生きていても大丈夫
ユーライ
生きていても大丈夫
金属バットを振っている。素顔の分からない人影が、手に金属製のバットを握っている。ぶん、ぶん、ぶん。身体が持っていかれそうで心配になるくらい、力強く横薙ぎに何回も振り下ろす。狙いはボールではなく、何もない空を目がけている。バットが風を切る音以外は何も聴こえない。いつからそうしているのだろうか。いつまでそうしているのだろうか。その姿が脳裏に焼き付いて離れない。私は、眼を閉じる。開けると、バットの芯が目と鼻の先まで迫っていた。綺麗な軌道を描いて容赦なく私の顔面を粉砕し、脳みそが飛び出る。暗闇。死。そういう夢をみた。
*
朝、眼を覚ます時は何もない。
この世界にいる意味がない。生きている理由がない。死ぬ必要は、ある。何本かの切り傷が刻まれている手首を見た。薄いかさぶたを剥がすと、血が滲んでくる。顔を近づけて舐めると、鉄の味がした。幸子ぉ。どこかから声が聞こえてくる。自らの腹を痛めて私を産み、しあわせの子と書いて幸子と名付けた女。夫に先立たれ、三十を過ぎて新しい男を探している母親の声だった。
テーブルに並ぶスーパーの総菜を眺める。ぼさっと突っ立ってないで、さっさと食べちゃってよ。口をくちゃくちゃ鳴らしながら食べ物を呑み込む母親の顔は、以前よりも皺が増え、若くはなかった。私が寝入った隙を見計らって男を連れ込みセックスをしていた母親。軋む床鳴り。甲高い喘ぎ声。雌。動物。私はこれから一生誰にも身体を触らせないし、愛さない。いつか殺してやる。今は十歳だから家を出られないけど、義務教育が終わる五年後が限度だ。名前も知らない鳥が、外でぴーぴー喚いている。太陽が顔を出して、一日が始まろうとしている。三階から見下ろす街並みが、朝日で霞んでいた。今日、遅くなるからね。時計の針は七時三分。一時間後には、あの教室の椅子に座らなければならない。ねぇ、ママ。何? 今日休んでもいい? 駄目に決まってるでしょ。ほら、ご飯! こうなるともう選択の余地はない。諦めて腰を降ろし、箸を掴む。焼いた魚は死体だし、卵は鶏同士がセックスをして産み落とされる。学校に着いたら吐こう、と思った。
集合場所まで歩く。登下校は集団で行うように決まっており、高学年になると自動的に班長を任され、旗を片手に下級生を先導しなくてはならない。不審者なんて見かけないし、一年生の時からぶら下げている防犯ブザーはこれまで鳴らした試しがない。時間になると、ぽつらぽつら子供が集まって来る。しかし、数が足りない。人数が揃わなければ学校まで出発出来ない。三年生の男子が退屈紛れに小石を蹴って、私のスニーカーに当たった。クソガキ。数分経って、向こうから黄色い帽子を被った新入生と大人が小走りでやって来る。遅れてしまってごめんなさいね。ほら、謝って。鼻水を垂らしながらぐずっている女子の頭を、女は無理やり押さえつけて頭を下げさせた。私はそれを受けてはぁ、と曖昧な返事をする。薄ら笑いを浮かべた仮面の裏で、一時間目に間に合うのかどうかを考えている。女子は学校に着くまで泣き止まなかった。脳みそと身体から汚物が染み出して、街全体を侵食して止まらない。
私は後ろにぞろぞろ並ぶ子供達を意識せずに、道端にある戸建ての庭先を眺めた。表式には【鈴木】。下校する時間帯になると、この家の庭で金属バットを振っている人間がいる。頭からフードを被ってマスクをしているから正体不明だが、多分女。高校生くらい。前に母親があそこの子は不登校らしい、などと話していた。学校にも行かず、夕方になると自宅の前でバットを振る。何の意味があるのか、理由があるのか。ただすれ違う度にああ、やっているな、と思い、周りを気にしない真剣な眼差しをいつの間にか追いかけている。すらりと枝のように細い身体。バットが空を切る音がリズムを刻む。その光景はどこか調和が取れていて、不純物がない。いつからか勝手に金属バットさん、と名付けるようになった。構えたバットには計り知れないパワーが秘められていて、世界をひっくり返す謎があるに違いないと信じている。早朝の今、鈴木家は静まり返って物音一つしない。
教室に入ると、丁度チャイムが鳴り出した。二十数人の視線を一斉に浴びながら、自分の席に座る。既に担任から事情を聞いているらしく、誰も言及してこない。
