第3話

 私は今、焼肉屋にいる。


 全力の逃走を試み、とりあえず逃げ込んだこの店で、なぜか追いかけてきた不審者が目の前に座っている。周囲の店員は彼を何ら問題ない客として扱っているが、その事実がさらに私の不安を煽っていた。彼の目的を知るため、勇気を振り絞って尋ねてみる。「なぜ追ってくるんですか?」目の前の異様な人物はじっと私を見返し、ゆっくりとうなずき答えた。


「その命、いただきます」美女に見えるが声はおじさんの彼は冷静に言った。


 これは良くない予感しかしない。確かに人生の重圧に押し潰されそうになることはあるが、こんな方法で終わりを迎えるつもりはなかった。「あの、具体的にどういう意味ですか?」と掘り下げて聞いた。


「命、もう重荷じゃありませんか? そちらをいただきたいのですが」と彼は繰り返すが、その背後にある意図は明かされていない。この見た目は美女、声はおじさんの彼から、何か手がかりを引き出さなくては。


 私はネギタン塩をぼんやりと見つめながら、テーブルに置かれた生ビールを一気に飲み干し、力強く「いやです」と断った。彼は驚いたようにもやしナムルをつまむと、重い沈黙が流れた。その間、彼の小さな咀嚼音が不気味に耳に響いた。


「命、本当に要らないんですよね?」彼が再び言う。私の心は複雑に揺れた。確かに、いつかは自らの手で終止符を打つつもりだったが、それは自分自身の決断で、自分のタイミングで行いたいことだ。


「そうですね……私の人生ですから、その決断も自分で行います。あなたに、そして知らない誰かに、ただ命を渡すわけにはいきません」と私は答えた。


 彼は「もし、私のことをよく理解し、完全に信頼できれば、その時は違うと?」と探るように尋ねた。


 私は思わず「それはそうです」と言いかけたが、すぐに何を言っているのかと反省した。こんな非日常的な状況で、どうしてこんな議論をしているのだろう。人生は予測不可能で、何が起こるか誰にも分からない。


「いや、それはちょっと…」と言葉を濁しつつ、彼女(または彼)が私の軽い返事を真に受けた様子を見て、話を早く終わらせることにした。


「ええ、いずれ」と私は曖昧に笑い、その場の矛盾するユーモアを見出そうとした。死について真剣に話されても、焼肉の匂いと煙の中ではどこか現実味がなかった。


 彼女(または彼)は私の答えに一旦満足した様子で、その奇妙な要求から一時的に解放された感じがした。しかし、彼女(彼)は突然、私の手に持っているビールのジョッキを指して、「それはいただけますか?」と子供のような無邪気さで尋ねた。


 その要求に、私はまたしても苦笑いを浮かべながら、「え?いや、はい、どうぞ」と、命よりはずっと手軽だと思い、ついジョッキを手渡してしまった。彼がビールを飲む様子を見ながら、人間の奇妙さを感じずにはいられなかった。命を惜しむのは当然だけれど、ビール一杯にこれほど寛容になれるのは、どこか憎めない行動だ。


 再び訪れた沈黙は、前回よりも和やかだった。空のジョッキをテーブルに戻す音が、不思議と場の緊張を和らげた。この人物がただの孤独な魂かもしれないと思うと、彼(彼女)との間に流れる空気が少し和らいだ。


 その静寂が少し長すぎた後で、彼(彼女?)は口を開いた。まるでその沈黙が彼(彼女)の言葉の重みを増すかのように、静かに語り始めた。


「実は私、"スターダストボヤージュ"というサービスを提供しております。これは、非日常の旅へと皆さんをお連れするサービスです。ただし、一つだけルールがありまして、それは参加される方々にはこの世を去っていただくことです。まあ、究極のエスケープ、最後の観光旅行とでも言いましょうか」


 私は彼(彼女?)の話に耳を疑った。命を絶ってもらうとは、斬新過ぎるビジネスモデルだ。世の中には様々なサービスが溢れているが、ここまで直接的で究極的なものはなかなかお目にかかれない。これが究極の顧客ロイヤルティを確保する方法なのかもしれないと、半ば感心するように思った。


