第2話 令和のボードレール(達也)
時は、1週間前に遡る。
大手町にある某メガバンク本社ビルを出、東京メトロの駅へ向かう道すがら、達也は大きくため息をついた。
最近、妻のみなみがますます煩わしい。
午後5時半。
ほぼ定時で退勤する達也のタイミングを見計らったかのように届いた妻からのLINEには、
・食パン
・牛乳
・卵
と用件のみが羅列してある。
というか、これは「用件」とすら言えるだろうか?
単なる買い物メモではないか。
一瞬、「悪い、今夜は残業で遅くなる」とでも返信して、一人飲んで帰ってやろうかと頭をよぎったが、今日は贔屓にしている野球チームのナイター中継があることを思い出し、それを見るためにも早急にお使いを済ませて帰宅しなくては、と駅へ向かう足を速めた。
野球観戦しながらの晩酌だけが、今の達也には癒しの時間なのだ。
***
いつもの電車、いつもの車両、いつもの窓際スペースに身を収めると、ほぼ脊髄反射でスマホを取り出し、Xのアプリを立ち上げる。
【今日も買い物メモ代わりに使われる妻とのLINE。
専業主婦は日中買い物にも行けないのか?
大黒柱への感謝皆無、また一歩離婚へ近づいた】
一気に書き上げ、ポストする。
アカウント名は【令和のボードレール】。
「結婚とは人生の墓場である」との名言を遺したフランスの詩人から名をとったこのアカウントは、妻に対する愚痴アカとして機能していた。
こういう内容をポストすると、賛否両論さまざまなコメントがつく。
【ほんとキツいですよね、こっちは外でストレスまみれで働いてるっていうのに。家事すら満足にできない専業主婦(笑)】
などの賛同コメントは、ほとんどが達也と同じ専業主婦の妻をもつ男性からのものだ。
一方で、
【あなたこそ、誰のおかげで日々働けているかよく考えてみては?
どうせ、家事スキルなんてほとんど無いんでしょうね。離婚されたら孤独死一直線ですね。
仕事のスキルも低そうですよねwww】
といった批判コメントも目立つ。
数としては賛同より批判のほうが多いくらいだ。
時代のせいだろうか、と達也は推測する。
今は少しでも女性を批判するようなことを書くと、すぐに「正義の輩」が出てきて完膚なきまでにカウンター攻撃を食らわされる。
奴らの言動は刃のように切れ味鋭く、誹謗中傷めいているが、「正義は我にあり」と心の底から思っているようなのがたちがわるい。
こういった批判コメントを目にするたび、脳裏に妻の顔がちらついて、余計イライラが増す。
何が専業主婦の大変さ、だ。
達也は先日の夫婦喧嘩を思い返していた。
***
「ねえ、あなた最近朝出るの遅くなったじゃない?ゴミ集めて捨てるくらいしてよ」
晩酌を終え、いい気持ちで床に就こうかとしていた時に、不愉快な話を持ち出された。
「それに、残業もほとんどなくなったんだし、もうちょっと家のこと…」
「うるさいな」
酔いも手伝い、少し大きな声が出た。
いけない、ここでみなみの機嫌を損ねるのは分が悪い。
達也はみなみの両親の顔を思い出し、慌てて怒りを鎮火させる。
みなみの両親は一人娘を溺愛している。
以前夫婦喧嘩をして、達也がやや感情的な姿を見せた際、みなみが両親に大げさに泣きついたので、達也もずいぶんちくちくと嫌味を言われたものだ。
法的手段に出ることまでチラつかされたのには辟易した。
その一件以来、達也はなるべくみなみの機嫌を損ねないよう、
義両親の耳に醜聞が伝わらないよう、最大限気を遣っている。
***
それにしても。
朝自宅を出るのが遅い。
残業もなくなった。
それは、とある出来事をきっかけに、銀行員である達也が小規模支店の営業課長代理という立場から、本部の閑職へと左遷されたことを表していた。
みなみの態度が目に見えて横柄になってきたのも、達也が左遷されてからだ。
すべてはあいつのせい。
あいつが、俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ。
達也は、諸悪の根源である例の女、田辺美晴の顔を思い出し、歯ぎしりした。
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