難病ヒロイン、ハードボイルドに殴り込み

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第1話

 四月中旬に入り、桜が満開になった頃、ジュドグサンムの別荘に四人の男が集まった。その中の一人がワ・ロルカという名前だった。死神だの、一匹狼だの、筋者に付き物の物騒な通り名がわんさかある奴だ。ジュドグサンムは、ワ・ロルカが気に入っていた。正確には、ジュドグサンムの娘がワ・ロルカを大層気に入っていた。難病を患い、余命いくばくもない少女だ。その娘が、どうしてワ・ロルカのようなヤバイ奴を好きなのか、誰も説明できない。人を好きになるとは、そういうものなのだろう。

 だが、どうしても理解できない、あるいは納得できない男が、ちょっとばかりいた。異世界イタリア人のヴィットリオ・ダ・シルヴァ・デパルマ。根っからのイタリア人にしては、面構えが甘い。BLゲームの主人公の弟に転生したら、いつの間にかメインキャラになっていたからだろう。悪役令息に転生して、隣国の王太子にやたらと気に入られた男もそうだった。名前は、ジャン・ファンチェミン。髪は黒。中背で、体がガッチリした悪党だ。もう一人、ローラーガール・ジュリエフィッシュ。元料理人の男性が異世界に転生して、国王陛下の胃袋を掴んだ。最初は女装していた。それで自分をローラーガールだと名乗った。それが国王陛下の胃袋を鷲摑みにした理由なのかと尋ねられたら奴さん「うふふ」と笑って答えない。

 この三人が不満を抱いた。ワ・ロルカのような危ない男より、自分らの方がジュドグサンムの娘と契約結婚するのに相応しい、とジュドグサンムに文句を言った。それで、この会合が開かれる運びとなった。

 本来であれば、この三人がとやかく言う筋合いではない。ジュドグサンムの娘が、死ぬ前に好きな人と結ばれたいと願い、その相手にワ・ロルカを選んだのだ。誰が何を言おうが、何だってんだ! お前らには関係ないだろうが、すっこんでろ! で、終わる。それだけのことだ。

 しかし、ここは異世界。変なルールがまかり通る。異世界の最高神ビーズログは、街娼巫女十数名を神がかりの集団ヒステリー状態にして彼女らに、こんなことを叫ばせた。

「神託だちょ~! 聖なる、精なる、性なる、ご神託だちょ~! ジュドグサンムの娘の結婚相手を、四人の男の中から選ばせるよッ! そいつらの名はッ!」

 死神あるいは一匹狼ワ・ロルカ。

 BLゲームの主人公の弟に転生したら、いつの間にかメインキャラになっていたヴィットリオ・ダ・シルヴァ・デパルマ。

 悪役令息に転生して、隣国の王太子にやたらと気に入られたジャン・ファンチェミン。

 異世界に転生して、国王陛下の胃袋を掴んだ元料理人の男性で女装家ローラーガール・ジュリエフィッシュ。

 名指しされた男のうち三人は乗り気になった。本命の男ワ・ロルカは、そうでもなかった。女房を亡くしたばかりで、そんな気分には到底なれなかったのだ。

 だからワ・ロルカは、ジュドグサンムの別荘に来たには来たが、自分は辞退すると言った。

「お嬢さんに悪いが、ジュドグサンム。そう言ったわけで、どうか勘弁してほしい」

 頭を下げるワ・ロルカをジュドグサンムは、苦虫を嚙み潰したような顔で見た。ジュドグサンムは、今は街の顔役として表の世界で生きているけれども、昔はワ・ロルカを同じくらいの狂暴な筋者だった。娘の気持ちを考えたら、ワ・ロルカに身を引いて欲しくない。場合によっては、相手を叩きのめしてでも従わせたいのだ。だが、そんなことをしたら、自分の娘は泣き叫び、父親を非難するだろう。娘に嫌われたい親父はいない。とはいえ、このままでは娘が悲しむのは火を見るより明らかだ。

「ワ・ロルカよ」

 出入りで死んだ一人目の息子が生きていれば、ワ・ロルカと同い年だったな。そんなことを思いつつ、ジュドグサンムは言った。

「お前以外にいない。考え直せ」

「俺には無理だ」

「すまんが、お前以外には考えられん」

「嫌だよ」

「だが、それしかないんだ」

 ワ・ロルカは右手を軽く曲げ、左手で椅子の足をさすった。どうにも落ち着かないのだ。ジュドグサンムには義理がある。そうでもなければ、ここへは来ていない。

 落ち着かないワ・ロルカを見て、花婿候補の他の三人は、苛立ちを隠そうとしなかった。嫌なら出てけ! 後は俺たちが決める。そう思っていた。ジュドグサンムの義理の息子となれば、贅沢ができる。今でも愛とカネには不自由していないが、十分あったとしても、もっと欲しい。特に、カネが。

 しかし、この三人には「とっとと出てけ!」とワ・ロルカに言う度胸はなかった。ただ、心の中で「早く消えろ!」と毒づくだけだ。

 三人のテレパシーが通じたわけではないが、ワ・ロルカは言った。

「それじゃ、俺はこれで」

 立ち上がった。そのときだ。

「待って! 待ってください!」

 部屋に若い男が入ってきた。ジュドグサンムの二番目の息子だった。

「お姉さんが、ワ・ロルカさんに会いたいと言っています」

 ジュドグサンムがワ・ロルカを見た。ワ・ロルカは言った。

「行くよ」

 ジュドグサンムの二番目の息子はホッと笑顔を浮かべた。その後に続いてワ・ロルカは歩く。その背中に声を掛ける。

「リュクセレリュクス、調子はどうだ?」

 リュクセレリュクスは肩越しに答えた。

「いいよ、順調だよ」

「そうか」

 ワ・ロルカは頷いた。ジュドグサンムの娘が休んでいる寝室に着いた。リュクセレリュクスはドアをノックして言った。

「ワ・ロルカさんを連れて来たよ」

 ドアの向こうから弾んだ声が聞こえてきた。

「どうぞ、入って!」

 リュクセレリュクスはニコッと笑った。ワ・ロルカも釣られて笑った。リュクセレリュクスがドアを開けた。その前を通り、ワ・ロルカが室内に入る。お姫様ベッドに寝ていたワーニャが飛び起きた。

「こんにちは、ワ・ロルカさん」

「具合はどうだい?」

「いいよ、でもね」

 ワーニャは悪戯っぽく片目を瞑った。

「実は、いけないの! ホントはね、寝ていないといけないの。だから、また寝るね」

 そう言ってベッドに横になり、毛布を頭にかぶる。ワ・ロルカは言った。

「それなら、帰るよ」

 ワーニャは上半身を凄い速さで起こした。

「待ってよ! 十七歳の若さで死んじゃう女の子に、冷たくしないで!」

 それを言われると弱い。ワ・ロルカはベッドの横にある椅子に座った。ワーニャはニッタラニッタラと笑い、ワ・ロルカに言った。

「楽にして」

「ありがとう」

 ワ・ロルカはリラックスしてベッドの向こうのベランダに目をやった。満開の桜が見える。その先に海が見えた。暖かな春風が室内に流れ込む。郊外の高台にあるだけあって、街中よりも遥かに空気が美味い。ジュドグサンムは娘のワーニャのためだけに、この別荘を建てた。きれいな空気のところで療養すれば、少しでも長生きするのでは、と思ったのだ。今のところ、その目論みに成功している。それがいつまで持つのか? 断言はできないが、それは異世界の最高神ビーズログの気持ち次第だろう。

「ワ・ロルカさん、お願い」

「ん?」

「今日も朗読をお願い」

 そう言ってワーニャは弟に目で合図した。心得たもので、弟のリュクセレリュクスは召使のように進み出て、姉のワーニャに本を手渡した。

「栞を挟んでいるから、そこを読んで」

 子供の頃からワーニャは本が好きだった。自分で読むより、他人の朗読を聞くのが好きだ。とりわけ、ワ・ロルカの朗読が好きだった。その理由は、声が良いからだ。

 ワ・ロルカの亡くなった女房も、夫の美声が好きだった。彼女は、よく言っていたものだ。

「あンたさあ、ヤクザなンか辞めて、声優さンになったらどうよ?」

 ワ・ロルカは笑って相手にしなかった。女房は諦めない。

「低音の魅力って、あンのよ。女に安心感を与える声質なのよ、あンたの低い声は」

 ワーニャも、それで安心感を抱くのだろうか。ワ・ロルカに朗読をせがむ。

「分かったよ」

「ありがとう!」

「ここを読めばいいのか?」

「うん!」

 ワ・ロルカは朗読を始めた。


 ☆ 異世界で起きた戦争の記録


 昭和十六年(1941年)十二月八日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、開戦当初は日本軍が優勢だったが、次第に連合国側が優位に戦いを進めるようになっていった。

 昭和十七年(1942年)六月、日本軍はミッドウェー海戦で航空母艦四隻を失う惨敗を喫する。

 昭和十八年(1943年)二月、日本軍は数多くの餓死者や病死者を出したガダルカナル島の防衛を断念し、同島を撤退した。

 同年五月、アッツ島守備隊が玉砕する。

 同年十一月、マキン島とタラワ島の守備隊が全滅する。

 かくも悲惨な戦況に心を痛める軍人がいた。

 その男の名は牟田口廉也むたぐちれんや、日本陸軍の中将である。

 彼は、日本が苦境に陥っている一因は自分にある、と強く思い込み、その責任を深く感じていた。

 話は昭和十二年(1937年)に遡る。当時、牟田口は支那駐屯歩兵第一連隊長として北京(当時は北平ぺいぴんと呼ばれていた)郊外で中国軍の動きを警戒する任務に就いていた。そこで発生したのが日中両軍の軍事衝突、いわゆる蘆溝橋ろこうきょう事件である。この戦いが端緒となって、日中両国は全面戦闘に突入した。日中戦争(支那事変)は日本軍が優勢に戦争を進めたが中国軍は頑強に抵抗し、戦局は泥沼化した。難局を打開するため、日本軍は南方への進出を目論み、英米との戦争を決意する。そして始まったのが太平洋戦争(当時の日本側の呼称は大東亜戦争)で……本稿の最初に戻るのである。

 牟田口廉也は思う。支那駐屯歩兵第一連隊長である自分が別な対応をしていれば蘆溝橋事件は小規模な武力衝突で終わっていたかもしれない。そうすれば泥沼の支那事変は起きなかっただろうし、膠着した中国戦線を好転させるべく始まった大東亜戦争も当然、起きなかった。

 責任感の強い彼は、何もかも自分が悪いのでは……とまで思い詰めてしまった。

 自身の罪を償う唯一の方法は戦争に勝利すること以外にありえない。

 日本軍が占領したビルマ(今日のミャンマー)を防衛する第十五軍の総司令官となった牟田口はインド進攻を決断した。日本の奇跡的な逆転勝利のために、イギリスが支配するインドを占領しようと考えた彼は、多くの反対意見を押し切り出撃した。

 牟田口廉也が考え出したインド攻略計画つまりインパール作戦は五万人の兵力を失う大惨敗で終わった。それが昭和十九年(1944年)七月で、日本の降伏は昭和二十年(1945年)八月だ。

 蘆溝橋事件での失敗の責任を取ろうと始めたインパール作戦は日本の敗戦をむしろ早める結果となったのかもしれない。

 責任という言葉の意味を我々に教えてくれる反面教師、牟田口廉也は昭和四十一年(1966年)八月に亡くなった。その墓は多磨霊園にある。


 ★ 異世界で起きた戦争の記録、終わり


 朗読を終えたワ・ロルカは言った。

「それじゃ、俺はこれで」

 本をベッドに置いて立ち上がろうとして、ワ・ロルカはワーニャに呼び止められた。

「もっと読んで!」

「用があるんだ」

「十七歳の若さで死んじゃう女の子に優しくする以外に、どんな用があるの?」

 ワ・ロルカは椅子に座り直した。ベッドの上の本を再び手に取る。

「これをまた読めばいいのか?」

 ワーニャは弟のリュクセレリュクスに別の本を持って来るように言った。命じられたリュクセレリュクスは壁に作り付けの本棚から数冊の本を持って来た。その量を見てワ・ロルカは眉を曇らせる。

「ちょっと多くないか?」

「そんなことないよ、もっと読んで!」

 ワーニャは弟が用意してくれた本から一冊を選び、それをワ・ロルカに手渡した。

「その、ピンク色の栞が挟まっているページから読んで」

 言われるがまま、ワ・ロルカがページを開く。


 ☆ 古代の異世界における、ある愛の物語~沼らせ男と沼らせ女~


 部族の成人男性全員による投票の結果は有罪だったが、被告人の沼らせ男は絶望しなかった。

 自分を支持する女性層が判決を覆してくれると信じていたからだ。

 沼らせ男が属する古代の部族は特殊な形式の二審制裁判を採用している。

 沼らせ男と沼らせ女との副題の付いたラブストーリーの根幹に関わるので、この部族社会の裁判について簡単に触れておく。

 まず成人男性全員が有罪か無罪か、どちらかの一票を投票することから裁判が始まる。多い方が評決となるのだ。同数の場合は決着するまで投票が繰り返される。そのうち投票用の葉っぱ二種類(大小二枚)が破れることがあるけれど、森の中なので補充は容易だ。発酵した果実酒を飲みながら投票が続くので、最後には全員が酔っ払い、誰も葉っぱを数えられなくなったら無罪という素朴なルールもある。

 成人男性による裁判が終わると、その評決を受けて成人女性全員による裁判が行われる。こちらは投票ではなく話し合いで、出席した成人女性全員が同じ意見になるまで、延々と井戸端会議が続く。腹を減らした子供が泣き喚いて話が続けられなくなる頃が評決の潮時だ。

 成人女性全員による裁判も男性と同じ評決を出したら、それが最終的な判決だ。異なった場合は女性裁判の評決が優先される。この部族は女性上位なのだ。

 沼らせ男は、これに賭けていた。

 部族の女性全員が自分の味方だと彼は思い込んでいる。成人であろうと未成年であろうとも未婚者だろうが人妻だろうが構わず、美醜なんてことも一切お構いなしに、いつもやさしい言葉をかけ続けてきたのだ。ちやほやされた女たちは皆、とても喜んでいた。沼らせ男の甘いセリフは、どんな女でも美しき主人公ヒロインに変える。そんな自分を裏切る女なんて、いるはずがない――と彼が確信するのも、むべなるかな。

 しかし沼らせ男は考えが甘すぎた。女性陣による裁判の評決も有罪だった。しかも懲罰が格段と重くなっていた。男性裁判の罰は彼に部族の野営地から離れた場所での寝泊まりを命じるだけだったが、女性裁判では群れからの永久追放である。

 鋭い爪も牙も無い類人猿の沼らせ男にとって、狂暴な肉食獣の暮らす森の中での単身生活は死を意味した。

 どうして自分が、こんな酷い目に遭わないといけないのか……と、沼らせ男はオイオイ泣いた。

 彼を告発したのは女房に言い寄らせた亭主たち数名だった――が、それ以外にも彼を憎悪する人間が多くいた。熟れた果実の如く甘い囁きで女心を散々かき乱しておきながら、女がいざ真剣な関係になろうとするとのらりくらりと交わす優柔不断な沼らせ男を、殺したいほど憎む女性たちだ。彼女たちがいる限り無罪放免はありえなかった。その一方、永久追放は当然のようにありえた。

 そんなこんな書いているうちに、追放の日が来た。近くに留まっていると投石されるので仲間の群れから離れる。自分を愛してくれる女が一緒に来てくれるのではないかと期待したが、誰も後を追ってこない。とても悲しくなり川の縁に座って泣きじゃくっていたら、ワニに襲われた。必死に逃げる。何とか逃げ延びた沼らせ男は自分が<沼>の近くにいると気付く。

 気が付いた瞬間、完全な直立歩行に至っていない膝頭が震えた。

 この<沼>に近づいてはならないとする言い伝えが部族にあったためである。

 その理由は分からないけれど、禁忌事項を破ると大抵の場合は災いが来ることを知るだけの頭脳を、類人猿の沼らせ男は持っている。恐ろしい肉食獣の住処あるいは、死をもたらす瘴気しょうきが<沼>から湧いているのだろう、と彼は考えた。