「ええと、そのサービスは文字通り、この世を去ることが必要なのですか?」と私は訊ねた。


「はい、まさにその通りです。ですがご心配なく、旅の最後には星屑のように美しいものを見ることができます。死とは、私たちが提供する最高のサービスの一部、最終的なリリース、自由への扉ですから」


 彼(彼女?)の言葉はロマンティックであるように思えたが、その背後にある真実の重さを思うと、少しゾッともした。しかし、この提案にもかかわらず、私はその話に引き込まれていく自分がいた。もしかしたら、この焼肉屋での奇妙な出会いが、私の人生に新たな何かをもたらすのかもしれないとさえ思えた。


「実際、どのようなプロセスでその旅は進行するのですか?」と私はさらに詳しく知りたくなった。


「それはもう、皆様には最高の準備をしていただきます。ご家族とのお別れ、遺言の作成、そして当日は美しい船に乗って、星空の下、永遠の旅へと出発していただきます。すべてが終わった後は、皆様が星として空に輝くわけですから、ご遺族には最も美しい星空をプレゼントすることになりますね」


 この説明を聞いて、私は少し戸惑いながらも、その先進的なアイデアに感心してしまった。なるほど、これはただの死ではなく、一種のアートのようなものだ。死を通じて何か新たな美を創造するとは、まさに死生観を根本から揺さぶる発想である。


 私はただ苦笑いをするしかなかった。しかし、その奇妙な提案に心を動かされ、私は少しだけこのスターダストボヤージュに興味を持ち始めていた。もしかすると、これが私の人生の新たな章の始まりなのかもしれないと思いながら、再び焼く肉に目を向けたのだった。死を前にして焼肉を食べるというのは、ある種のシュルレアリスムの極みのようなものかもしれない。


「それで、スターダストボヤージュの旅の行き先はどこなんですか?」と私は興味津々で尋ねた。彼(彼女?)の表情が一瞬で変わり、何か重大な秘密を明かすかのように周囲を見回してから、小声で答えた。


「実は、その行き先というのが宇宙なんですよ。はい、文字通りの宇宙。私たちのサービスは、この地球を離れ、星々を旅する最終的な体験を提供するんです」


 私は一瞬言葉を失った。宇宙と聞いて、最初はその壮大さに心を躍らせたものの、次第に現実の重さが襲ってきた。そうか、これが彼(彼女?)のいう「死んでからの旅」の意味かと。


「待ってください、宇宙ですか?それをどうやって実現するんですか?無理でしょ」


「ああ、それがですね、私自身が異星生命体、つまり宇宙人なんです。だからこそ、このような特別な旅をあなたのような方にも提供できるのです」


 この時点で、私の中で警報が鳴り響いた。宇宙人だと?これは間違いなく詐欺か、何かの冗談に違いない。そんなばかげた話が本当にあるわけがない。私は顔をしかめ、声を荒げて言った。


「ちょっと待ってください、私を馬鹿にしているんですか?宇宙人だなんて、そんな…詐欺ですよね?」


 彼(彼女?)は静かに首を振り、「いいえ、詐欺などではありません。真実です。しかし、信じられないのは無理もないことです」


「いや、信じられませんよ。こんな話」


 場の空気は急速に冷え切り、私は自分が置かれている状況が怖くなり始めた。話が大きすぎて、何が何だか分からなくなってきた。これ以上ここにいるのは危険だと感じ、急いで会計を済ませることにした。


「すみません、会計お願いします!」と私は店員に声をかけ、急ぎ足で支払いを済ませた。すべての手続きを終えると、私は店から出ることを急いだ。まるで何かに追われるように、焼肉屋を飛び出し、人混みに紛れていった。


 後ろから「待ってください!」という彼(彼女?)の声が聞こえたが、振り返ることなく、私はただひたすらにその場から逃げ出した。宇宙人との出会い、そしてその奇妙で信じがたい提案から逃れるように。


 帰り道、私は自分の耳を疑い、今までの会話が現実のものだったのか、幻だったのかと自問自答した。しかし、どれだけ考えても、その答えは見つからない。ただ一つ確かなことは、もう二度とその焼肉屋には足を踏み入れないだろうということだった。


 家にたどり着いた時、私はもう息を切らしていた。安堵のため息をつきながら玄関のドアを開けたその瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


 なんと、リビングのソファには先ほどの不審者が座っているではないか。

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