手を止めず、みなみは言った。
「おう、任せとけ」
やる事がなくなった達也は、スマホに手を伸ばしながら返事をする。
【今日は珍しく俺が有休取得したので、一日専業主夫Day。
妻はこれからエステ、ランチ、デパート巡りらしい。
取り敢えず朝食作りDONE。妻が目玉焼きの焼き加減に文句言ってるけど、まあ、よゆー(笑)】
達成感とともにXの【令和のボードレール】アカウントにポストすると、
【令和さん、優しすぎ!稼ぐ上に家事もできるとか、マジ奥さんの存在意義ないっすね笑
卵の焼き加減ごときに文句つけるとか、奥さん何様?って思いました!これも離婚への布石ですか?】
たちまちそんなコメントがつき、ニンマリしてしまう。
だが。
達也は「離婚」の2文字を見て、思案する。
こんなアカウントを作ってはいるが、俺は別に、みなみと離婚がしたいわけではないのだ。
一度は好き合って結婚した者同士だ。今は関係がぎくしゃくしているが、それでも嫌いになったわけではない。
いつかまた、屈託なく笑い合える日が来ると信じている。
それまでの間、現実世界で上手くやっていくために、こうしてSNSを使ってガス抜きをしているだけなのだ。
「じゃあ、行ってくるから」
達也がXに夢中になっている間に、支度を終えたみなみとみつるが家を後にした。
バタン、と玄関ドアが閉まるとともに、達也は一人、家の中に取り残される。
普段とは逆の立場だ。
***
午前11時。
達也は近所にある大型スーパーに来ている。
夕飯の材料を購入するためだ。
調理工程は簡単なもので、なおかつ妻に「なかなかやるじゃない」と言わせられるようなものを作りたい。
「私もあなたを見習って、普段からもっと気合を入れて料理するね」とまで言わしめたら大したものだ。
スマホを片手にレシピサイトを検索しながら、そんな思惑を抱いてみるが、肝心のメニューがなかなか思いつかない。
ハンバーグ。材料が多い。玉ねぎのみじん切りも面倒だ。手で肉だねを捏ねるのにも抵抗がある。
タンドリーチキン。前日からの漬け込みが必要とある。
ステーキ。高い。それに、付け合わせだなんだと細々準備するのも面倒だ。
……焼きそばでいいか。
達也はチルド麺コーナーに寄り、粉末ソース付き3連パックになった焼きそば麺を手に取った。
野菜はすでにカットされたものを購入する。
最後に豚肉の細切れをカートに入れ、レジを通した。
そうこうしているうちに12時だ。
「腹が減ったな…」
大型スーパー内のマクドナルドで、昼食を購入することにする。
改めて見渡してみると、平日昼間のスーパーは、老人や主婦らしき人がほとんどだ。
そんな中、働き盛りの男性にも関わらずこんな時間にうろついている自分は、周囲にはどう見えているのだろうか。
自意識過剰かもしれないが、達也はなんとなく俯いて顔を隠した。
***
午後2時前。
みつるの幼稚園へやってきた。迎えの時間だ。
ここへ来るのはいつぶりだろうか。
保護者であることを示すネックストラップが見当たらず、昼食後はずっと家探しをしていた。
それがないと園内に立ち入れないことになっている、らしい、というのを達也は昨日みなみから聞いた。
「あら、今日はパパがお迎えなんですね~」
先生に連れられて、帰りの支度を終えたみつるがやって来る。
靴を履き、さて家へ帰ろうかと歩き出すと、みつるは自宅とは反対方向に歩き始めた。
「どこへ行くんだよ、家はそっちじゃないぞ」
「こーえんいくんだよ」
みつるは、あっくんとよしくんと、こーえんであそぶんだよ、と言いながらずんずん歩いていく。
そういえば、みなみが言っていた。
降園後はほぼ毎日、幼稚園の近くの公園へ寄っていると。
いつも大体同じメンバーで集まり、夕方まで遊んで帰るのがルーティンなのだ、と。
「こないだ、用事があったから公園に寄らずに帰ろうとしたら、道端でひっくり返って泣き叫んで大変だったの。まだイヤイヤ期なのかな、あの子…」
そんなセリフまで思い出す。みなみはみつるの発達が少し遅れているのではないか、少しこだわりが強すぎるのではないか、とやたら気にしている。
達也からすれば、そんなみなみこそ「気にしすぎ」なのだが。
いずれにせよ、ここは逆らわず、みつるについて行った方がよさそうだ。
弾む足取りで公園にたどり着いたみつるは、すでにアスレチックで遊んでいる2人の男児の姿を見つけ、駆けていった。
傍には男児らの母親らしき2人が、達也に目を留めぎこちなく会釈する。
達也も会釈を返しながら、さてどうやってこの時間をやり過ごそうか、と気まずさを感じていた。
***
まだ遊ぶの、と言い張るみつるを無理やり引きはがして、帰宅したのは午後5時過ぎだった。
母親たちとの会話が弾むとは思えなかった達也は、仕方なく子供たちと一緒になってアスレチックや鉄棒で遊ぶことにした。
大人同士で会話するより、こちらの方が精神的には楽だ。
ただ、体力的には相当きつい。
もはや何をする気力も残されていなかったが、夕飯の準備をしなければならない。
キッチンに立つと、朝食べた皿がそのままシンクに溜まっているのが目に入った。
そうか、俺が皿を洗わない限り、そのままなのか…
達也は今更ながらそんなことに気が付いた。
***
なんとか夕飯の支度を終え、疲れて寝落ちしそうなみつるを必死で起こしながら食事をとらせていると、玄関の鍵が開く音がした。
その瞬間、やっと救われた、と思った。
「ただいま~、久々にゆっくりしちゃった~」
はいお土産、とケーキか何かの入った箱をテーブルに置きながら、みなみは上機嫌だ。
「どう、主夫業は?一日大変だった?」
「いや、思ったよりは全然楽だったよ」
思わず強がってしまう。
さて、みなみも帰宅したので、俺の一日主夫もこれで終わりだ。
達也はこっそりスマホを取り出し、Xを起動する。
【妻帰宅。一日主夫を終えてみて、妻の言う「主婦の大変さ」ってのも一理あるとは感じた。たまにはこうして労いを】
ここまで書いたところで、洗面所からみなみの絶叫が聞こえる。
「やだ、洗濯回したあと干し忘れてるじゃない!いつから放置してるのこれ!?」
あとついでに言うけどお皿も汚れ落ちてないし料理したあとコンロに油跳ねすぎ!
掃除機だってかけたのこれ!?
みつるの体操服もちゃんと脱衣かごに入れといてよ!
何一つまともにできてないじゃない!
矢継ぎ早に襲ってくるみなみの小言にうんざりながら、達也は先ほどまで書いていた文字を削除し、代わりにこうポストする。
【妻帰宅。一日主夫を終えてみて思うこと。やっぱり仕事の方が大変だな(笑)正直、楽勝。これを大変とか言ってる主婦はたぶん社会でやっていけないと思う(笑)タイパ悪すぎ(笑)】
達也はしばらくの間、ぽつりぽつりと増えていく「いいね」の数を眺めていた。
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