 引き返そう。そう思って振り返りかけたとき、視界の端に二つの膨らみが見えた。どうしようもなく惹き付けられ、そちらに顔を向ける。女の乳房があった。乳房だけではなく、女の素肌も見えた。体毛が生えていないから、地肌が覗いている。類人猿の女は毛むくじゃらが普通だ。肌が見えるのは普通ではない。顔も群れの女たちとは違った。笑顔が最高に素敵なのだ。沼らせ男は釣られて思わず微笑み返しをする。

 仲間の女とは違う。何者だろう? と彼は思った……と書いたが、その頭が考え事をした時間は短い。見慣れぬ女の、見慣れぬ体が、沼らせ男を強く刺激した。女が微笑み、彼を手招きする。女が立っているのは<沼>の対岸だから水辺に添って歩くのだ――と理性は命じたが、そこは類人猿のことなので、直線的な行動を促す本能の指示に従い沼らせ男は異臭を漂わせる濁った<沼>へ飛び込んだ。

 速攻で後悔する。泥水は臭く、しかも粘々していて、泳ぎにくいなんてものじゃなかった。このままでは溺れ死ぬ! と彼は思った。引き返そうとする。そのときである。<沼>の対岸に立つ全裸の女が、剥き出しの乳房を両手で揉みしだいて叫ぶ。

「私が欲しくないの? 私は、あなたが欲しい! お願い、早く来て! そして私を、思いっきり抱き締めて!」

 それなら、おまえがこっちへ来たらいいだろ――とは、類人猿でも人類でも男ならまず言えない。沼らせ男は、底の見えない<沼>の対岸で自分を待つ沼らせ女に、もはや心を奪われてしまった。死ぬ気で<沼>を泳ぎ渡る。疲れ切って対岸に上がると、女はいない。彼は岸辺に膝を突いた。体力の限界に達している彼を、激しい嘔気が襲う。何度も何度も嘔吐する。そのうち彼は自らの吐瀉物の中に突っ伏して倒れ、そのまま意識を失った。目覚めたら、顔の上に女の乳房がぶら下がっていた。自分が女の膝枕で寝ていることに気付くまで、結構な時間が必要だった。女に言われるまで、自分の体毛のほとんどが抜けてしまっていることに気付かなかった。

「ちょ、ちょっと、これ、なに? どういうこと? この話って、沼らせ男と沼らせ女のラブストーリーじゃないの? なんで脱毛の話になっているんだ?」

 そんな沼らせ男のすべすべした頬を指先で撫でながら、沼らせ女は言った。

「甘い言葉で男の心を奪い、時に天性の自由奔放さで男を振り回すものの、なぜか憎めない女、それが私」

「いや、そんな話を聞いているんじゃない。どうして<沼>から出たら具合が悪くなって毛が抜けたかって質問をしてんの」

「いやねえ、頭の毛はフサフサだって。それに、脇の下の毛もボーボー。胸毛もすね毛もあるし、ここも」

 沼らせ女は手を伸ばした。その手に大事なところを握り潰されそうになって、沼らせ男は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げた。

「あら、ごめんなさい。私って、天性の自由奔放女だから」

 そして沼らせ女は男を優しくマッサージした。

「あなたは大胆な女を、どう思う? 好きな男になら、何だってするの。それに何だって許してあげる。でも、そういうのが嫌いな男もいるよね。あなたは、どちら?」

 男の目の上にユラユラ揺れる脂肪の膨らみを垂らしながら、そのセリフである。

 限度があるだろ――とは、類人猿でも人類でも男なら(以下略)。

 なんやかんやあって、いつしか沼らせ男は体毛の無い生活に慣れた。体毛があるとノミやシラミを取るための毛づくろいで一日中が終わる。空いた時間で沼らせ女と沼らせ男の夫婦は幾つかの武器や便利な道具を作った。石器や木の槍そしてブーメランといった武器は小型の動物の狩猟に役立つのは勿論のこと大型の肉食獣から身を守るのにも重宝した。植物を編んで作った籠は植物を採集する際に有効だった。沼らせ男の毛をほとんど失わせた<沼>の腐敗した水の底から採取した泥炭は素晴らしい燃料となった。乾燥させた泥炭を燃料にすることによって、火起こしの方法を習得していなかった二人は野火を保存することが可能となり、その火で食材の加熱が簡便になると食物の種類が一気に増えた。栄養状態が良くなった沼らせ男は、かつて属していた部族の男たちより逞しくなった。この体格で部族に戻ったら、女たちが放っておかないだろう。だが彼は沼らせ女以外の女に興味が無くなっていた。ある日、彼は沼らせ女に聞いてみた。

「おまえが好きだ。心の底から愛している。これからも、ずっと愛し続ける。おまえはどうだ? 俺をずっと愛してくれるか? そして出来ることなら、俺の子供を宿して欲しい」

「好きよ。でも……私は、あなたとずっと一緒にいられないの」

 沼らせ男が受けた衝撃は、部族を追放されたときのそれを遥かに凌駕した。

「どうしてだ! どうして俺を捨てるんだ!」

 沼らせ女は、自分は人類を進化させる女神だと名乗り、寂しげに微笑んだ。

「あなたは、この時代の類人猿として十分な進化を遂げたわ。私は、別の時代へ行って、他の人類の先祖を進化させないといけないの?」

「なにを言っているんだ? おまえは、なにを言っているんだよ……」

「ごめんなさい。それが私の使命なの。そして、あなたにも使命があるわ。いい、私の言うことをよく聞いてね」

 自分を追放した部族に戻り、仲間を<沼>へ引き連れてくる。<沼>の水で体毛を無くした仲間を、毛皮の無い生活に慣れさせる。

「そこまでやれば、それであなたの使命は終わるわ」

 そう言うと、沼らせ女の体が半透明になった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで急に体が消えかかっているんだよ!」

「あなたたちの子孫がすっかり毛皮を無くし、汗をかきやすい体質になった頃、地球の乾燥化が始まる。この森は消えるのよ。楽園を追放されたあなたたちの子孫は乾燥したサバンナで生きていかなければならなくなるわ。私は、あなたたちの子孫にサバンナで生き抜くサバイバル術を教えに行く。あなたの子供の、そのまた子供の、その子供くらいかしら……私の子供じゃないのが、本当に悲しい。本当につらい。どうか、それだけは分かって」

「聞いていることに答えろよ! 俺たちは愛し合っているんだろう!」

「愛し合っていても、別れなきゃならないことがあるの。お願い、私を許して。もう時間が無いわ。さようなら」

 そう言い残して沼らせ女は消えた。沼らせ男は篝火かがりびを灯し夜になっても<沼>の周囲を捜し歩いたが、愛した女を見つけ出すことが出来なかった。


 ★ 古代の異世界における、ある愛の物語~沼らせ男と沼らせ女~、終わり


 ワ・ロルカは本を閉じた。

「これで満足しただろ?」

 ワーニャは首を横に振った。

「まだ。まだまだよ」

「俺は帰らないといけないんだよ」

「そんなこと言わないで、お願い」

 可愛らしい難病ヒロインのお願いを断れる男は、そうざらにはいない。ワ・ロルカは続くページを朗読した。


 ☆ 異世界へ人間を召喚する転移装置に関する物語


 縦型とドラム式のうち、どちらを選ぶのが正しいのか?

 魔性の魔法少女ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、その問題で半日程度は悩んでいた。

 洗濯機の選択に苦慮しているのではない。

 自分を溺愛してくれる素敵な相手を、自分のいる世界へ召喚するための特殊な転移装置の機種選定が問題なのだ。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは言った。

「最後のプレゼンをもう一度お願いするわ。どちらが先でも構わなくってよ」

 縦型転移装置の売り込みを図る金星人男性ディッチェゲハデダバは、商売敵に目線で挨拶してからプレゼンを始めた。

「我が社の製品は皆様に愛され長く使用されている縦型を転移装置の中心ユニットに採用しております。その安定性は歴史が証明していると申し上げてよろしいかと存じ上げます。プレルフリル皇国の女性教皇アンティパレパス猊下は、この商品の先々代に当たる機種で、物凄いイケメンをゲットなさいました。彼女の愛されすぎる甘々なお話などは、もう既に聞き及んでおられることでしょう。さそり座の女惑星ピーチコミュスムゥジィの女性統領アルマ・ワルキューレ氏は、装置の浮遊ゴミ回収ネットに引っ掛かっていたダンディー系コメディアンをキュンとくびれた尾の毒針で何度も何度もブスブス突き刺して恋の中毒患者に仕立て上げ、コミカルだけれどドキドキするような関係を構築したというお話も、お分かりのことと存じ上げます。また、この同一機種が最近になって確保した恋のお相手の噂話もプレゼンに当たって欠くことができません。俺様系イケメンや弟系あざと男子などなど魅力的なヒーローたちの存在も、我が社の縦型転移装置があったればこそでございます。最後になりますが、どうか、我が社の縦型転移装置を、お買い上げいただくようお願いを申し上げます」

 三つもある頭を深々と下げた金星人男性ディッチェゲハデダバの隣に座る真っ赤なドレスの火星人女性プリンセス・カーターリーナは微笑んで立ち上がり、柳腰を震わせて自身が持参した最新鋭のドラム式転移装置に向かってシャナリシャナリと歩き、優美な仕草で装置の白い表面を撫でた。淡い栗色の髪を輝かせ、彼女は言った。

「当社は、もう多くは語りません。ただ、これだけは申し上げることをお許しいただきたいのです。このドラム式転移装置は、内部に捕らえた獲物を絶対に逃しません。決して逃げられないのです。持ち主が扉を開けないことには、永遠の虜囚となります。その驚異的な性能を実際にご覧になりたいと思われるのでしたら、是非お買い求め下さいませ」

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは最終プレゼンを聞き終えても決断を下すことができなかった。魔性の魔法少女として恐れられる彼女だったが、恋愛に関する限り、小学校高学年から中学生のレベルである。「児童向け恋愛小説(溺愛)」の対象読者に当てはまると言っても、あながち外れではない。いや、もしかしたら恋愛に初心な点においては、小学校高学年から中学生の女子と同等あるいは、それ以下かもしれなかった。

 迷いに迷った末に魔性の魔法少女は、その日のお買い上げを断念した。

「ごめんなさい。どうしても今日、決めることができませんでした。もう少しだけ、考える時間を与えて下さいな。こんな夜更けまでお待たせして、本当にすみませんでした」

 いや駄目だ絶対に本日中に決めろ! と言い出す業者はいない(そんな無礼な発言をライバルが言わないかな~と期待はしている)。魔性の魔法少女は大金持ちで気が強く凄まじい魔力を有している。そんな実力者に変なことを言って敵に回すのは有能な商売人のすることではなかった。会釈して持って来た商品を持ち帰る。

 転移装置のプレゼンテーションが行われた中会議室を出て、ぶよぶよとして歩きにくいが気持ちを落ち着かせる魔法のスライム床を敷き詰めた廊下を通り、自室へ戻ったウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、部屋の中でボール遊びをしていた彼女の守護天使サルビチ・ササビッチィの細長い首をむんずとつかみ壁に向かって投げた。

 サルビチ・ササビッチィは石の壁にぶつかる寸前に、半透明の翼を力強く羽ばたかせて空中に制止した。振り向く。顔の真ん中にある複眼をギラギラと点滅させて文句を言う。

「ちょいちょい、あーた、あーたね。これね、二回目。いや待って、二回目どころじゃないわあ。三回目、いやいや、もっとだわ。四回、五回、それとも六回目? こんなんじゃね、いつか怪我するよ。絶対に怪我するってば。不死身の守護天使だからってね、痛いものは痛いのよ。分かる? お分かりになって下さいませってえのよ。だ・だ・だ・だってさ、だってよぉ、石の壁に生きているものを放り投げるってさ。異常よ。あーたね、それは異常者のすることよ。守護天使だからさあ。嫌われても構わないでしょって覚悟を決めてさあ、こうして言いたくもない説教をしているわけのなのよ。本当に、分かってよ。ふぅ、疲れた。マジで疲れたわん」

 羽ばたくのを止め粘々する液体を滴らせる足で石の壁にべっとり停まった守護天使サルビチ・ササビッチィに向けて、空中にある魔法のエア・ポケットから取り出した核重力磁気素粒子照射用ステッキの照準を合わせながら、魔性の魔法少女は美しい顔に憤怒の表情を浮かべた。

「伝説の悪魔を封じ込めた禁断のボールで遊ぶなって、何度言ったら分かるの。このボールの中の悪魔が飛び出して来たら、この世界の半分は三十秒以内に崩壊するわ。そうなったら、あーた、あーた、あーたねえ。責任が取れるの? 取れるのかって聞いてんだから答えなさいよっ!」

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムが自分に向けたステッキの先端から神経を削り取るかのような不快な不協和音の響きを聞き取った守護天使サルビチ・ササビッチィは、怯えて全身をプルプル震わせた。その大きな複眼から涙が流れ落ちる。核重力磁気素粒子を照射されると、物凄く痛いのだった。

 この不死身の生命体は口先だけで気が小さいのだった……と思い出した魔性の魔法少女はステッキを見えないエア・ポケットの中に戻した。続いて伝説の悪魔を封じ込めた禁断のボールを、より厳重に防護処置が施された防犯用のエア・ポケット内部に仕舞う。それから彼女は自分の守護天使――実際のところ、自分を何から守護してくれているのか分からないのだが――に、早く寝なさいと言った。

「お休みなさい」

 そう言うと守護天使サルビチ・ササビッチィは部屋の天井の角にある時空の歪みを通って自らの本来の生息空間である第八次元の黒い霧の中へ戻った。肩の凝りを感じたウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは首筋を指先で揉みながら反対の手で髪を留めるピンを外した。寝巻に着替える。軽い美容体操を済ませて寝床に入る。この館の歴代の主人によって太古から受け継がれてきた高性能タブレット端末をテーブルに置き忘れていたことを思い出し、ベッドを出て菓子の空袋が放置された小さなテーブルからタブレットを回収して、また寝床に入る。昼間のうちに双子の太陽アルファ・ルインツイン・ケンタウリの柔らかな光をたっぷり浴びていた太陽電池のバッテリーは満タンだ。ウシシ、これはこれは最高の状態でございまするなあ~と変な独り言を呟いてタブレットの電源を入れる。

 好きな番組の生配信があったので、魔性の魔法少女は朝から楽しみしていた。美人で大金持ちで魔法が使えるくせに、そんなのが楽しみという事実は、世の中に存在する娯楽が、どんなにつまらないものでも誰かのストレス解消になっている可能性があるという実にどうでもいい実例である。

 さて、そんなことは本当にどうでもいい。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムが見たい生放送――番組そのものは、あまり面白くないというのが、ネットの一般的な意見である――それが本稿の本題なのである。

 その生番組は、いわゆるリアリティー系のバラエティーであり、悪趣味ということで良識ある視聴者からの評判は芳しくない。喜んで見ているのは根っからの性悪子猫や品性下劣な社会不適合者つまり、ここに登場している魔性の魔法少女みたいな輩だった。

 番組の内容を具体的に記すと、以下のようになる。


求めているのは、

「長編児童向けノベルの種」になる短編小説!

今回のコンテストでカドカワ読書タイムが募集するのは、長編児童向けノベルの「核」となるようなキャラクター・設定を持った、短編小説です。

カドカワ読書タイム編集部は、小学校高学年から中学生の読者が夢中になれる、長編ノベルを送り出したい、と考えています。この児童向け長編作品の「種」、「核」が込められた、5000字から12000字の短編小説をお待ちしています。

募集する部門は、「児童向け恋愛小説(溺愛)」と、「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の二つ。

「児童向け恋愛小説(溺愛)」の対象読者は、小学校高学年から中学生の女子です。作品の主人公は、10~15歳の女子としてください。愛されすぎる甘々なお話や、コミカルだけれどドキドキするようなお話を待っています。俺様系イケメンや弟系あざと男子などなど魅力的なヒーローたちの存在も欠かせません。

「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の対象読者は、小学校高学年から中学生の女子・男子です。主人公の年齢は10~15歳、性別は問いません。ある日突然主人公が異世界に連れていかれてしまったり、迷い込んでしまったり、そこから始まるわくわくするファンタジー小説を待っています。

コンテスト受賞作にはカドカワ読書タイム編集部員が担当につき、加筆・改稿を行い長編ノベルを作ることを目指します。

わくわくするような物語の種を、待っています!


 これだけ読むと、とても面白そうに思える。

「児童向け恋愛小説(溺愛)」の方なら、その物語の中に登場しても悪くないだろう。だが「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の方が考えものだ。ある日突然主人公が異世界に連れていかれてしまったり、迷い込んでしまったり、といった災難に巻き込まれるのである。そこから始まるわくわくするファンタジーと言われても迷惑な話で、元の世界へ戻してくれというのが偽らざる気持ちではないだろうか?

