第3話 或る銀行員の没落(達也)
帰宅途中の電車に揺られながら、達也は回想する。
小規模支店ではあるが、営業課長代理としての任を拝命したのは、今から5年前。達也が30歳の頃だ。
同期と比べてもまずまずのスピード出世といえる。
支店長より直々に役職を伝えられ、
「確実に忙しくはなるが、やりがいは保証する。期待してるぞ」
と肩を叩かれたときには、その責任の重みとともに、ゾクゾクする武者震いのようなものも感じていた。
***
覚悟はしていたが、次の日から達也の忙しさは段違いになった。
プレイングマネージャーとして、自分の成績も追いながら部下のフォローにも回る。
残業どころか、家へ持ち帰らないと到底終わらない仕事量だった。
業務の持ち帰りは規定違反だが、半ば暗黙の了解のようなところがあった。
休日は得意先とのゴルフだ。
到底、家のことなどにかまけている暇はなかったが、みなみは文句も言わず家を整え、毎日笑顔で達也を送り出してくれた。
まだ子供もいなかったから、お互いにお互いがすべてだった。
みなみは当時から専業主婦だったが、結婚を機に仕事を辞めさせたのは達也の希望でもあった。
同じ銀行の一般職(今は地域職、というのだったか。どちらでも同じだ、と達也は思う)だったみなみとは、同期入社で同じ支店に初期配属された者同士だった。
新人芸に飲み会の幹事など、支店の新人同士が仲良くなるきっかけはいくらでもあって、次第に天真爛漫なみなみに心惹かれていったのだ。
自然と交際が始まり数年が経った頃。
支店のお局に虐められた、と言って堪えきれず涙を零すみなみがいじらしくて、思わず「結婚しよう」と言っていた。
「仕事は辞めたらいい。俺が守ってやる。みなみのこれからの人生、全部背負うよ」
その言葉通りみなみは寿退社し、達也はますます仕事にまい進した。
その結果が30歳での課長代理抜擢であった。
課長代理となったその年、達也の年収は初めて1000万を超えた。
***
課長代理として着実に成果を上げ続けて2年が経とうかという頃、支店に新入社員が配属された。
珍しい女子総合職社員である。
男ばかりの営業課に紅一点、真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ彼女は、
「田辺美晴です。よろしくお願いします」
と45度の角度で頭を下げた。
実際、田辺美晴はよくやった。
最初は事務アシスタントから入り、基本的な事務を覚える。
新人ながらほとんどミスもなく、教えられたことは乾いたスポンジのようによく吸収した。
「この調子なら、もう営業に出しても良さそうだな」
営業課長つまり達也の上司の一声で、例年より幾分早くトレーニング期間を切り上げ、早速即戦力として動くことになった。
「課長代理、彼女のサポートよろしく頼むぞ。目標も張るからな」
達也は通常業務に加え、未知の「新人女性総合職」のフォローをも担うこととなった。
その、わずか2ヶ月後である。
美晴は達也をセクハラのかどで人事部に訴え、達也は本部の閑職へと異動になった。
事実上の左遷である。
***
軽い気持ちだったのだ。ほんの少しの毒を含む、軽口のつもりだった。
確かに達也は日々の忙しさに疲弊していた。イラつきもあった。
それに、総合職とはいえ女性ということで、本当にキツい業務は暗黙のうちに免除されている美晴に対し、内心割り切れない思いもあった。
俺が新人の頃は、毎晩上司に吐くまで飲まされ、上司の使い走りをさせられ、それでも誰よりも早く出社し、あらゆる雑用、力仕事を担ってきたものだが――
美晴にはそこまでの必死さが見えない。いつもすまして、淡々と、すくすくと、ぶれることなく、大事に育てられているという感じがする。
それが面白くない気持ちが、なかったといえば噓になる。
「課長代理、クレジットカードの目標に、あと一歩足りないんです。どういう先を当たればいいでしょうか」
神妙な顔をして相談を持ち掛けてきた美晴に対し、達也は書きかけの書類から顔も上げずに言い放った。
「あー、もう既存先は当たり尽くしたんだっけ?
既存先がダメなら新規当たるしかないだろ。グループ他社の男と合コンでもしたらどうだ。
女はさあ、体使えばカードの一枚や二枚、作ってくれる男いるだろ。合コンの飲み代も男が出してくれるかもな。むしろ得じゃん。」
片頬で笑いながら、ほんの冗談のつもりだった。
「やだぁ、何言ってるんですか、まじめに考えてくださいよぉ」
そんな答えが返ってくるかと思っていた。
ところが、いくら待っても一向に沈黙のままだ。
怪訝に思って顔を上げると、美晴は能面のような無表情をこちらに向けて、たたずんでいた。
「な、なんだよ。冗談だよ…」
ははは、と自分で笑っておどけてみせたが、ついに美晴は笑顔を返すことなく、くるりと踵を返した。
こうして、このわずか5分にも満たないやり取りが原因で、達也は支店の課長代理という役職を追われることとなった。
***
部下なし、残業なし、目標なし、賞与なし。
行きついた先は、そんな部署だった。
体のいい追い出し部屋だ。
月に1度の有給休暇が義務付けられていて、銀行全体としての「有給取得率」の底上げに貢献している。
中にいるのは達也のように「やらかし」をしてきた者や、良い齢してうだつのあがらない無能ばかりだ。
1000万を超えていた年収は、600万を切った。
みなみとの関係がぎくしゃくしだしたのも、それ以来だ――
***
【仕事のスキルも低そうですよねwww】
Xでのポストについたコメントを思い出し、達也はこぶしを強く握りしめる。
何がわかる。お前に、俺の、何がわかるというのだ。
専業主婦の何が偉い。家事の、どこがそんなに凄い。
誰にでもできることではないか。
俺は、年収1000万のポテンシャルを持つ男だ。
家事くらいその気になれば完璧にできる。そうなれば、専業主婦であるみなみなどお役御免だ。
思い知らせてやる。
達也は再びふつふつと沸いてきた怒りに呼吸が荒くなるのを感じた。
みなみよ、専業主婦どもよ、女たちよ。
お前たちが後生大事に抱えている「家事・育児」とかいう営みは。
お前たちがいうような大げさな大仕事などではなく。
誰にでもできる、代替可能な、生産性のない、くだらない仕事なのだと思い知らせてやる。
帰宅したらみなみに伝えよう。
ちょうど来週は月に1度の有休取得日だ。
「久々に一人でどこかでかけて、ゆっくりしてきたら?家のことは俺がやっておくからさ」
そう言おう。
自分の仕事が、いくらでも代わりの効く、とるに足らないものだと思い知ったときの気持ちが、みなみにわかるだろうか。
それがどんなに悔しいものか。
達也は、自分を追い出したあとの古巣の支店に思いを馳せた。
自分ひとりがいなくなっても、何一つ止まることなく、支店は営業を続けていた。
あんなに必死で、身も心も削りながら働いてきた達也のことなど、一顧だにせず。
達也一人を簡単に切り捨てて、浄化して、何事もなかったかのように組織は動き続けていた。
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