えー、では教科書の百十六ページを開いてください。先週は……三段落目まで進めたんだよね。じゃあ、今日は廊下側から行こうかな。間延びした調子で授業を進めていく担任の声。同時に、隣から動物の鳴き声がした。あう。あう。うー。眼の焦点が合っておらず、半開きの口からは涎が垂れている。オイ高橋ィ、先生が話してんだから黙っとけよ。後ろの席に座る男子が例によって小馬鹿にする。それでも高橋は黙らない。意思疎通が出来ないのだった。高橋は特別支援学級に入っている知的障害持ちなのだが、この五年一組の授業に週一、二回のペースで参加している。学校側の理解と家族の支えと本人の努力。諸々の理由はあるらしいが、“普通”学級に障害者が参加してどうなるというのだろう。虐められ、蔑まれ、疎んじられる。○○○と呼ぶ生徒もいる。私だって高橋は人間以下の動物だと思っている。そんな連中が寄り集まった小さい箱の中で道徳の授業をするのが間違っており、虐めを黙認する担任も大人として間違っていれば、それを直接言って怒らない私も間違っている。この世界は全部間違っていて、最初からどうしようもない。解決するには全部終わりにして、リセットするしかない。金属バットさんならば教室はおろか、校舎そのものだって破壊出来るだろう。そうして、私をここから連れ出して助けてくれるはずだった。
佐藤さん。名前を呼ばれ、顔を上げて教卓の方を見る。百十七ページの……後ろから七行目、読んで。いつの間にか音読の順番が回ってきていた。慌てて立ち上がり、教科書を持ちながら文章を読んでいく。さっき……の話……はきっ、とそりゃ、あ、神、様の……しわざ、だぞ。声を出すのが嫌いだ。いつも舌が絡まって、頭を巡らせても何テンポか遅れて言葉が出てくる。お……れは、あれか、らずっ……と考えて、い……た……がどうも、そ……りゃ、人、間じゃ、ない……神、さ、ま、だ。静まり返った教室に、私の声だけが響く。不細工で醜くて、そう、まるで。ああー。高橋が唸る。手に汗が滲む。神さ……まが、お前、がたっ、た……一、人、になっ……たのをあ、われに、思……わっ……しゃっ、てい……ろん、なも、の……をめぐ、んで、くだ……さる、んだ、よ。誰かが笑っている。私を見て笑っているに違いない。いつからこうなったんだろうか。クラスメイトとまともに会話が出来なくなった。言葉がつっかえて馬鹿にされると思って、人と話すのが怖くなった。そのまま孤立していれば担任や母親から心配されて鬱陶しいので、たまにはこちらから輪に混ざろうとする時もある。教室の隅にいる、私と同じ大人しいタイプの女子達に声を掛ける。ねぇ、何の話してるの? 不自然にトーンを上げて。アニメ。最近流行ってるやつなんだけど。へぇ、そうなんだ。ここから先が続かない。私が黙ったままでいると、相手も黙ってこちらの反応を探っている。何も出てこない。好きでもない他人に無理やり自分を合わせられない。かろうじて、ぁ――と言葉にならない音が漏れる。いいよ、無理して合わせてくれなくても。そうして、一方的に会話は断ち切られる。私と世界の間には透明な壁がある。破壊する方法は誰も教えてくれない。
放課後。一刻も早く帰るために階段を早歩きで降りていると、踊り場で担任に会った。そうだ、佐藤さん。ちょっといい? 断るわけにもいかないので、仕方なしに職員室まで付いて行くと、担任は自分のデスクに座り、勿体ぶった間を作ってからこう言った。あのね、もうちょっと高橋さんと仲良く出来ない? 怒気が込められた低い声音だった。え? と思わず訊き返す。何故今更その話になるのか。高橋が“普通”学級に来るようになってからもう半年は経っているし、表立って虐めを行っている生徒は他にいる。私はたまたま隣の席になったというだけで、知らぬ存ぜぬを貫き通しているつもりだった。𠮟りつけるなら私だけが対象になるのはおかしい。感情が上手く言葉に変換出来ないまま時間が過ぎる。その態度をどう思ったのか、担任は明確に怒っている表情を作った。