 謎めいたファンタジー小説的な雰囲気の異世界に突然転移して、困惑している。

 そんな10~15歳の少年少女が出演者のリアリティー系バラエティーを、ハラハラしながら見ているのが前述の魔性の魔法少女。そういう二重の枠構造が本作品にはある。二重構造の外側に相当する魔性の魔法少女の話は、ここまでに些少はであるけれども書いた。次は内部の構造、生放送の番組を書く。実を言うと、こっちの方が投稿する部門に相当するのだ。どんな感じになるのか、どのくらいの分量になるのか想定困難な状態で書き始め、現在の状態となってしまった。書くつもりのない「児童向け恋愛小説(溺愛)」の要素を冒頭に振り撒いておこう! と書道における文鎮あるいは一種の枕詞のような気持ちで書き出した溺愛関係の冒頭部分で執筆時間の大半を消費し、体力も浪費してしまった。ふふふ、困ったものである。

 さーてーと、こうなったら、どうしようか?

 行くしかあるまい。行くところまで! といった気持ちで生放送の番組に出演しているのが、本作品の主人公の一人でペンネームは肺魚の子孫十六号だ。今こうしてパソコンの前に座り、せっせと何事かを入力している。何がどうしてこうなったのか、自分でも皆目見当がつかない状態で。

 いや、待てよ。そうなると、肺魚の子孫十六号が執筆している小説の主人公も登場しなければならない。この人物こそが、物語を動かす実質的な主人公になる。その名はウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムとしたい。とても長いので文字数を稼げる上に、一行のほぼ全部を潰してくれるおかげで文章の推敲がやりやすくなるという利点もあるのだ。

 ふふふ、そんなことを書いている間に、文字数が下限の五千字を突破しそうだ。

 今、遂に突破した。話の内容はさておくとして、無駄な喋りで最低ラインを越えることができたのだ。

 あまり嬉しくはない。

 それでも肺魚の子孫十六号はキーボードを叩き、物語を動かそうとしている。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、自分と同姓同名の人物が視聴中の番組に出て来そうな展開に驚いている。

 五千字を越えたので、私は本作品を投稿する。

 この児童向け長編作品の「種」または「核」が芽吹かないかな~と淡い期待を抱きながら。


 ★ 異世界へ人間を召喚する転移装置に関する物語、終わり


 ワ・ロルカは言った。

「何か飲み物をくれないか、喉が渇いた」

 リュクセレリュクスが水差しから水をコップに注いだ。

「どうぞ、ワ・ロルカさん」

 受け取ったコップの中の水を一息で飲み干す。

「もう一杯」

 注がれた水を飲む。冷たくて美味かった。コップをリュクセレリュクスに返し、ワ・ロルカは言った。

「それじゃ、今度こそ、さようなら」

「待って、もう一つだけ」

 ワ・ロルカは腕時計を見た。

「短いやつにしてくれよ」

「わかったわ。その藍色の栞の挟まった本を読んで」

 ワ・ロルカは朗読を再開した。


 ☆ 異世界の仏壇と賢いヒロインに関する、とても些細な物語


 階下の通りからモンクレア・ロダン・カルカソンヌの情けない声が聞こえてくる。

「立派なマホガニー材のお仏壇だよお、お先祖様の霊魂がいっぱい、いっぱい詰まっているんだよお。買っておくれよお、誰か、誰か後生だから買っておくれよお!」

 めかし屋チンチャケイドは窓の外から流れ込んでくる墓荒らしの哀切極まる声に耳を傾けながら言った。

「面白いよね」

「何がです?」と私は尋ねた。

「モンクレア・ロダン・カルカソンヌの、あの売り声だよ」

 どのように受け答えするのが最善なのか分からなかったので、私は相槌を打つだけにとどめた。幸いなことに、商売上手な墓泥棒に関する話題を向こうの方から勝手に話し始めてくれた。

「立派なマホガニー材の仏壇だ、そんじょそこらじゃ手に入らない逸品だ、詰まっている霊魂は一級品揃い、それなのに今すぐ使える簡単な仕様でセッティング済みだ、これさえあれば今日からあなたも古今無双の死霊使いネクロマンサーだ! と偉そうにほざいて高値で売りつけていたのが、あれだよ」

 握り拳から立てた親指で窓の方を指して、めかし屋チンチャケイドはぐすりと腹黒い笑い顔で言った。

「お願いだから買って下さい! だとさ。町の皆の同情を集めて売りつけようとしていやがる! ちゃんちゃらおかしいよねえ。イカサマ商売ばかりやっていたばちが当たったんだよ。そう思わないかい?」

 私は微苦笑を浮かべた。いや、実際に微苦笑かと言われたら、自信がない。実際のところ、私はモンクレア・ロダン・カルカソンヌに同情していた。ついでに言うと、明日は我が身かもしれないという危機感もあった。あの詐欺師の陥った境遇は他人事ではなかったのだ。

 様々な売り物を扱う行商人である私は魔法に関連した商品も取引している。その中には由緒正しいようで実はまがい物というものが時々ある。信用第一の職業なので、胡散臭い品物は仕入れの段階で弾かせていただくが、どれほど注意を重ねても怪しい物品の入荷が起こってしまうもののだ。

 そんな偽物に高い金を支払ってしまった相手は当然のことながら激怒する。あいつは詐欺師だ! もう取引しない! と町中で言って回った。正直こういう商売には、そういった事態はつきものなので、誰もがモンクレア・ロダン・カルカソンヌの不運に同情した。売った相手が悪かったのだ。馬鹿正直を売り物にする尼僧団の魔術教官は、売り手の失態を許さなかった。不正な商取引と主張し裁判所に売買停止を求める仮処分申請を行い、治安判事がその訴えを認めたため、哀れ仏壇売りは市場での商売が禁止されてしまった。正式な判決が出るまでの間、市場以外なら売っても良いとのお達しは出たものの、格式の高い市場で売れない商人からわざわざ高額な商品を買う者はいない。かくしてあの男は商品と同情を抱き合わせで売る状況にある……いや、誰も買っていないか。元々インチキ商品を知らん顔で売っていた詐欺師だから、当然の報いが来たまでの話だった。

「おわかりのことと思いますが、私は、あの詐欺師のような輩とは違いますよ。私が今回持参した仏壇は黒檀と紫檀それに鉄刀木タガヤサンからできています。どの木材も最高級品質であることはいうまでもありません。使われている希金属部品は宇宙サメの生体軟骨と魔界第四鉄の合金にオリハルコンを平均二十五パーセント添加したもので、霊脳力を二倍に増量すると言われています」

「魔術回路の接続具合を確認しても構わないかな」

「どうぞご自由に」

 私が持参した仏壇から延びるコードを、めかし屋チンチャケイドは自分の両方の鼻の穴へ差し込んだ。フン! と気合を入れる。仏壇のロウソク型照明が光った。私とチンチャケイドは眩い明かりに目を細めた。めかし屋は満足したらしい。その二つ名の由来となった、衣服に付けられた多くの豆電球がキンラキンラキラキラリと色々な色で瞬く。

 鼻からコードを引き抜いて額を汗を拭ってから、実は美少年の――書き忘れていた――めかし屋チンチャケイドは言った。

「私と仏壇の魔力同期性に問題はないようだ。続いて封印された魂のパワーを測定したい。しばらく預からせてもらうよ」

 私はニヤリと笑った。

「申し訳ございませんが、それはご勘弁を。やるのでしたら、私が同席しているときにお願いします」

 めかし屋チンチャケイドの服に取り付けられた豆電球が黒く染まった。

「おいおいおいおいデルノステ君。それはないんじゃないのかな。サルコヴィーの町で一番の魔法使いスパダリンリーン・チンチャケイド様がだよ、買おうとした商品に対し何か細工をしようだなんて考えてはいないだろうね?」

 滅相もございません、と心にもないことを言うだけ言っておいてから、本当に言いたい言葉を付け加える。

「魔法の仏具や魔術用品を地下迷宮ダンジョンから運び出す戦士階級の冒険者たちが、売買契約締結前に売り物を買い手に預けることを嫌悪しておりまして。そこが大切なことなのでございますよ。御存じの通り、これらの品物は彼ら彼女らが危険だらけのダンジョンから命がけで回収してきたもの。あの者たちの意向を無視して、購入希望者に品物を預けることは、私にはできかねます」

 美少年のめかし屋チンチャケイドは氷の微笑を浮かべて言った。

「デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネン君」

「なんでございましょうか?」

「君は、この私が信用できないのかい?」

 私は左右の手のひらを胸の高さで上に向けた。チンチャケイドは怪訝な顔をした。

「なんだなんだなんなんだね、そのポーズは」

「私の出身部族に伝わる秘密の手ぶりです。困ってしまって、どうしようもない時にやります」

「困るほどもこともないだろう。この仏具を私に任せてくれたら、それでいいんだ」

 そして商品の仏壇を滅茶苦茶にされ、泣き寝入りというパターンは否定できない。モンクレア・ロダン・カルカソンヌと、あいつを訴えた尼僧団の魔術教官のせいで、こんな目に遭わされるとは……と私が心の中で嘆いた、そのときだった。

「話は聞いた」

 仏壇の中から突然ほれぼれするほど可愛らしい娘が飛び出して来た。空中で一回転してから黒いロングコートの飾り房の付いた裾をひるがえして着地する。海老茶色のブーツの踵がカツッンと鳴った。ちょっとよろめいたものの体勢を立て直して、彼女は言った。

「私は“青銅の白昼夢”尼僧団の魔術教官ドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210」

 教官というより学生みたいな外見のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は頭のサイズより少しばかり大きめに見える真紅のとんがり帽子をサッと取って会釈した。

「人呼んで“青銅の白昼夢”尼僧団の賢いヒロインでございます。お見知り置きを」

 美少年の魔法使い、めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドは美少女の尼僧で魔術教官のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210を、こちらの知らぬ間に音もなく忍び寄ってくる毒虫か何かを見るような憎悪のこもった目で睨みつけた。

「いつの間に我が結界内部に入ってきたのだ! 何なのだ、お前は!」

「私の名前はドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210、“青銅の白昼夢”尼僧団の魔術教官でございます」

「それはさっき聞いた! 何の権利があって人の家に入り込んだのだ!」

「人の家に入り込んだのではございません。私は仏壇の中に入り込んだのです」

 ぴかぴか光る尼僧の頭に私が持って来た仏壇が映った。そのうち画面が変わった。運河を進むゴンドラが見えた。この仏壇はチンチャケイドの邸宅に面した運河を使いゴンドラで運搬したのだ。私の使い魔数体が仏壇をゴンドラから降ろし、魔法使いの邸宅の中へ搬入している。人の形をした玉虫色に煌めく使い魔の中に、色彩の変化が若干ではあるが鈍い個体があった。

「お気づきでしょうか? フフフ、この玉虫色の色調にワンポイントのアクセントが入った使い魔が、この私の変装だったのです」

 とんがり帽子を被りニコッと笑うドゥーモネイに、仏頂面のチンチャケイドが再び問い質す。

「聞いてないけど邸内に入った方法は分かった。何が目的で潜入してきたのだ?」

「潜入の目的は何か? 答えは仏壇の中にあります」

 ドゥーモネイが指し示す仏壇の中を覗き込んでチンチャケイドが首を横に振る。

「普通の仏壇と何も変わらない。一体全体、何なのだ?」

 チンチャケイドの服に付いた無数の豆電球が紫色に瞬いた。同時に、彼の全身から同系色のオーラが揺らめきながら立ち昇ったように見えた。私には、それが何を意味するのか、実を言うとよく分からない。

「私が詐欺の罪で商人モンクレア・ロダン・カルカソンヌを告発したことは、お聞きになっていることでしょう。あの人物が以前から眉唾物の商品を善良な呪術師に売りつけることで財を成していたのは裁判官もご存じでしたので、訴状は速やかに受理されました……が、それは氷山の一角。粗大ゴミ同然の品物を高級品と吹聴して売りさばこうと企む邪悪な商人は後を絶ちません。私はこの際、他の詐欺師たちも町の市場から一掃すべきだと決意し、極秘調査を始めました。その一人目が、この人物――」

 ドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は、どこからともなく取り出したピンク色の羽根が付いたステッキで私を差した。

「デルスノテ・マクネフド・ダムミチュドーンボーネンです」

 めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドは眉間を指で揉んだ。

「もう一度言ってくれ」

「デルスノテ・マクネフドネ・ダムミツドボーネン」

「もう一回」

「デルノスケ・マフドネド・ダルビシュドボーネン」

「もう一回頼む」

「ノスケ……ちょっと待って」

 私に向けられたピンク色の羽根が付いたステッキの先端が上下動する。ステッキを握るドゥーモネイは私に向かって「あなたの名前はなんでしたっけ?」と尋ねた。

「デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネン」

 答えた私に「ありがとう」と礼を言ってから彼女は続けた。

「この人物が犯した罪は、詐欺師モンクレア・ロダン・カルカソンヌより重罪です。この者は仏壇の中に邪神パーロネイトモアマッシンの封印されて深い眠りに就いた魂の欠片を潜ませていました」

 チンチャケイドは強いショックを受けたようだ。美少年の外見を作る魔法の仮面が崩れ、骸骨の本体が現れた。骸骨は顎をカタカタ鳴らして言った。

「この世界を貪り食うために異世界から飛来した、とされる伝説の邪神が、この仏壇の中にいるのか? パーロネイトモアマッシンは、遥かな太古に十七人の勇者が封印したと聞いているが」

「パーロネイトモアマッシンの魂を砕いて、その欠片を世界の各地に封印した。私は、そう聞いています。そして、その一つが、この仏壇の中にあったのです」

 深刻な表情を浮かべる二人に合わせ、私も困った顔をした。実際、困っている。

「ちょ、ちょ、ちょま、ちちょっと待ってください。待ってくださいよ。伝説の邪神パーロネイトモアマッシンの魂の欠片が、この仏壇の中にある、と。商売のために私が持って来た、この仏壇に。それが何なのです?」

 チンチャケイドの骸骨が言った。

「そんな危険物を市内に持ち込むことは許されない」

「知らなかったんです。そんな物騒な物、というか魂の欠片でしたっけ。そういうのが封印されているなんて、少しもね。それに、それが法に触れると分かっていたら、そもそも市内に運び込んだりなんかしませんって。無罪ですよ、私は無罪です」

 私の主張を聞いてドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は頷いた。

「罪びとは皆、同じことを言うわ。何も知らなかった、何かの間違いだ、自分は誰かに嵌められた、うんぬんかんぬんと」

「だから、違うんですってば!」

「違いません! 弁解するなら私にではなく、お役人に言ってくださいませ」

 窓の外から騒がしい音が聞こえてきた。私は窓辺に走った。運河に架かる橋を重装備の兵卒が隊列を組んで渡っているのが見えた。階下の通りには先遣隊が到着していたようで、めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドの邸宅の敷地内を、立派な鎧を着込んだ将校らしき人物が部下と共に歩いているのも見える。

「仏壇の中からテレパシーで警察署へ通報しました。観念してお縄に掛かりなさい」

 私は呟いた。

「なんでやねん」


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 サルコヴィーの警察署は、かつて街を支配していた爬虫人類と鬼の一族が共存共栄の証として建設費用を折半して建築した古城を改造したものだ。様々な色と大きさの美しいタイルを組み合わせた外観と複雑な構造の尖塔は街の名物で、観光名所となっている。市外から市内へ入った行商人は警察署の隣の市役所で商売をする許可のスタンプを手の甲へ押してもらわねばならないので、近くを何度も歩いたが、時間がなくて、じっくり見学したことはない。今回は絶好のチャンスかと思われたが、警官たちは私に所内見物の機会を与えず、地下の留置場へ送り込んだ。

 風通しが悪く黴臭い石壁の地下牢には、私より前に叩き込まれた連中がいた。暇を持て余していた彼らは私に「お前は何をやらかした」といった質問を浴びせてきた。

「誤解なんだ。無実だ、無実の罪なんだよ」

 何を言ってんだ、こいつ。そんな顔で皆が私を見つめる。その中の一人が尋ねた。

「何の容疑で捕まったんだ?」

「売ろうとした品物に魔物が潜んでいて、それが私のせいだと言うんだ」

「仕込んだの?」

「違うよ、知らなかったんだ、勝手に入っていたんだ」

「その品物って、なに?」

「仏壇」

「入っていた魔物って、なに?」

「封印された伝説の邪神パーロネイトモアマッシンの魂の欠片だそうです」

「あ、それ重罪だわ」と誰かが言った。

「俺のおじさんは家財の一切を没収された」

「若頭は処刑されたな」

「別の魔物をサルコヴィー市内へ搬入した奴は殺された後も脳だけを永久保存されて今も精神的な拷問を受けていると聞いた」

 私は呻き声を出した。

「うう……そんな、そんな酷い話って、あるのか……」

 聞きたいことを聞くだけ聞くと皆は私への興味を失った。放心していたら留置場の警備をしていた双頭の泥人形ゴーレムが私に取り調べが始まることを告げた。

 留置場を出て取り調べ室へ入る。取り調べ室の壁は石造りではなく、前時代に製造された工業製品のセラミックを遺跡から掘り出して再加工したものだった。今日では作れない代物だ。観光収入で潤っている警察署の内装は一味違う。取り調べの担当者も何かが違った。取り調べ室には四人の人間がいた。そのうちの三名は男性だった。

 全身が光沢のある水銀に似た金属で覆われた婦人警官が私を取り調べた。

「私はサルコヴィー警察署特命係のジョージーニイ。ここら辺りの犯罪者の間では、賢いヒロインの呼び名で通っているわ。よろしく」

 この街は賢いヒロインというあだ名に何らかの深い意味があるのだろうか? 金属の胸に名札が見えた。ジョージーニイ・バウンド。一等警視正、とある。偉い人なのだろうか、そうでもないのか? さっぱり分からない。

 一等警視正ジョージーニイ・バウンドは仏壇の入手経路を尋ねた。

 ダンジョンから地上へ運び出される仏壇を卸売り市場で買ったと説明する。

 証明はできるのか? と聞かれたので現地で発行した書類があると答える。

「それを出して下さらない?」

「喜んで」

 私は呪文を唱えた。空中に書類の束が出て来たので、指で挟む。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ジョージーニイ・バウンドは書類を読み始めた。それはダンジョン冒険家クラブと冒険者ギルドが共同で発行した本物の購入証明書類であり、書いている内容はまごうことなき真実だ。

 ダンジョンで発見された宝物は綿密に鑑定され評価額が決まる。私が競り落とした仏壇は専門の鑑定家によって異世界の日本国で第三次大戦後のシン高度成長期に製造された最高級品と判定された。遥かなる時空の旅路の果てに私の物となった仏壇は、自称サルコヴィーの町で一番の魔法使いスパダリンリーン・チンチャケイドが購入を希望したので彼の自宅へ運び込まれた。そこに現れた超絶お邪魔虫にして美少女尼僧で魔術教官のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210が変な言いがかりをしてきたために、私はこの憂き目に遭っている。何の因果で、こんな酷い目に……といった愚痴を、調書を書いている事務の人間らしき男性に語っていたら、ジョージーニイから「少し静かにして下さらない? 集中したいの」と言われ、黙り込むよりほかに選ぶ道はなくなった。

 することがないので、自分の人生や世界について考える。

 この世界で生まれ育った私だけれども、前世は別世界の住人だった。前世の記憶は鮮明にあるし、何なら前々世の思い出も残っているよ。昔の思い出話は尽きないね。そう、たとえば、飼っていた竜の思い出。私以外には懐かず、凶暴な宇宙怪獣だと皆から恐れられていたけど、とてもかわいい獣だった。名前は忘れた。

「このダンジョンの管理者へ問い合わせてみて」

 ジョージーニイ・バウンドは私の背後に立っていた大柄な男性警官に向かって私の頭越しに書類を見せた。その警官が呪文を唱える声が聞こえてきた。私が使う魔法の系統とは異なる魔術体系に属するタイプのようで、何を言っているのか分からない。私は尋ねた。

「ダンジョンには管理者がいるのですか? そこへ魔法で連絡が取れるのですか? 管理する者のいない無法地帯だとばかり考えていたのですが」

 スタイル抜群だが、のっぺらぼうの婦人警官はウンウンと頷いた。

「ダンジョンにもよるわ。全部そうじゃないけど、たまにあるの。ダンジョンの内部が異世界と通じている場合、それがゲーム世界のときがあるから。そのゲームの世界を運営する業者に連絡が取れたら、事情が分かるかもしれない」

「ゲームの世界、ですか」

「そう」

 前世や前々世の記憶がある私だが、もっと自己の内面を観察したら、新たにゲームの世界を生きた体験が蘇ってくるのかもしれない。だが、それはまたの機会で良い。

「それで、私の容疑なのですが。それは一体、何なのでしょう」

「邪神パーロネイトモアマッシンを市内へ持ち込んで復活させようとした罪です」

「ちょいと待って下さいよ? その邪神を復活させると、街はどうなるんです?」

「滅亡します。言うまでもありませんが、その罪は重いです。最高刑に相当します」

 私は困惑の表情で言った。

「いや、いや、いや、それは違うんです。まったくの誤解なのですよ。遥かな太古に異世界から転移してきたと思われる魂が宿った仏壇がダンジョンの奥にあって、それを冒険者たちが回収してきて、競り市に掛けたのを私が買った。ただ、それだけなのですよ。むしろ、そんな恐ろしいものを売りつけられた私こそが被害者ですよ」

 ここで頑張らないと私は冤罪の被害者になってしまう。何とかして誤解を解かないことには、家財没収やら死刑やら、私の脳だけ取り出されて精神的な虐待もあるそうだから、もう必死になって弁解しないといけない。そう思って必死に、それこそ気合の入りすぎで頭に血が上りまくって脳の血管がぶち切れそうな勢いで私は弁明した。「私は何も知らなかったんです。本当です。信じて下さい。何も知らずに買った商品に禁制の品が入っていた、それで私の罪になるのですか? これは絶対に、そう絶対に間違っています。大体にしてですよ、私がサルコヴィーの町に何の恨みがあるって言うんですか? 私は、この街で稼がせてもらってます。そんな大事な場所を滅ぼそうなんて、思うわけがないですよ」

 ジョージーニイ・バウンドは銀色の髪の枝毛を探しながら言った。

「無差別大量殺人を目論んでいる犯罪者予備軍は後を絶たないわ。逮捕しても逮捕しても、後から後から湧いて出てくる。いたちごっこよ。それでも、我々サルコヴィー警察は負けない。邪悪な存在と完全に立ち向かうの。町の平和を保ち、市民を災厄から守り抜く」

 私は自分が無差別大量殺人を企む犯罪者だと疑われていることに気付いて、ゾッとした。そんなこと、一度だった考えてことはないぞ!

 この相手には理性的な話し合いが通じない恐れがある、と私は思い至った。理屈ではなく、感情に訴えかけるアプローチに路線を切り替えよう。

「あんまりです、こんなの、あんまりですよ。どうしたらいいんです、私は! 正直に商売をしていたのに、詐欺師どころか無差別大量殺人犯の疑いを掛けられるなんて、酷すぎますよ。助けて下さい、お願いします、どうか助けて下さいませ! 何でもしますから許して下さい、お願いですぅ、頼みますからぁ……」

 涙を流して訴える私に向かって、涙を流す目が顔に見あたらない女性一等警視正は冷たく言った。

「あなたが手下としてこき使っていた詐欺師モンクレア・ロダン・カルカソンヌは、あなたよりもっと泣き真似が上手かったわよ。あなたに脅されて悪い仕事を嫌々手伝わせられたって、とても後悔していた。あなたを死刑にするために、何でも捜査に協力するから、自分のことはどうか許して欲しいって言っていた」

 私が愕然とした。いつの間にか、私は主犯格になっていた。モンクレア・ロダン・カルカソンヌが自分の罪を許してもらおうと、嘘の密告をしたのだ。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待って下さいって。私とモンクレアは何の関係もありませんって! どうして私があいつのボスになっているんですか!」

「脅されて無理やりって言ってた」

「だ、だ、だから、無関係なんです!」

 ジョージーニイ・バウンドは銀色の髪から抜き取った枝毛を床に払い落とした。

「残念だけど賢いヒロインとしての私の頭脳は、あなたの無罪を完全に証明できずにいる。邪神パーロネイトモアマッシンが仏壇に入っていたことを、本当に知らなかったのか? それとも故意の犯行か? それによって結果には天と地くらいの差があるわ。それをちゃんと見極めないと」

 枝毛を見つけ出す暇があるなら真実を見つけ出して欲しい、と私はごねた。後になって考えると、それが相手の心証を悪くした恐れがある。ジョージーニイ・バウンドは私を重犯罪者用の留置場へ入れるよう部下に命じた。

「さっきまであなたがいた留置場は軽犯罪者用なの。大量殺人を考えている凶悪犯を入れておくわけにいかない。別の場所へ移ってもらうから」

 状況がさらに悪化したことを私は自覚した。呟く。

「なんでやねん」


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 重犯罪者用の留置場は、サルコヴィー警察署の最上階にあった。小さな窓ガラスの手前に太い鉄格子が数本嵌められており、ただでさえ狭い窓がもっと見えにくくなっていたけれども、窓があるだけ先程までいた軽犯罪者用の地下留置場より圧迫感が無くて過ごしやすい気がした。

 部屋の隅に置かれたマットレスへ横たわり、一息つく。マットレスの横にある黒い壁に浮き出た謎の染みを見ながら、口唇を噛む。

 状態は最悪だった。何も悪いことをしていないのに、物騒な重犯罪者だと勘違いされているのだ。人権意識なんて高級な思想とは無縁な連中ばかりが暮らしている野性の都市サルコヴィーの警察は、私のために弁護士を呼ぶ気配が微塵も感じられない。理不尽な話だ。まるで悪夢だ。これが夢なら醒めて欲しい、今すぐにでも。少しでも早く。とにもかくにも、この悪夢が終わって欲しい。

 そんなことを考えていたら黒い壁に浮き出た謎の染みがズズズと動いた。目の錯覚だと思ったら、染みがボトリと音を立てて床に落ちた。染みの中から黒く長い髪を腰まで垂らした灰色の上っ張りを着た年齢不詳の女が出てきた。

「うおぅ……」

 声にならぬ悲鳴を上げて私はマットレスから起きようとした。しかし何たることか! 体が金縛りに遭い、動きたくても動けないのである。

 灰色の上っ張りを着た長い髪の女は私が横になっているマットレスの横に立ち上がった。身長は高い。いや、見上げているから高く思えるだけもしれない。

 正体不明の女は黙って私を見下ろしている。私も彼女から視線を逸らせない。私と彼女との無言の睨み合いは、一体どれくらい続いたのか……無限の時が流れたような印象だが、意外と短時間だったようにも感じられた。

 無言の行に飽きたのは向こうの方が先だった。女は言った。

「お前は、誰だ。ここへは誰に頼まれて来たのだ。言え、言わないと殺す」

 口が上手く動くか心配だった私は唾をゴクンと飲み込んでから話し出した。

「誰かから頼まれて、ここへ来たのではありません。自分の遺志で来たのでもありません。私がここへ来たのは、強制連行されたからです。それも、無実の罪で」

 女はしばらくの間、何も言わなかった。やがてマットレスの横を離れ、反対側の壁際に向いて立ち、それからやっと話し始めた。

「お前の体臭は異常な匂いがする。臭いのだ、あまりにも臭すぎるのだ。どう考えても、お前はおかしい」

 不気味な女に対する気味悪さより、臭い臭いと連呼されたことへの怒りが私の中で上回った。反論する。

「私の体が臭いのではございません。私が先ほどまで入れられていた地下の牢獄が黴臭かったのです。その匂いが衣服に沁みついてしまったのでしょう」

 女は私を横目で見た。

「着ている服も、元から臭かったのではないか? センスも良くないし」

 失礼な話だった。私が着ている濃い茶色の上着と緑色のズボンは、サルコヴィーの如き野蛮人の住処とは洗練さにおいて桁違いの美の都●▽(注:原著に記載されていたはずの文字は飛び散った血液の汚れで見えなくなってしまっており、解析機器の力をもってしても判読困難だった)の天才デザイナーの手による一品で、それに私は常に香水を振り撒いている。臭いはずがないのだ。

「この風雅な香水の匂いを理解できない、そんな美的感覚ゼロのあなたは一体、何者です?」

 言った瞬間、私は後悔した。心臓の辺りに強い痛みを感じたのだ。すぐさま呼吸が苦しくなる。水に溺れて息ができないときのような時間が、どれほど続いたのか? 突然その苦しみが和らいだ。私はゼーゼーと喘いだ。

 そんな私の横に再び女が立ち、恐ろしい目で私を威圧した。

「このサルコヴィーの守護天使の一人、シービープーラス・スサーナ・パリシアナに対して無礼な口をきく者は断じて許さない」

 痛みは引いていった。だが、また襲ってくるかもしれない。自分のしでかした大失態の許しを請うためなら焼き土下座を十セットくらいならばやっても良いくらいの苦痛だった。もう二度と味わいたくない。私は態度を改め、心からの謝罪の言葉を口にした。相手は受け入れなかった。

「誰に頼まれてここへ来たのか、答えよ」

 同じ質問である。うんざりしながら「誰からの依頼でもございません。自分の遺志でもなく、無理やり運び込まれたのです」と答弁する。

 どこからともなく黄色い液体の入ったガラス瓶を取り出した女は、私の全身に瓶の中の液体をぶっかけた。その悪臭に私は吐き気を催した。

「うえぇぇ……守護天使様、この液体は何なのです?」

 ガラス瓶を手品のようにサッと消してシービープーラス・スサーナ・パリシアナは言った。

「聖水だ。消毒と消臭効果がある」

「そんなにか、そんなにまで、この私は臭いのか」

 それから地味で陰気臭い守護天使は私の頭をむんずとつかんだ。

「痛い! いえ、痛いでございます。ああ、守護天使様、痛いでございますですよ、はい。もう少しお手柔らかにお願いします」

 私の哀願を一切聞かず、サルコヴィーの守護天使の一人を名乗る暴力女は人の頭を鷲づかみしたまま、この体を持ち上げた。物凄い握力だった。頭が割れるくらい……まあ実際の話、頭が割れたことは一度もないのだけれど、それくらい痛い。この女は私の頭を握り潰すつもりなのだろうか?

「あの……何をなさっているのです?」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは細い口唇を長い舌でベロリと舐めた。

「お前の頭をサイコメトリーで読み取る。それで何もかも分かるだろう。もしもお前の話が嘘だったら、ただでは済まないからな」

 私の知識ではサイコメトリーとは、遺品などに残された人間の思いを読み取る似非科学だったが、それはこの際どうでもいい。

「サイコメトリーでございますか! 初体験なのですが、いやはや、これはもう最高でございますな! このために自分は生きてきたのだと、たった今わ、わ、かりました……ところで、守護天使様! お聞きしたいことがございます」

「何だ、うるさいぞ」

「申し訳ございません。あのですね、とても痛いのですけど、どうにかなりませんか?」

「ならん」

「そうでございますか! それでは、あの、えっと、これは一体、一体いつまで続くのでしょうか?」

「しばらく続く」

「し、しばらくとは……何秒くらいでございますか?」

「お前の頭の構造は読み取りにくい。十数時間は掛かるかもしれない」

 私は気が遠くなった。いや、いっそ失神できたら、どれほど幸せか!