高橋さんはハンディがあるのに必死で努力して授業を受けている。邪魔する権利は誰にもないんだから。皆だって高橋さんをクラスの一員だと認めているじゃないか。それなのに佐藤さんだけ、なんでそう――。担任は口を濁らせる。どこが、と叫びたくなったが、何も言い返せない。この人は何も分かっていないんだ。だからさ、低学年の頃はもっと活発で、友達と仲良くしてたそうじゃないか。何か悩みがあるなら先生に話してみて。怒らないから。さっきまでとは打って変わって、気持ち悪いくらい優しい調子。駄目だ、ここで油断して心の内を明かしても傷つくだけだ。こういう態度を取る大人は信用出来ない。理解しているのに、勝手に口が動いていた。
「どうせ人間って分かり合えないじゃないですか。人それぞれ全然違うし。そう思うとダルくて……」
一言発する度に、担任の顔が変形していった。作り笑いが少しずつ引いていき、真顔になる。石ころを見つめるような、とても冷たい眼差しだった。
だってそれは仕方のないことでしょ。担任はそう呟いた。たったそれだけ。それ以上は何も語らず、無機質な丸い二つの眼玉は真っ黒だった。冷や汗が身体を伝う。ここにはいられない、と思った。とにかくここから離れなければならなかった。恐らく担任はまだ何か喋っているようだったが、全く聞き取れない。宇宙人の言語としか思えなかった。
校舎を飛び出し、近くにある公園まで走る。滑り台とブランコ、砂場だけしかない小さい公園。私は砂場に半ば埋もれている土管に潜り込む。ランドセルを降ろし、カッターを取り出す。長袖をまくって、手首にカッターを押し当てた。薄い線を引くと、血が流れ出てくる。これだけは誰がなんと言おうと、私がこの世界で生きている証だった。土管の中に差し込む光を手首にかざし、赤い色を見つめる。痛いとは感じなかった。手を胸にまで持っていき、心臓の音を知る。頬には涙が伝っていた。
*
どのくらい時間が経ったのか、いつの間にか外は夕焼け色に染まっており、私は土管を出る。家に帰りたくもなければ、学校に行きたくもない。どこにもいたくない。そうだ、金属バットさんは今日もバットを振っているだろうか――? 学校で受けたショックはまだ消えないけれど、金属バットさんを見に行けば心は晴れるかも知れない。
ふらふらと鈴木家の前を横切ろうとする。不自然にならないよう、通りすがりのふりをして覗き込むと果たして金属バットさんはいた。しかし、何か様子がおかしい。玄関の前で座って俯いている。バットは手にしていない。周囲に人の気配は無く、誰も気付いていないようだった。どこかの家で飼われている犬の遠吠えが、遠くからする。
「何してるんですか」
金属バットさんが顔を上げる。マスクの白い生地に赤い点が数か所打たれていた。それは見覚えのある、さっきまで自分の身体を伝っていた血の色と同じだった。金属バットさんが立ち上がり、こちらまで歩いて来る。表情は相変わらず窺い知れない。腕を掴まれて無理やり引っ張られ、玄関の扉を乱暴に開けると家の中に放り投げられた。すぐさま扉を閉め、鍵を掛ける。そしてそのままフードとマスクを外した。長い髪がばさっと広がって、落ちる。
人間の顔だった。私が脳内で思い描いていた“金属バットさん”という架空の存在ではない、紛れもなく存在している一個の人間が眼の前にいた。どこにでもいる他人であり、それらを全部足して割っただけの何者でもない、至って平凡な素顔だった。朝、自分の顔を鏡で見た時に覚える違和感と同じかたちをしていた。
「誰にも言うな」
その人間――いや、鈴木さんは、依然として私を見下ろしたまま口を開く。
「私がいまここにいたことを誰にも言わないでほしい。そう約束したら帰す」
背後を振り返って、陽が落ちた薄い暗がりの中を探る。アパートよりは大分広かったが、間取りはそう変わらないように見えた。手に棒状の何かが当たる。床に転がっているのは金属バットで、鈍く光っている柄の半分が変色した液体で濡れていた。廊下の向こう側にある、僅かに開いた扉の先から異臭がする。立ち上がろうとして、鈴木さんに足を掴まれそのまま盛大に転んだ。フローリングに鼻柱が思いきりぶつかってぐにゃり、と圧がかかった感触が伝わる。
「殺したんだよ」
その一言を聞くと、私は気持ち悪くなって吐いた。給食で食べたわかめご飯が胃液と混じり、おかゆ状態になったものがべちゃべちゃと音を立てて口内から崩れ落ちる。
「……何で」
かろうじて絞り出した私の問いに、鈴木さんは口元に薄い笑みを浮かべながら応えた。