「麗しの都サルコヴィーの偉大なる守護天使のお一人、美しき魂の化身にして女性美の権化シービープーラス・スサーナ・パリシアナ様に謹んでお願いがございます」

「お前の願いをかなえるかどうかはともかくも、言うだけ言ってみろ」

「サイコメトリーの間、眠らせていただくわけには、まいりませんでしょうか」

「不可」

「痛みを和らげる魔法をかけてはいただけませんでしょうか」

「断る」

「それでしたら、せめて、何か、ご慈悲を……」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは、私の体をぷーらぷらと揺らしながら言った。

「暇潰しになるような情報を、お前の頭に注ぎ込んでやろうか。いと賢きヒロインと天上世界で褒め称えられる、このシービープーラス・スサーナ・パリシアナが、この部屋に引きこもっている間、暇に飽かせて書き散らした小説の文面だ」

 私は涙をポロポロポロポロこぼしながら礼を言った。

「ありがたき幸せに存じます。本当にありがとうございます」

 いと賢きヒロインはヒヒヒと笑った。

「感謝するのは読み終わってからで良いだろうよ」


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『速いカタツムリに賭けろ! すべてを賭けろ!』


 昨年末から始まった○ド●ワ協賛の列島縦断オリンピック耐久レースは、いよいよ中盤戦に突入した。個人から団体まで、出場する全選手が荒廃した日本列島を自力でひた走りゴールを目指す過酷な競技は今、世界中から注目されている。現在のところ首位から最下位まで団子状態で毎日トップが入れ替わる白熱した戦いが続いており、どのチームが優勝するか予想できない状態だ。一瞬の隙で一気に順位が落ちる、まさに油断したら終わりの緊迫した勝負の連続といっていい。当然ながら出場者のストレスは大変なもので、それに打ち勝つのも一苦労だ。つまり列島縦断オリンピック耐久レースはライバルとの戦いであると共に自分との闘いでもある。

 そんな息詰まる熱戦を繰り広げる出場チームの中で、異彩を放つ合同グループがある。別の世界からやってきた外訪者たちが結成したジャンボ蝸牛かぎゅう、かたつむりチームだ。

 カタツムリは誰もがご存じだろう。その動きは遅く、競争に向かない動物といっても間違いではない。しかし毒物で汚染され、さらに危険な怪物たちの蠢く荒野が舞台の列島縦断オリンピック耐久レースでは事情が異なる。毒物の侵入を防ぐ働きを持つ粘液と怪物たちの攻撃を跳ね返す硬い殻で防御されたカタツムリは耐久力に優れており、このレースにうってつけなのだ。

 異世界からの訪問者たちは、生体改造と魔力で巨大化かつ強化した特大サイズのカタツムリの体内に、自分たちの体をミクロのサイズにまで縮小させて乗り込み、内部からカタツムリを操縦・操作している。カタツムリのパワーアップのおかげで元から高い防御性能に加え速度も大幅に改善し、操縦者たちのサイズダウンの努力が実り操縦性や居住性も桁違いに向上した。

 ジャンボ蝸牛チームのリーダー、ルーボンノキャ・フラナガンズラン氏は、こう語る。

「我々のチームは良い状態でレースを進めている。手ごたえを感じているよ。優勝圏内にいると思う。このままのレース展開で、今の調子を維持していければ、好結果は必ず付いてくるはずだ」

 列島縦断オリンピック耐久レース主催者の広報は、解説者による次のような今後の予想を発表している。

「(前略)ジャンボ蝸牛チームは予想より善戦していると思った。これなら、まさかの結果がありえるよ。あのチームが勝ったら、高配当が期待できるね。賭けた人間は今頃、興奮して眠れないんじゃないかな。多くのブックメーカーはノーマークだったからね」

 この新聞記事を読んで、私は全身が震えた。それ、俺のこと? そう思った。そう、私はジャンボ蝸牛チームに、ちょっとした額の金を賭けたのだ。

 列島縦断オリンピック耐久レースの状況はテレビやラジオに新聞そしてインターネットのニュースで毎日確認していた。ただし私の暮らしている地域では詳細な情報は入手できず、上位三チームの名前ぐらいしか報道されないことが多かったので、ジャンボ蝸牛チームがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。他の賭け事で大損を出した私は、ジャンボ蝸牛チームの勝利にわずかな望みを抱く反面「どう考えても無理だろ、どうして俺はこんなのに賭けたんだ?」との後悔に苛まれていた。

 しかし今、消えかけていた希望の灯が赤々と輝き始めた。これ、いけんじゃね? 勝つんじゃね? 大逆転じゃね! そう思った私は現在の順位を確認しようと、スマートフォンをチェックした。順位が出ている記事を見つけた。三位までしか掲載されておらず、ジャンボ蝸牛チームの現在位置は分からない。もっとマニアックな情報が欲しかった。しかし調べ方が悪いのか、検索に引っ掛からない。

 苛々していたら床屋の親父が私を呼んだ。

「次でお待ちの方、どうぞ」

 私はソファーから立ち上がり鏡の前の散髪用の椅子に座った。

「どうします?」

「短くしてください」

 不毛にも思える質問と返答に続いて、薄くなった私の頭の散髪が始まった。目を大きく見開いてスマホを操作する私に、床屋の親父が世間話をしてくるが何も聞いちゃいなかった。

「……なんですよ、凄いでしょ?」

「そうだねえ」

「ところで旦那、何を熱心に見ているんです?」

 私は列島縦断オリンピック耐久レースに賭けているので順位を調べていると言った。床屋の親父はウンウン頷いた。

「いい勝負みたいですね。私は博打をやらないので詳しく知りませんが、大穴狙いの人が、何だか大きく勝ちそうって噂は聞きましたよ」

 それは、俺のことか? とニヤニヤしそうになったが、ちょうど髭剃りの最中だったので笑うのは耐えた。

「牛車チームだったか、亀さんチームだったか、何か遅そうな名前のチームが優勝しそうらしいですね」

 私は床屋の親父に尋ねた。

「ジャンボ蝸牛チームじゃなくて?」

 床屋の親父は頷いた。

「はい、そんな名前じゃなかったと思いましたけど」

「あそこの新聞にはジャンボ蝸牛チームが優勝候補みたいな記事が書いてあったけど」

「あれは一か月くらい前の新聞ですから、その後で大きく順位が変わったみたいですよ」

 古新聞を置いておくな! と怒鳴りたくなったが、床屋の親父が操る剃刀に首筋を撫でられている状態で文句は言いにくい。スマホを再度チェックするが、やはり上位三チームの名前しか分からず、そこにジャンボ蝸牛チームの名前はない。

 散髪を終え床屋を出た私は、列島縦断オリンピック耐久レースの情報を早く知りたかったので、床屋の前の通りからノミ屋へ電話を掛けた。レースがどうなっているのか知りたい、早く教えてくれ! と催促するも、なかなか教えてくれない。

 このとき、少し嫌な予感がした。電話に出た相手の声の調子が何だかおかしかった……と思い、通話を切ろうとしたら、通りの反対側から駆けつけてきた警官に職務質問をされた。今あなたが電話していた相手はノミ行為をしている人物ですが、あなたは客ですか? とストレートに聞いてくる。違います、と言ったら携帯電話の発着信履歴を確認したいと言われた。断ると、裁判所から令状を取って携帯電話会社に開示請求するという。やれるもんならやってみろと啖呵を切ったら、物の十分もしないうちに令状が下りて携帯電話会社が発着信履歴を提示したそうで、私は違法なスポーツ賭博の容疑者として警察署へ連行された。

 情報化時代とは、どうでもいい情報は飛び交うくせに、本当に大切な事柄は伝わらないものだと私は実感したが、それはこの際どうでもいい。

 弁護士が来るまで黙秘を続けるつもりだが、気がかりな点が二つある。

 一つは私は、とある贈収賄事件の重要参考人であること。今回の容疑とは無関係だが、その事件は大規模なスポーツイベントなので、二つの関連性を司法当局が追及してくる恐れが多分にある。

 もう一つは列島縦断オリンピック耐久レースの結果だ。勝負の決着がついたのか、我がジャンボ蝸牛チームは優勝したのかどうか、気になって気になって仕方がない。落ち着いて座っていられないので、私は留置場の折の中を動物園のクマのようにグルグル回って歩き続けている。


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 サルコヴィーの守護天使の一人を自称する女流小説家にして、いと賢きヒロインであらせられるシービープーラス・スサーナ・パリシアナが私の脳髄に送り込んできた小説が、上記のものである。頭が握り潰されそうな激痛を伴うサイコメトリーの真っ最中に読むような作品ではなかった。いや、何もない時にも読むべき小説とは思われない。マジで困った。自分が目にしているのは何の話だと思った。冗談かと疑ったが、冗談にしてもつまらない。

 ただただ脱力する私に、作者が尋ねた。

「どうだった?」

 先程この女が「もしも嘘を吐いたらなら、ただでは済まさないから覚悟しておけ」といった趣旨の発言をした記憶が頭をよぎった。嘘を言えないとしたら、この私は何を言えば良いのだろう? ええい、なるようになれ!

「面白かったです」

「気分は楽になったか? まだ痛みは気になるか?」

 あまりにも小説が酷すぎて、頭の骨が歪みそうな痛みの程度が半分くらいになった。別の頭痛で吐き気を覚えるが、死にそうな痛みではない。

「良い具合になってきました。サイコメトリーの終わりが近付いてきたのですか?」

「いや、まだまだだ」

 私の頭を握るシービープーラス・スサーナ・パリシアナの力が増した。激しい頭痛がぶり返す。この痛みが和らぐのなら! と思い、グロッキー寸前の私は心にもない美辞麗句を並べ立てた。

「先生の作品を、もっと読みたいです! この辛い日々を生き抜いていく痛みを忘れるくらい、面白い小説を! 素敵な物語が、何かございませんか!」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは寂しげに笑った。

「守護天使としての生き方を貫き通すことに疲れた私は、この部屋の壁の染みの中に引きこもり、己の心の傷を癒そうと執筆を続けてきた。ただ、自分のためだけに書いてきたのだ。人に喜ばれる面白さは求めずに、気の済むまで書き殴ったのだ。そんな私の書く小説が、素敵な物語であるはずがない」

 人の頭を唐揚げにレモンを掛けるときみたいにギュッと握り締めながら自分語りを始められても迷惑だ。しかし唐揚げレモンな私に、何ができよう?

「守護天使様! 畏れながら申し上げます! 作品が面白いかどうかを決めるのは、小説家ではございません。読者でございます! どうか私めに、先生の玉稿を拝読させていただけませんでしょうか?」

 へっぽこ小説家は少々出し渋ったが結局、私の頭の中に変な文章を送信してきた。それが下記の作品である。


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 東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件で東京地検特捜部が本社と自宅を家宅捜索する事態に陥っても、その男は余裕の表情だった。それもそのはず、彼は無実なのだ。ここはどれだけ強調しても足りない点なので、繰り返しておこう。

 彼は無実、そう、無実なのだ。逮捕され、起訴されたとしても、実は無実なのだ!

 それにも関わらず家宅捜索されているのは、実に不運なことだ。しかし押収書類の中から証拠が出ないのは分かり切っているので、動揺の色はまったく見えない。

 むしろ彼の表情には、応接室のソファーで相対している東京地検特捜部長への同情が現れていた。これだけ大騒ぎして証拠が出なかったら、責められるのは捜査を指揮する東京地検特捜部長なのだ。自分を疑っている相手に対しても哀れみを抱くとは、神や仏顔負けの人類愛の持ち主といえよう。仕事の鬼だが、心根は優しい男なのだ。

 家宅捜索の間、男は東京地検特捜部長と世間話に興じていた。確かに世間話であるが、それも尋問の一種であることは間違いない。捜査の鬼である東京地検特捜部長は、さりげない会話の中に相手を刺激する言葉を混ぜることで、男に揺さぶりをかけているのだ。その効果はあった。男の表情に激しい怒りと嫌悪が浮かび上がる瞬間があったのだ。マイナスの感情を表に出すのは、その男には珍しい。それは男の兄についての話題が東京地検特捜部長の口から出たときだった。

 男の兄はコカイン密輸事件で逮捕されていた。東京地検特捜部長は昔、その捜査に加わっていたというのである。自分と兄は義絶しています、と男は言った。会社とも無関係である、と付け加える。

 男の兄は、その会社の前社長だった。だが逮捕されたため社長を退任し、弟である男が会社を継いだ。マスコミはお家騒動とかクーデターと面白おかしく騒ぎ立てたが、男が立て直さなければ会社は潰れていただろう。お得意の映画と出版を組み合わせたメディアミックスの経営戦略が右肩下がりとなっていたところで、まさかの社長の逮捕である。そこで経営破綻してもおかしくない、まさに危機的状況だったのだ。

 男の顔色が変わったのは、その時を思い出していたからである。断じて、贈賄に関与していたからではない。しかし東京地検特捜部長は、そう思わなかった。黒だ、との確信を深めたのである。

 東京地検特捜部長は男に対し任意での同行を求めた。

 容疑を晴らすためなら、致し方ないでしょう……と男が答えた、そのときだった。

 部屋の隅に置かれた観葉植物の植木鉢がボン! と大きな音を立てて煙に変わった。壁に掛けられていた薄型テレビに宇宙から放射されるマイクロ波の白黒画面が電源を入れていないのに映る。晴れていた空に見る間に黒雲が湧き、続けざまに稲光が煌めき雷鳴が轟いて、窓が真紅の雨に濡れた。続いて地鳴りが聞こえ高層ビルがガタガタと音を立てて揺れ動く。天井の照明が消えた。男と東京地検特捜部長が不安げに立ち上がり、顔を見合わせる。そして何者かの声が室内に響き渡った。

「二人とも安心して。隕石の衝突と富士山の噴火と関東大震災は、この私が今、防ぎました。世界と日本の滅亡は、この私は食い止めたのです」

 二人は声のする方を見た。観葉植物のあった場所の煙が晴れて、そこに白い服を着た男が立っている。頭の上に光り輝く輪が浮かんでいて、背中に白い鳥の羽が生えていた。顔は老人で、任意同行を求められた男に酷似している。

 逮捕する者とされる者。立場の異なる二人だが、両者ともその男に見覚えがあったことは共通している。

 二人が口を開く前に、天使みたいな外見の男が言った。

「東京地検特捜部長、私は抗議します。これは不当な権力行使です。尋問は取り調べ室ではなく武道場で行うつもりでしょう? 取り調べと称しリンチで自白を引き出す魂胆でしょうが、そんなことは絶対に許しません」

 そして男に笑顔で言った。

「潔白が証明されるまで異世界に雲隠れするといい。なーに、心配することはない。面倒を見てもらえるよう手配するから」

 天使っぽい格好の男はスマートホンを出して何処かへ電話した。

「あ、いつもお世話になっております。は、例の件で。ええ、お願いします。この前お話しした、あいつが、そうです、私の弟ですけど、はい、弟の方の角川ですが」

 男の方を見て頷く。

「ええ、そうです。弟の方の角川ですけど、すぐに逮捕されそうなんで異世界に潜伏させます。どうか面倒を見てやって下さい。私も後から顔を出しますから。その前に、幻魔界転生の件を片づけないといけなくて。ご面倒をおかけして、すみません」

 そして男に白い粉をぶっかける。

「さあ、弟よ。異世界にトリップだ!」

 白い粉を頭から掛けられた男は一瞬で気を失った。

 そして男は、トリップ先の異世界で目覚めた。前世の記憶は消失している。自分が転生する前の、真実の記憶は失われているのだ。前世では、とある大型出版社の辣腕経営者だった、その男。この世界での職業は何でも扱う行商人。そして、その男の名は、デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネンという。


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 上記のバカ話の作り手である、汚濁と混沌の町サルコヴィーの守護天使が、誰にも頼まれてもいないのに自作を解説し始めた。

「ずっと書きかけのまま放置していたんだけど、この際だから少々書き直してみた。サイコメトリーでお前の頭の中を覗かせてもらったんで、その要素を加えたのが最大の変更点かな。この調子でね、もうちょっと書いてみてもいいかな~なんて考えたんだけどさ。時間的にね、最後まで行くのは無理そうだから、ここで話をちょん切ることにしたんだわ」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは私の体をマットレスの上に落とした。安物のマットレスだったのだが、落ちた弾みに怪我はしなかったので役に立った。あって良かった。

「サイコメトリーの結果だけど、どうやらお前の話に嘘はないみたいだね。この部屋から私を引きずり出そうとする奴らとお前には、何のつながりもなかったよ」

 私はこめかみを揉みながら言った。

「誤解が解けて何よりです」

「そうだ、お前に連絡が入っていたぞ。ゲーム世界の管理運営委員会代表代理からの緊急通信、だったかな」

 それを早く言え。

「今回の災難の原因が、その業者のせいかもしれないんです。私から連絡すれば良いのでしょうか? しかし私が連絡したくても、その方法が分からないのですが」

 読者サービスだ、と言ってサルコヴィーの守護天使にして賢いヒロインは、私の頭をむんずとつかむとゲーム世界の管理運営委員会代表代理のオフィスまでぶん投げてくれた。ありがたや、ありがたや。


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 ゲーム世界の管理運営委員会代表代理のオフィスはタバコ畑のど真ん中にあった。ゲーム世界の住人なのだろうか、様々な外見の生物がトラクターに乗ってタバコ畑を鋤き返している。あぜ道の脇に生えていた食虫樹の枝に引っ掛かった状態で目覚めた私は、親切な農業労働者たちの助けを借りて甘い匂いを漂わせた樹木から土の匂いがする地面に降りた。事情を説明し、オフィスに案内してもらう。

 誤解されるかもしれないので、書いておく。オフィスというと何だか立派な建物を予想されるかもしれないが、単なるトレーラー・ハウスだ。中は暗かった。開け放した扉から差し込む日光と、パソコンの白黒画面だけが光源だ。よく見たらパソコンのモニターはブラウン管みたいだった。それがいつ製造されたものなのかは神のみぞ知るだろう。

 見たところ無人のようである。私は中に向かって声を掛けた。

「すみませ~ん。どなたかいらっしゃいませんか~。怪しい者じゃございませんよ。行商人のデルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネンと申します。何か御用があると伺いまして、飛んで参りました」

 御用聞きそのままの私のセリフを聞いて、誰かが反応した。

「パソコンの前にあるカウチに座ってくれ」

 女の声だった。言われるがままにカウチに座る。再び声が聞こえてきた。

「君は我が社のゲーム情報の一部が混ざっていた仏壇の所有者だね」

 その声はパソコンの両脇にある小さな卓上スピーカーから聞こえてきた。マイクの場所が分からなかったので、どこへともなく話しかける。

「よく分かりませんが、多分その通りです」

「済まないね。君に迷惑をかけたようだ。どうか許して欲しい」

 ごめんで済むなら警察は要らない。ごめんで済まなくてもサルコヴィー警察は不要かもしれないが、それについての結論は後回しだ。

 私は事情説明を求めた。古いパソコンの中の人が事の発端を語り出した。

「私の経営するゲーム会社の各種ゲームでクロスオーバーをやろうとしたんだ。色々なゲーム世界に、様々なアイテムやデータを隠し、それを見つけ出すキャンペーンだ。いい企画だと思ったんだけどね、難しすぎた。リファインしようという話になって、修正したらバグが出た。それがもう、訳が分からないレベルのミスだ。異世界の邪神パーロネイトモアマッシンとか何とかいう名状し難い電子生命体が隠しアイテムである仏壇の中に紛れ込んでしまったんだよ。あり得ないよね、そんなこと。まったく信じられない話だよ。修正パッチでは補えないくらいの失策だったんだけど、まあ何とかなりそうだ」

「それは何よりですね」

「迷惑をかけてしまったお詫びがしたい。今このパソコンの中で楽しいパーティーをしているんだ。どうだい、君も来ないか? こっちへ来るのは簡単だよ。パソコンの画面に頭を突っ込むだけでいいんだ」

「遠慮しておきます。それよりサルコヴィー警察の方に、私は無実だと伝えて下さいませんか」

「もちろんだとも。他に何かご希望はあるかな?」

 私の希望。いっぱいある。だが、いっぱいありすぎて「これをお願いします!」と言うのが思い浮かばない。

「それじゃ、三つあるんですけど、よろしいですか」

「欲張りすぎじゃね?」

「そこを何とか」

「分かった。私も賢いヒロインと呼ばれる凄腕の女社長だ。君の希望を、できる範囲内でかなえてあげる。何だい? 言ってみて」

 魔法を使える行商人の私だが、物理攻撃が苦手という弱点がある。それを補完する必殺技が欲しかった。

「何か下さい。〇×はめ▲みたいなやつがいいです」

 賢いヒロインと呼ばれる凄腕女社長は私に仏壇返しという技の全貌が分かる教育用ソフトの脳内閲覧コードを送ると約束してくれた。

 それから性別を好きなように変換できる魔法も知りたかった。

「なんでまた、そんなのを。女風呂に入るためか?」

「私も賢いヒロインの仲間入りをしたいんです」

 かくして私も賢いヒロインの一員となった。しかし、そのグループに入っても、特にこれといった特典が無く、今にして思えば不要だったという感じがしなくもない。

「三つと言ったな。もう一つは何なの?」

「あ、これはどうにかなりそうです」

 三つ目のお願いは、締め切りまでに本作品を完成させたいので力を貸して下さい、だった。二万文字を超えるのは絶対に無理だと思ったが、無理に無理を重ねた結果、無理が通ってしまった。「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざ通りの滅茶苦茶な荒業だった。酷い話である。小説な下手くそな守護天使にして賢いヒロインを笑うに笑えない。だが、これも一つの経験だ。この反省を生かし次作をより良いものに死体。間違えた。より良いものに姿態あるいは、艶めかしい肢体(なんだそれ)。


 ★ 異世界の仏壇と賢いヒロインに関する、とても些細な物語、終わり


 朗読を終えたワ・ロルカに、リュクセレリュクスが冷たい水の入ったコップを差し出した。受け取って飲む。ベッドの上の難病ヒロインを見る。ワーニャは寝ていた。彼女の弟リュクセレリュクスは言った。

「お姉さん最近あまり良く眠れていないんです」

 ワ・ロルカは少女の寝顔をしばらく眺めていた。

「それじゃ、そろそろ行く」

 コップをワ・ロルカから受け取ったリュクセレリュクスが頭を下げるのを軽く手を挙げて答え、部屋を出る。ジュドグサンムの別荘で働く使用人が近づいてきた。見知った顔だ。その使用人が言った。

「旦那さんは、ご用があっておでかけになりました。それで、伝言がございます。今、お話してよろしいですか?」

「ジュドグサンムからの伝言か、いいよ」

 使用人は物騒なことを言った

「あの三人組が、ワ・ロルカさんの命を狙っています」

 敵も味方もどちらも多いのがワ・ロルカという男の特徴だ。三人組の敵も多い。

「どの三人組だ? さっきいた連中か?」

 使用人は周りの様子を窺いながら頷いた。

「奴らは、もう帰りました。ですが、帰り道に襲ってくるかもしれないです」

 そんな度胸はないだろう、とワ・ロルカは考えた。

「分かった、どうもありがとう」

 使用人は恐縮した。ワ・ロルカはジュドグサンムの使用人たちから畏敬の念で見られている。ジュドグサンに何かあれば、その跡を継ぐのはワ・ロルカだと思われていた。だからこそ、あの三人組はワ・ロルカの命を狙っているのだ。自分たちがジュドグサンムの後継者となるために。

 別荘を出たワ・ロルカはケーブルカーの駅へ向かって歩いた。それほどの距離ではない。人気のない場所があった。そこに通りかかったとき、猛スピードで突っ込んできた車に跳ね飛ばされそうになった。ジャケットのポケットに入れている銃を抜いて撃った。車の後部ガラスが割れた。だが、中の人間に命中した気配はなかった。車は去って行った。ワ・ロルカは最寄りの駅からケーブルカーに乗り、家の近くの駅で降りた。家はハウスボートだ。狭い小路を通り、壊れかけた桟橋を突端まで進むと、灰色の二階建てのボロ船がある。そこだ。

 ハウスボートに乗ると、船が揺れた。妙な音がした。車に跳ねられるより、船が沈んで死ぬ可能性が高そうだとワ・ロルカは思った。船内に入るドアを開ける。李文具として使っている船室に、義弟のカーナバースがいてソファに座り魔導書を読んでいた。

「勉強中か、ご苦労だな」

 カーナバースは眼鏡の位置を直した。

「ちょっと寝てた」

 ワ・ロルカは酒を作って呑んだ。

「魔法使いになるのは大変か?」

 尋ねられたカーナバースが答える。

「中華系の魔法はマスターしたんだけどね、異世界は広いから」

 分かったようで分からない説明だった。亡くなった妻の弟は三人いるが、その中で最も仲が良かったのはカーナバースだった。妻は年の離れた弟を我が子のように愛した。それはワ・ロルカも変わらない。だが、夫婦でカーナバースに関し意見の異なる点があった。ワ・ロルカは義弟が自分と同じ悪の道へ来るのを何とも思わなかったが、彼の妻は喜ばなかった。愛する弟も夫と同じヤクザになるのが許せなかったのだ。しかし、その妻はもういない。

「まあ、これだけやれば、何とかなるでしょ」

 カーナバースは分厚い魔導書をバタンと閉じた。

「相手は何人だっけ?」

「三人」

 難しい顔をしてカーナバースは鼻の頭を掻いた。

「一人多いね」

「魔法使いとガンマン、この二人が問題だ。残りの一人はターゲットだから、関係ない」

 ふむ……と呟いてカーナバースはソファーに寝転んだ。

「何時頃にここを出る?」

「そろそろ」

「わかったよ」

 二人はハウスボートを出た。夜が始まっていた。これから二人が殺しに行く相手は誘拐犯だった。女子供を拉致して売る。そうして売った人間の中に、ヤクザのせがれがいた。せがれは偶然にも助けられた。報復が決まった。危険を察知した誘拐犯は身を隠した。その護衛が魔法使いとガンマンだった。名の知れた二人だった。皆、二の足を踏んだ。腕に覚えのある奴が代表して始末することとなった。ワ・ロルカだ。彼は義弟のカーナバースを相棒に選んだ。筋の良い魔法使いだったからだ。

 ヤクザと魔法使いは街外れの廃墟へ向かった。元は要塞だったところだ。かつて、この異世界は妖怪変化だらけだった。街を襲う怪獣だとか宇宙人とかがいっぱいいた。そいつらから街を守るために高い城壁が建設された。その一部が、まだ残っているのだ。そして今、そこにターゲットが身を潜めている。

 ワ・ロルカとカーナバースは壊れた石壁に身を隠しながら進んだ。前方に小屋が見えた。窓から明かりが漏れている。笑い声がした。ワ・ロルカが足音を忍ばせて近づく。窓から中を覗き込む。標的がいた。他に二人いた。三人で酒を飲んでいた。

 カーナバースのいる場所へ戻ったワ・ロルカは持参したグレネードランチャーを構えた。ガラス窓に向けて撃つ。発射された擲弾がガラス窓を突き破って中で爆発した。炎を見て誰かが消防へ連絡するかもしれない。さっさと消えるに限る。だが、そうは問屋が卸さない。

 死んだ魔法使いが変な怪物を召喚していた。大きな口と長い尻尾と棘が生えた二対の触手を持ち、ずるずる這う太い胴体からは粘液がとめどもなく流れ続け、しかも異臭が凄すぎて眩暈がする巨獣だった。こういうのが生理的に苦手なワ・ロルカの代わりにカーナバースが始末した。炎の魔法で焼き払ったのだ。二人は帰りに祝杯を挙げた。仲良く楽しい夜を過ごす。言うまでもないが両者に肉体関係はない。

 翌日、ラジオニュースの報道でターゲットと護衛二名が死んだことを確認したワ・ロルカは、仕事を依頼した相手に連絡を入れた。証拠の品として、カーナバースが焼き殺した怪物の断片を見せることになった。生命力の強い怪物なので、焼け残った肉片からでも再生するとカーナバースから聞かされ、ワ・ロルカはかなりビビった。

「大丈夫、魔法で異次元に封印した状態で持って行く」

 カーナバースがそう言うので、ワ・ロルカは義弟を二人で依頼主の元へ出かけた。標的を片付けたという証拠の品を見せるまでもなかった。依頼主は二人の報酬を支払った。

「また何かあったら、頼む」

 そう言われて帰りかけたときだ。

「ちょっと小耳に挟んだんだが……ワ・ロルカ、あんた最高神ビーズログがお気に入りの三人組と揉めてんだってな」

「相手が勝手に仕掛けてきているだけだ」

「そうだろうな。うん、あいつら三人が束になっても、死神ワ・ロルカには絶対かないっこない」

 そう言っておきながら依頼主は言った。

「どうやらな、あいつら、味方を呼び寄せたらしい。それがな、オレは気になるのよ」

 三人組は自分たちと親しいBLゲームの男たちや、隣国の王太子や国王陛下の兵隊を呼んだようだった。ワ・ロルカは礼を言った。

「なんのなんの、あんたの役に立てて嬉しいよ」

 依頼主とは約束したケーキバイキングの店で別れた。依頼主は、もっと食べてから帰ると言った。甘いものが、それほど好きではないワ・ロルカとカーナバースは、さっさと店を出た。ハウスボートへ帰る途中で、二人は街で見かけない男たちが多くいることに気付いた。そいつらは二人の様子を、バレないように観察していた。

 カーナバースは言った。

「ハウスボートへ戻るのは、止めた方がいいかもしれないね」

 途轍もなく古い船なので、たくさんの男たちが踏み込んで来たら船底が抜けるかもしれなかった。ワ・ロルカは言った。

「逃げるのは好きじゃない。けれども、女房との思い出のハウスボートを失いたくもないな」

「どこに身を隠す? 昨夜の廃墟は、あんまり良くないと思うよ」

「そう思うよ」

 二人はジュドグサンムの別荘に向かった。街のナンバーワンであるジュドグサンムへ向けて弓を引く奴はいない。そもそも、事の起こりはジュドグサンムの娘の結婚相手をどうするかって話なのだ。ジュドグサンムの別荘を襲撃して、その大事な娘に何かあったとしたら、問題児の三人組は異世界をおさらばしてあの世へ行かねばならなくなる。

 ワ・ロルカとカーナバースの来訪をジュドグサンムは歓迎した。その子供であるワーニャと彼女の弟のリュクセレリュクスも喜んだ。

 ワーニャは早速、ワ・ロルカに彼女が好きな本の朗読をせがんだ。居候なのでワ・ロルカは、言われるがままに牢獄した。不治の病で苦しむワーニャは幸せだった。

 間違えた。朗読だった。


 ☆ 異世界の牢獄の物語


 君は海外旅行中に某国で逮捕された。警察署へ連行後、留置場に勾留される。鉄製の分厚い扉、打ち放しコンクリートの壁、太い鉄格子の窓、異臭を放つ薄汚いマットレスと毛布、そして茶褐色の染みがこびり付いた便器の横にミシン目の入っていないシングルロールのトイレットペーパーが置かれた狭い室内の天井から釣り下がる黄色いランプと首吊り死体。それが留置場の中にある全部だった。

 あれ?

 扉。壁。窓。寝具。便所。照明。死体。

 余計なものが最後に一つある。

 あるはずのないものがある。見えてはいけないものが見える。そういったことは、しばしばあること……なのか? 疲れのせいだろう、と君は思い込もうとする。当然といえば当然だ。異郷で突然の逮捕である。神経がやられて変なものが見えるのも、不思議なことではない。

 だから君は体を休めようとした。マットレスに身を横たえる勇気がなかったので、壁際に膝を抱えて座る。そして目を瞑るけれど、気が高ぶって眠れない。瞼を開けると、首吊り死体が見える。嫌でも目に入ってくるので、また目を瞑ろうとして、むきになって両目に力を込めるものだから、逆に心の目が見開かれていく。

 目を瞑っている間に、首吊り死体が床に降り立ち、君へ這い寄って来る……そんな幻覚が君を襲う。

 君は眠るのを諦めた。首吊り死体を虚ろな眼で見つめる。黒いワンピースを着た女のようだ。背中の中ほどまで垂れた髪の色は、はっきり分からない。天井から下がる麻のロープは髪を巻き込んで首に掛かっている。裸足だ。こちらに背中を向けているので、顔は見えない。見たくもなかった。

 そう思ったとき、気のせいか、首吊り死体が半回転したように見えた。君は慌てて目を瞑る。そのとき留置場の室内に耳障りな音が響き渡った。君は両手で左右の耳を塞ぐ。それから人の声が聞こえてきた。

「取り調べを始める」

 日本語を話す、女の声だった。

 首吊り死体が喋った! そう思った君は危うく大失禁するところだったが、少々の失神だけで済んだ、逆だ。もう少しで君は失神するところだったが、少しの失禁だけで済んだ。即ち下半身がびっしょり濡れるほどの尿漏れに至らず済んだのだった。汝、神と尿道括約筋を褒め称えよ! 感謝の意を示すために踊れ、踊り狂え!