「あんたが毎日家の前を通りかかっていたのは知ってるよ。だって、“普通”なら学校に行ってるはずなのに、自宅の庭でフルスイングなんだからそりゃ物珍しいよね。他人からすれば意味不明だろうけど、私なりの理由はちゃんとある。理由は、あるんだ。変わらない現実に対しての抵抗っていうか……。もちろん、親を殺そうと思って練習がてらバットを振り回していた訳じゃない。いつも通りだったんだよ。不登校の娘が何をしていようが文句の一つも言わなくなった癖に、今日に限ってこれからどうするつもりなの、って。皆ちゃんと学校に行って将来を考えてるのに、何やってるんだって。今まであなたをきっちり育て上げてきたはずなのに。そう言いながら泣き始めた。散々甘やかして社会不適合者に仕立てたのはどこの誰なんだよ。私の気持ちなんて何一つ知らない癖に。そう思うと、途端に全部どうでも良くなった。後はよく覚えてない。……ああ、何でこんな身の上話してるんだっけ。小学生のあんたに話してもしょうがないのにね」
「分かるよ」
「は?」
「私だって、親を殺したいと思ってる」
「……ガキのあんたに、何が分かんのよ。小学生のガキが」
「そっちだってまだガキじゃん」
鈴木さんが私の身体の上から馬乗りになって、拳を振り下ろす。腕を使って防ごうとしても、力任せにガードをこじ開けられそうになって、押し合いへし合いみたいな状態になった。小学生が高校生相手は分が悪い。瞬間、手首を掴まれて袖がはだける。リストカットの跡を見て、鈴木さんの動きが止まった。
「まだガキなのに、こんなことしてどうにかなると思ってんの」
「それでも鈴木さんはバットを振り続けていたでしょ」
「だから、本当に殺すつもりじゃなかった!」
「逃げよう」
「どこに」
「とにかく、ここじゃないどこか」
「そんな場所は無いよ。警察に捕まって、私の人生は終わり。ここから先は無い。もう少ししたら、父親も帰って来るし」
ピンポーン。インターホンが鳴った。通りすがった誰かが異常を察したのかも知れない。立ち上がって鈴木さんの手を取る。明らかに動転して、眼に涙を浮かべながら顔を歪ませて頭を横に振っている。守らなくちゃ。そう思ったが、しかし、何故? ともう一人の自分が質す。このまま逃げてどうなるっていうんだ。二度目のベルが鳴らされる。迷っている暇はない。
私と鈴木さんは、キッチンにある裏口から外に出て走った。どこに行こうとしているのか自分でも分からない。次々と流れ過ぎていく視界の端に、朝会った新入生の母親が飛び込んできた。一見して普通ではない私達に声を掛けたようだが、振り返りもせず「死ね! 糞ババア!」と叫ぶ。後ろの鈴木さんが息も絶え絶えに「誰!」「知らない!」。全く、一体何をしているのだろう。息切れで苦しくなって、全身が炎を立てながら燃えていた。不意に生きている、と感じる。おかしくなった。心臓が剥き出しになっているような気がして涙が出た。角を曲がった先に駅を見つける。思い立って二人で無人の改札を通り抜けた。電車が来るまで時間があるようだったので、息を整えるためベンチに座る。
一旦冷静になると、無謀さに気が遠くなって力が抜けた。鈴木さんから言われた通りにしていれば、普段通りの生活に戻れたに違いない。でも、戻ったところでどうしようもない。どこまで逃げるのか、あては無い。敷かれている線路がどこまで続いているのかも知らなかった。
「思い出した」
隣にいる鈴木さんが、まだぜーぜーと息を切らしたまま声を出す。
「佐藤、だっけ。私がまだあんたと同じくらいの頃、町内の集まりか何かで会ったよね。確か、私に面と向かって言ったんだ。好き、って。大人に言われた通り、ちょっと面倒をみてやっただけなのにさ。今の今になって思い出したよ。……下の名前、何だっけ」
「幸子」
「陽菜」
「え?」
「私の名前。そういうことなら、もうそれでいいよ。考えるのは疲れた」
くっくっ、と笑いをこぼす鈴木さんの隣で私も笑った。確かに、そういうことなのだと思った。私達はまだ何も知らない子供で、助けて欲しいと叫んでどこにも届かない。電車がホームに滑り込んでくる。車体の影と轟音に隠れて、私は彼女の頬に触れた。
生きていても大丈夫 ユーライ @yu-rai
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