 ショックで一時的に正気を失った君は歓喜して踊る。神と自分の尿道括約筋を賛美する感謝の舞は、部屋の何処かに設置された隠しカメラの向こうにいる声の主に衝撃を与えたようだ。怒鳴り声が轟く。

「おい、お前! ただちに踊りを止めろ!」

 そう言われてもトランス状態時の踊りと車は急に止まれない。全身の筋肉が勝手に収縮と弛緩を繰り返す。躍動する肉体は疲れを知らないかのように跳ね回る。しかし実際は物凄く疲労しているのである。これは君にしか分からない。踊りを止めるよう命じた女も君の苦しみは到底、理解できなかった。

「楽しそうだが、そこまでにしておけ。ふざけた踊りを止めないのなら、こちらにも考えがある。その部屋にガスを注入するからな。ガスの効果はすぐに発現する。大抵の人間は眠ってしまう。運が悪いと死ぬ。さて、お前はどちらかな」

 踊りたくないのに汗だくになって踊る哀れな君は慌てて息を止めようとして苦しくなり深呼吸してしまった。万事休す! ガスの効き目はたちどころに現れた。急激に眠くなる。意識が遠くなる。自分を呼ぶ叫び声が聞こえる。

「しっかりして、しっかりしなさい! 気を確かに持って!」

 呼び声に答えて目を開ければ、首吊り死体の女が半回転して君を見下ろしている。叫んでいるのは彼女のようだ。すっかり震え上がった君は、また目をギュッと閉じるも、首吊り女は呼びかけを止めようとしない。

「寝たら死ぬ、寝たら死ぬんだから! 絶対に目を閉じないで!」

 必死の呼びかけとは、こういうものなのだろう。恐怖心を克服し君は目を開けた。

 首吊り女は安堵したようだ。胸の前で両手を合わせ、君に語り掛ける。

「大丈夫、ガスはすぐに薄れていくから、このまま眠らなければ平気よ」

 言われてみれば眠気は前より気にならなくなった。しかし目の前に首を吊った人間がぶら下がっているのは気になって仕方がない。たとえ自分を助けてくれた存在だとしても首吊り死体は……いや、待てよ。助けてくれるのか? そう考えたとき、君は首吊り死体にすがりつきたくなった。溺れる者は藁をもつかむというが、異国の留置場にぶち込まれたら、たとえ幽霊にであっても助けてもらいたくなるらしい。

 そのとき取り調べ担当の女の声が響いた。

「驚いたな。あのガスを吸って立ち上がれる者がいるとは、信じられないよ。動くことさえできないのが普通なのに」

 それから女は「ふふふ」と笑った。

「そうか、お前は忍者、忍者なんだな」

 君は呆気に取られた。忍者だと誤解された経験が無かったからだ。忍者が実在していると信じている人間がいることが信じられなかった、それもある。そして、そんなことをいう者が自分の取り調べる担当者であることも信じられずにいる。これなら、幽霊に助けてもらったことの方が土産話のネタに使えるというものだ……と考えて、背筋が二重の意味でゾッとした。

 幽霊が留置場の同じ部屋にいる、これが気持ち悪い理由の一つ目。

 二つ目は逮捕されて留置場に拘留されていることだ。自分がどうして留置されているのか、さっぱり分からない。君は自分が逮捕された理由を知らされていなかった。犯罪行為に手を染めた覚えはないので、これは何かの誤解か、不当逮捕だ。

 抗議しようとしたら取り調べ担当の女が言った。

「忍者は日本のスパイだそうだな。一般人に変装して他国の情報を入手していたと聞く。道理でなあ、普通の旅行者のふりをして、我が国の機密情報を探っていたのも、忍者ならではのテクニックか」

 君は自分がスパイだと間違われていることに気が付いた。

 それは誤解だ! 自分はスパイではない! 何かの間違いだ! これは誤認逮捕だ! と隠しマイクに向かって抗弁するも聞き入れてもらえない。

 女取調官が「ククク」と薄気味悪く笑った。

「そこに収監された人間は誰もが皆、同じことを言う。これは誤解だ、何かの手違いで逮捕されたのだ、ここから早く出してくれ、とな。出してやることはできる。すぐにでもね」

 君は息を吞んだ。ここからすぐに出られるのなら、それに越したことはないのだ!

 相手は十分に間を置いて言った。

「罪を認めなさい。そうすれば、すぐに出られる」

 なんだ、そんなことでいいのか。君が自分はスパイだと公言しようとした、その時である。

「駄目よ駄目、駄目、言っちゃ駄目!」

 首吊り死体の女が全身をブランブランと揺らして君を制した。目の前でプランプランしている女は意外とスタイルが良かったけれど、それはこの際どうでもいい。ここから出られるのなら何でもする。ああ、そうさ! 自分がスパイでなくともスパイだと宣言するし、罪を犯していなくとも罪を償う。この苦しさから逃れられるのなら、何だってやってやる!

「駄目なの! 罪を認めたら、それで一巻の終わりなの! 殺されるわよ、あなた。スパイは問答無用で処刑されるわ!」

 それがどうした文句はございませ……ん? やってもいない罪を認めようと大きく口を開きかけた格好のまま、君は固まった。君の舌先がレロレロレロレロと巣の中で親鳥に餌か何かを求める雛鳥のように動く。首吊り女の声が聞こえる。

「どんなに脅されても、負けちゃ駄目。気をしっかり持って。強い心で、この逆境に立ち向かうの。流されちゃいけない、自分の意思をちゃんと持つの!」

 吊られた女の言葉は君の心に深く染み入った。言われてみれば君の人生は、他人の意向に従い、世間の流れに逆らわず楽な方、楽な方へと下る一方の生ゴミまたはカスみたいな……いや、生ゴミまたはカスそのものだった。勉強も運動も不得意なのに、努力はしない。無能であることの言い訳に尽きたら時代風潮や国や親のせいにする。骨惜しみして働かない非生産的な自分のことは棚に上げコストパフォーマンスだけを語る評論家の大先生気取りで、異世界転移だか転生だかの代わりに経済力の弱い国で多少なりとも良い暮らしをしようと企んで、このざまだ。おまけに、何様のつもりか知らんが甘い言葉をヒロインに耳元で囁いて欲しいと来たもんだ。どういう了見よ? どういう考えで生きてきて、これからどうするつもりなのか? 直面することを恐れ先延ばしにしてきた問題の答えを今、出すべきなのだ、君は。

 レロレロしていた舌を定位置に戻した君は、飲み込むことさえ忘れ口の中いっぱいに溜まっていた大量の唾液をゴクンと飲み込み、小さく咳払いしてから、自分は犯罪者でもなければスパイでもない、とハッキリした口調で言い切った。一呼吸を置いてから続ける。自分はどのような容疑で逮捕拘留されているのかを、あなた方は説明する義務がある。取り調べをするのなら弁護人を付けてほしい、それから日本の大使館に大至急連絡を取ってもらいたい、昼食はかつ丼が良い、けれども無いのなら無理は言わない、この国の一般的な店屋物で構わない、と。

 四方を囲む壁の一部からガサガサという音が聞こえた。そこにスピーカーがあると君は確信した。その近くへ寄る。他の壁と同じ色だが、その部分は薄い網になっていた。中を覗くと確かにスピーカーらしきものが見える。耳をすませば、ゴニョゴニョと囁く声が聞こえる。何を言っているのだろうか? 耳を近づけたら女性取調官の声が、かすかに鼓膜を震わせた。

「……弱メンタル男子かと思ったけど、予想よりタフね。やっぱり全部、芝居なのよ。どう? 私の予想は当たったでしょ。後は自白だわ。それで本件は解決よ。え、弁護士の同席? ないない、そんなの。日本だってないでしょ? どうせ海外ドラマや映画で覚えただけ。日本大使館に連絡? しなくていいって。電話したところで、あいつら働かないから来ない。旅行者の一人や二人消えたって何もしないのが日本の害務省じゃなかった、外務省」

 外国人とは思えないほど日本の国内事情に詳しいといえよう。君は情報を得ようと更に耳を近づけたが、そこで相手に気付かれた。キィーイーン、ボゥゥウン! という大きな音が鳴り激痛が鼓膜を打つ。君は耳を抑え、舌打ちをして後退りした。聞き耳を立てているところを見られたのだ。

「はーい、はい。おとなしくしていて」

 おとなしくしていたところで、何も解決しないと君は悟った。ここで足掻けるだけ足掻かねば、この地獄から抜け出せないのだ、と! 君は再び要求した。逮捕拘留の理由説明、弁護人との面会、日本大使館への連絡――だが、相手は君の求めに応じなかった。

「逮捕拘留はスパイ容疑であると説明済み。弁護士も日本大使館も、呼んだとしたって何の役にも立たない。あいつらは金持ちのためにしか働かないの。貧乏な一般旅行者のために、警察署まで来てくれるはずがないでしょ」

 スパイスパイというが、自分がどんなスパイ活動をしたというのか、君は尋ねた。

「歩いてはいけないところを歩き、立ち入ってはいけない場所に入り、話してはいけない相手と話をして、撮影禁止地帯で写真を撮り、我が国に持ち込んではならない物を持ち込み、持ち出してはいけない物を持ち出そうとした」

 知らなかったのだ、何も知らなかったのだと君は言う。

「言い逃れが出来ないことは、他にもあるわ。貴方は殺人の罪を犯した」

 君は自分の耳を疑った。全神経を聴覚に集中する。

 スピーカーから小さな笑い声が流れているように聞こえた。君は先程の一件を苦く思い出しながらスピーカーに近づく。警戒を緩めず、いつでも退ける姿勢で、壁の中のスピーカーに耳を傾ける。女性取調官の声が、まるで小鳥の囀りか優しい鈴の音のように耳元で響いた。

「下手な嘘はおやめなさいな。世界の真実に身を委ねるのです。今から私が話すことが事実、揺るぎのないリアル」

 蕩けるような声に君は鼓膜が溶けるかと錯覚した。彼女は続ける。

「空港に到着してからの貴方の動向は、すべて把握しているわ。我が国に入国した貴方がまず向かったのはタクシー乗り場。タクシーへの乗車を待つ人の行列に並ぶかと思いきや、そこを通り過ぎて、行列から離れた場所で人待ち顔の男にゆっくりとした足取りで近づいた。その男性は自分に迫って来る貴方に注意を向ける。でも、それはほんの少しだけ、遅かった。貴方は左手をピストルの形にして相手の男に向けた。人差し指を突き出し、口を尖らせて、貴方は呟いた。バン! とね。すると貴方に指を向けられていた男に異変が起きたの。まず胸を片手で抑え、それから苦しげな様子で、両手で胸や喉を搔きむしるように動かして、口から白い泡を吹き、次に仰向けに倒れ、そのまま息絶えた。貴方は自分には関係ないことのように、その場を行き過ぎて、そのままバス乗り場へと向かった。周囲で起きた騒ぎには無関心を装ってね」

 君は自分の左手に目を落とした。手の甲を見て、掌を広げ、人差し指の先を右手で揉むと、パッと離した。何も起きないし、何も変わらない。女は話を続けた。

「その男の正体を貴方は知っているわけだから、話すのは無駄でしょうけど――事情を説明してほしいというから伝えるわ。何も知らないふりとか、しらばっくれるのは無意味だから、時間の無駄だからやめてちょうだいね」

 君は話を続きを身振りで促した。女は言った。

「その男は我々の仲間、私服の警察官だったの。我が国にとって好ましくない立場だけれど、入国を表立って拒否することが困難な入国者の行動をチェックするために、空港前で待機し、そこから尾行を開始するのが彼の任務だったのよ。それを貴方は、謎めいた力で殺害した。おかげで尾行の対象者はまんまと逃亡したわ」

 君は嘲笑った。スピーカーの向こうの女性は、君の嘲笑に気を悪くした様子もなく――あるいは無視を決め込んだのか――話を再開した。

「バス乗り場へ向かった貴方は、タクシーを使わない貧乏旅行中のバックパッカーや地元の人間と一緒にバスを待ち、それから空港発首都行きの路線バスに乗り込んだ。ほとんどの外国人は空港から首都へ直行するシャトルバスを利用するのだけど、貴方は違った。タクシーを使うと足取りを拾われやすいと判断したのかしらね。でも無駄なことだったわ、貴方の動きを警戒して監視体制を短時間で構築したの。うふふふ、褒めてくれても構わなくってよ」

 突然のお嬢様チックな話しぶりに困惑しつつも、君は両手で乾いた拍手を送った。

「どうもどうもサンキューベリーマッチ。我々の監視網に気付かなかった貴方は、隣に乗り合わせた農家のおばちゃんと話をしたり、反対側の座席に座った子供とお菓子を交換していたけど、我々はそういったことを全部観察していたの。そして貴方が何処に向かおうとしているか探ったわ」

 君は胸のポケットから小さな箱を取り出した。箱を開き、中からホヤの干物を一つ取り出す。口に入れて噛みしめる。癖はあるけれど味わい深い。この燻製の良さを、日本人でも分からない者がいることが、君には信じられない。

 女の話は続く。

「貴方は首都から離れた場所でバスから降りた。そこからしばらく歩いて、スラム街に入った。他国からの観光客は勿論、良識というものを持ち合わせているのなら地元の人間だって足を踏み入れようとはしない場所よ」

 この国の貧困を象徴するスラム街は国家の定める法律ではなく悪徳と暴力が生み出す独自のルールによって統治されている。強大な国家権力の支配が及ばない地域なので、無法者にとっては住み心地が良い。善良なる市民にとっては無関係な土地のはずだが、善人面ぜんにんづらをしているだけの悪党には心惹かれるものがあるようで、夜の明かりに吸い寄せられる羽虫のように貧民窟へ足が向く。麻薬、売春、さらなる悪事の相談と、闇の経済を回すために腹黒いビジネスマンが大車輪の活躍だ。そんな危険な場所を、君はどうして訪れたのか? その答えを知るために君を監視していた者たちは、スラム街に潜り込ませた密偵団に連絡を取り、君の調査を継続させた。

「貴方は、この国に入国したのは初めてだった。当然、スラム街を訪問したことなんて一度もないはず。それなのに、長年住んでいるみたいな足取りで、あるいは、生まれてからずっと住んでいたけど、しばらく留守にしていて、久しぶりに里帰りした人間のような気軽さで、入り組んだ街を歩いていたそうね。物騒なところなのに、怯えた様子が全然なかったって、密偵たちが驚いていたそうよ」

 人がいない場所だと鼻歌でスキップしていた、とまで彼女は言った。見ている方が恥ずかしくなった、とのこと。まるで遠足気分ね、と女は笑った。君は一緒に笑いたくなったが、止めた。

「貴方が向かった先は、政権転覆を図る反社会的勢力のアジトと噂されている廃工場だった。外国人が立ち寄るような場所では、勿論ない。ただし、その反社会組織が我が国と敵対する外国勢力とのつながりが疑われている場合は別だ。貴方は、我が国を崩壊させようと企む邪悪な秘密結社への特使として、ある国から派遣されてきたのではないか?」

 ある国、であって日本と名指ししていないことが、君は気になった。聞いてみると彼女は答えた。

「その国家が日本である可能性は否定しないよ。その可能性は当然あるのだ。けれど、我々はこうも考える。貴方のパスポートが偽造されたものではないか、と。貴方から没収したパスポートを精査中だが、その疑いはあると鑑識班は言っている。貴方が本当に日本人なのか、日本大使館に問い合わせてみたらどうかと思うよ。大使館に連絡されたら、困るのはどちらなのかな?」

 君に答える義務は微塵もない。話を続けるよう日本語で促す。

「それから貴方はスラム街を出た。そして我が国の国内各地を回る。外国人の立ち入りが禁じられている地域にも潜入し、写真撮影が厳禁の軍事施設や発電所などの映像を撮った。貴方の行動をサポートしていた連中がいたことは判明している。空港で貴方が私服の刑事を殺したことで、簡単に入国できて自由に動けるようになった人間が恩返しをしてくれたみたいね。悪い国際親善だわ」

 そんな話は一切合切、出鱈目だと君は主張した。相手は取り合わなかった。

「証拠写真が何枚もあるわ。見る?」

 壁の一部から映写機の光が出てきて、反対側の壁に映像を映した。そこには確かに君の姿が映っていた。いつ撮影されたものなのか、記憶がない。そこで君は、これは自分に似ているが別人だと言った。その答えを聞いて、取り調べをする女は苛立った様子である。

「別人? これが? どう見たって貴方本人でしょうが」

 他人の空似だ、と君は潔白を唱える。うんざりした声で女は言った。

「自白しないなら拷問を考えないといけないわ。頭を冷やして、一晩よく考えて」

 そして取り調べは終わった。鉄製の扉の下部に小さな開口部があり、そこからパンと水の入ったコップを載せたトレーが出てきた。これが食事らしい。食欲を感じなかったが、そんな粗末な食べ物でも見ているうちに空腹を覚えた君は、トレーに手を伸ばしかけて、ビクッと手を止めた。毒入りじゃないだろうか? 毒ガスを室内に注入する連中だ、料理に何を入れるか分かったものではない、という疑いが湧いてきたためだ。

 そんな君の様子を観察していたのだろう、スピーカーから女性取調官の声がした。

「何も入っていないから安心して。それと例の怪しげな術を使うのは止した方が良くってよ。指鉄砲の格好をしたら射殺するように警備へ通達済みだから」

 お言葉に甘えて、君は食事を摂ることにした。パンと水だけなので、料理とは呼べないのかもしれない食事内容だったが、口に入れたら意外と美味しく食べることができた。量が少ないのは不満な点だ、お代わりが欲しいな……と考えていた君は、急に具合が悪くなり白目を剥いて卒倒した。当初の予想通り、一服盛られたようである。

「毒であっさりと気絶している場合じゃないでしょっ! もう、しっかりしてよっ! あなたは伝説の勇者様なんでしょう? この国を救う神の代理人エージェントなんでしょう? どうか立ち上がって……お願い、私たちを助けて……」

 首吊り女の声は、最後の方は涙声だった。女を泣かしておきながら、呑気に気絶しているわけにはいかない。君は死の淵から蘇った。

 目を開けた君を見て、首吊り女は首を吊った縄が切れんばかりに狂喜乱舞した。

「やっぱり、やっぱりそうなのよ! あなたは伝説の勇者なのよ! もう疑わないわ! 何だか物凄く頼りない感じがするから、ずっと疑っていたけど、謝るわ。本当にごめんなさい」

 謝られるようなことはされていないし、頼られるようなことは何もしていない自覚のある君は、返答に窮した。そもそも分からないことだらけで、何を言っていいのかも分からないくらいだった。それでも自分がスパイだと疑われて逮捕拘留されていることは分かった。しかし、女性取調官が言ったようなことをやった記憶が君には全然ない。誰かと間違われているのだと確信を持って言える。絶対に警察当局の勘違い、誤認逮捕なのだ。自分に瓜二つのそっくりさんがこの国の何処かにいて、そいつが指鉄砲でバン! とやったりスラム街に乗り込んで反政府組織の人間と接触したり機密情報を入手していたのだと君は考えた。もしかして自分には、生き別れた双子の兄弟がいるのかもしれない。その辺のところを首吊り女は知っているのかも……と思い、君は彼女に事情を聴いてみたくなった。

 それでもやっぱり幽霊との会話は怖い。自分を処罰しようと一生懸命な異国の女性取調官との会話も嫌だが……霊に憑りつかれるのと死刑になるのを比べたら、若干ながら前者の方が選ぶ余地ありだった。

 何か事情を知っていたら、話してほしい。君は、そう呟いた。

 首吊り死体の女は、君から話しかけられて喜んでいる様子だった。首に巻き付いたロープを器用に伸ばして天井から床に降りてくると、君の隣にちょこんと腰を下ろす。君にささやきかける。

「この国には伝説があるの。汚職と悪政がはびこり民衆が苦しむとき、伝説の勇者が異国から現れて不当な権力を握る上流階級を打倒する。その伝説の勇者が、あなた」

 あまりにも漠然とした話である。自分が救国伝説の主役だと聞かされても、まったくピンと来ない。その伝説は、一体どんな伝説なのか? もう少し具体的なところを教えて? と君は聴いてみる。

 物凄い超能力でバンバンやるの、と女幽霊は言った。何が何だかさっぱり分からないが彼女が語彙力に乏しい感じなのは、薄々理解できる君なのだった。

 君は質問の方向性を変えてみることにした。どうしてここにいるのか? どんな事情で首吊り死体の幽霊になってしまったのか、と尋ねる。

「昔、昔、もう遠い昔のことよ。私は、この国の王女だったの。とても大切にされていたわ。誰からも愛されていた……と思っていたけど、実は違ったの。私を追い落とそうとする邪悪な陰謀がひそかに企てられていたのよ。ああ、私はそれに気付かなかった。そう、あれは私の十六歳の誕生日だった。私はあの日、世界で一番幸せな十六歳の女の子だったと思うわ。誕生日を迎えただけじゃないの。その日は、私の婚約発表の日でもあったの。相手は隣国のプリンス、王位継承順位は第一位の皇太子様よ。とても素敵なお方だったわ……でも、私たちの結婚はかなわぬ夢物語で終わってしまった。私は突然、逮捕されたわ。逮捕容疑はプリンス様の暗殺を企んだこと、ですって! そんなこと、私がするわけないじゃない! 彼を心の底から愛していたのよ。そんな私が、暗殺計画の首謀者なんて、ありえない、ええ、ありえないでしょう! それなのに、当時の国王陛下であらせられた私の父君は隣国との関係悪化を懸念し、私を牢に入れたわ。それが何よりも悲しかったわ! あのお優しいお父様が、私の言葉を信じて下さらず、牢屋に入れるなんて、あんまりよっ! そして裁判が始まり、私の有罪が確定したわ。斬首ですって。でも、でもね、私の誇りは処刑されることを許さなかった。だから私は、自分の意思で首を吊ったの。誇りを守るために自殺する、それこそが高貴なる血を受け継いだ王族の誉れだと思いませんこと。ええ、私の代で王族は滅んだと考えて間違いはございません。私の一族がどうなったか、ご存じ? 悪事に精を出して、挙句に王国を失ったわ。そう、私を破滅させた方々が国を滅ぼしたの。死んでから、首吊り死体の姿で国中の天井からぶら下がって、私は真実を知りました。私を追い落とそうと企んだのは、私の身内だった。私の意地悪な異母姉も、彼との結婚を望んでいたの。異母姉は権力拡大を狙う有力貴族や宗教勢力そして大商人と結託し、嘘の証拠を固めて私を逮捕させた。そして私の王子様を毒殺、そして自分の父親である国王陛下をも殺害して両国の最大権力者となったわ。自らの欲望を満たすため殺戮に次ぐ殺戮の嵐を巻き起こして大混乱を招いた異母姉は反対勢力のクーデターに倒され断頭台の露と消えた。それでも平穏な日々は戻ってこない。理念なきクーデター、権力闘争でしかない革命劇が繰り返され、独裁政治の代名詞みたいに国外で紹介されるのが、この国、私の母国」

 首吊り死体の幽霊は話を終えた。彼女が隣に座ったときは死臭を警戒したが、今は甘い女性の香りがして、心が弾む君だった。命を二度も救ってもらった礼もある、何か彼女の力になってやりたいと、君は心から思った。

 しかし何をどうしたらよいのか、それが分からない。女の幽霊は君を救国の英雄だと言い、女性取調官がスパイと決めつけているけれど、自分はそんなものではないのだ。

 それでも首吊り幽霊は君に期待しているようだ。甘く蕩けるような声で囁く。

「こんなの不条理な話だと思うわ。スパイだと疑われて不当逮捕されて、拘留された留置場には大昔から死ねずにいる幽霊がいて、なんてそんなの、出来の悪いカフカとかカミュの小説だもの。迷惑をかけているって感じてる。反省しているの。それでも、ね。私はあなたを信じてる。私はずっと、あなたを待っていたの。きっとあなたは、私の王子様なのよ。私のプリンス様は、本当はあなただったのよ」

 隣に座る首吊り女を、君は見つめた。首の縄さえなければ、素敵な女性に思えてくるから不思議だ。いや、ロープもファッションだと考えれば無問題か? と君は思う。多様性が叫ばれる時代でもある。首吊りの縄もおしゃれだし、恋人が幽霊というのもありかも? それに考えてみれば、こんなにまで異性から頼られることなどなかった。何がどうなるか知らないが、異国の土になるのも故郷の墓に入るのも、死ぬのは一緒。それならば命の限り暴れてみるのも悪くあるまい?

 君は試しに左手を指鉄砲の形にしてみた。女幽霊の首から天井に伸びている縄に向けて人差し指を向ける。バン! と呟く。縄がブツリと切れて落ちてきた。首吊り女と顔を見合わせる。彼女は瞳を輝かせて言った。

「勇者様だわ、あなたは私の勇者様なのよ!」

 彼女にいきなり抱きつかれた君は、両手をどうするか、大いに悩んだ。その手で彼女を優しく抱きしめるべきか、それとも力強く押し倒すべきか……と判断に苦慮する時間が短かった。短機関銃サブマシンガンを構えた警察官数名が室内へ突入してきたのだ。君はとっさに女幽霊をかばった。幽霊に銃弾が命中しても大きな問題は発生しないだろうに。

 スーツを着た若い女性が警官たちの前に立った。彼女は小さな穴の開いた天井を見上げて呟いた。

「カメラ越しに見たときは到底信じられなかったけど、実際に開いた穴を見れば信用するほかないわね」

 そして彼女は言った。

「今ので貴方が殺人犯のスパイだと確定よ。記憶がないとか人違いといった言い逃れは、もう通用しないわ」

 スピーカー越しに聴いた声だった。君が想像していたより声の主は美人だったと書いておく。

 自分は二重人格で、それは病気だから無罪! という新たな言い逃れを思いついた君だったが、言わなくても良いかな、と思い直す。そう、君は思い出したのだ。自分には別の人格があり、オンとオフのスイッチが入るように人格が切り替わるのだと。今の人格のときは、別人格の記憶がないようだ。だから殺人や諜報活動について君は何も覚えていなかった。だが、今は違う。逮捕され幽霊と出会いガスや毒入りの食事で生死の境をさまよっているうちに、両者の境界線が消失してしまったらしい。

 それでも両人格は完全に混ざってしまったわけではないらしい。君の心の奥底で、君の別人格が「全員を指鉄砲の連射で射殺しろ」と主張しているが、君は人殺しを好まない。人を指さす行為は失礼に当たることも知っている。だから君は両手をゆっくり肩の高さに上げて、自分に銃を向ける警官たちに言った。

「降参するから撃たないで」

 次の瞬間、君は掌から人間を眠らせる怪電波を発射した。無音であり強い衝撃波が発生するわけではないが、人間ならば確実に眠る技である。指鉄砲のテクニックをとっさに応用して編み出した技で、上手くいくか不安だったけれど警官たちは眠った。一人だけを除いて。

 君の後ろから首吊り王女が顔を出し、自分の目の前に立つスーツ姿の若い女を見て呟いた。

「お姉さま……」

 幽霊からお姉さまと呼ばれた女の目にも、幽霊は見えているらしい。彼女はニコッと笑った。

「久しぶりね」

「どうして、お姉さまが、ここに」

「天国にも地獄にも行けず、この世を彷徨っているのよ……お互いに、ね」

 先程の話題に出た異母姉が、この女らしいと君は察した。女取調官は首吊りの女幽霊の異母姉で、断頭台の露と消えたはずの悪女だったのだ。二人とも、さっさと気づけよと思わざるを得ないが、それはこの際どうでもいい。前後を幽霊に挟まれている君は、この期に及んで怖くなってきた。それでも、自分は伝説の勇者なのだと自分自身に言い聞かせて、勇気を振り絞る。君はスーツの女に優しく言った。

「どうしてこんなことをする? 君は死んだんだ、迷わずに、あの世へ行け」

 彼女は妖艶に笑った。

「私はこの国に憑りついているのよ、この国の何もかもが憎いの」

 彼女の妹が憎々しげに言った。

「あれほど好き勝手なことをやっておいて、その言い草は何なの!」

 スーツの女が一歩前に出た。君の背後にいた女幽霊も、君の陰から出てきた。睨み合う二人の間に立って、君は仲裁を試みた。

「待って、話し合おう」

 無駄だった。姉妹は君をなぎ倒して戦いを始めた。あまりにも激しい戦いで留置場の壁が崩れ、鉄製の扉が壊れ、床が抜けた。二人は床に空いた穴に落ちてからも戦い続けた。そのうち警察署全体の崩壊が始まった。君は這う這うのほうほうのていで警察署から逃げ出す。やがて警察署の残骸から火災が発生した。火の手はあったという間に広がり、首都は炎に包まれた。騒ぎに乗じて革命勢力が武装蜂起した。大規模な衝突が国内各地で起こり、大混乱の末、臨時政府が樹立された。その首班として海外にも報道された美人姉妹が、首吊り死体の女と、その異母姉だったことは君しか知らない。あれだけ不仲だった姉妹が協力して統治した結果が出て、その国の経済状態は急速に改善し、今や奇跡の国とまで称賛されるようになるとは、救国の英雄である君も想像できなかった。今は日本に戻った君は、遠くから二人姉妹の活躍を眺めているだけだが、それでも自分の活躍があったからこその話だと思いながら、いつの間にか使えなくなった指鉄砲の格好をしてみるのである。


 ★ 異世界の牢獄の物語、終わり


 ワーニャは次の本を読むようお願いした。

 ワ・ロルカは指示された本を朗読した。


 ☆ 輝きながら全裸で抱き合う二人のマッチョの物語


 借金の取り立てから逃れるために地底へ向かう男が二人。進退窮まった者にありがちな話だが、さらにまずい方向へ向かっている。逃げた先は軍隊が戦時中に使用していた防空壕だった。本土決戦に備え廃坑を改造して建設された巨大な構造物だが所詮は袋小路でしかない。末端まで進んだところで、そこは行き止まりだ。そんなところへ身を隠して、一体どうなるというのか? 文字通り、袋のネズミだ。先の見通しなどまったく立てられないオツムだからこそ借金で首が回らなくなるのだ! と説教しても始まらない――この物語を含めて、何も。

 実を言えば、何の勝算も無く地の底へ行進しているのではない。彼らなりの目算があったのだ。その目算とは全体一体、何なのか? 言えない。決して言えないのだ。その時が来るまで、それは言えない悪しからず。

 その時が思いのほか早く訪れた。男たちは防空壕の最深部へ到達したのだ。二人は懐中電灯に照らされた切場《きりば》を見た。岩盤で塞がっている。最早もはやこれ以上の行き場は無いのだ。

 絶体絶命の状況にもかかわらず、二人の男は会心の笑みを浮かべた。ここが彼らの目的地なのだ。二人は懐中電灯を消し柔軟体操を始めた。それから衣服を脱ぎ全裸になって体中に香油を塗りたくる。そうやって準備を整えると、二人はボディービルのポーズを次々と決めてきた。なるほど、二人とも鍛え上げられた良い体をしている。だが、借金取りに追われて逃げ込んだ防空壕の奥深くでするべきことではなかろう。まして、光の届かぬ暗闇の中である。誰が二人を見るというのか? 奇妙なことは他にもある。ポージングをしている最中、二人は無言だった。力を込める瞬間も決して声は出さない。ボディービル大会でお馴染みの掛け声は当然、聞こえない。二人は実は防空壕跡地に入ってから、一言も言葉を交わしていなかった。これは無言の行なのだ。会話は勿論のこと、意味のない呻き声や叫びすら発してはならない。その上で、かくも愚かしい振る舞いに興じなければならないのだ。

 どうして、こんなことをしなければならないのか?

 その質問の答えは、やがて判明する。

 いつ分かるのか?

 突き当りの岩盤に亀裂が走り、そこから強い光が漏れ出てきた今、今である。

 二人の男は一瞬、ポージングの動きを止めた。そして両者、無言で目配せをする。それから何事もなかったかのように筋肉アピールを再開した。胸中の思いは共通だ――やはり噂は本当だったのだ。俺たちは遂に辿り着いたのだ! 伝説の女人国にょにんこくに分け入る岩戸は、ここにあるのだッ!

 高天原たかまのはら、たかまがはらにあるとされる天の岩戸は良く知られているが、それ以外にも岩戸はあって、それがここにある……と両名は言っているのである。天の岩戸は天照大御神あまてらすおおみかみが閉じこもったことで有名だ。二人の言葉を信じるなら、ここの岩戸は伝説の女人国に通じているのだそうだ。女人国とは、女性だけが暮らしているという想像上の国で、西のアマゾネス東の女護ヶ島にょごがしまといった具合に洋の東西を問わず伝承が残っている。

 地底に女人国があるという伝説は、この地方には昔から言い伝えられていた。山奥で鉱山を掘っていたら女人国の女が「山を荒らすな」と怒り心頭のご様子で武器を持って大勢出てきたので急いで逃げたとか、繁殖期になると女たちは里へ現れ男を誘惑して女人国へ連れ去るとか、色々あるが近代に入ると信じる者は皆無となっていた。

 それが防空壕建設で廃坑の拡張工事を開始したら、労働者の間で女人国の噂が一気に広まったのである。発破を掛けたら女の悲鳴が聞こえた、女がいないはずの坑道の奥で女の姿を見た、等の幽霊話から始まって土地に伝わる女人国の伝説が語られるようになるまで、それほどの時間は掛からなかった。

 多くの労働者が工事現場に入るのを恐れるようになるに至って、工事を請け負った企業も対策を考え始めた。労働者を脅して地下深くへ追いやる以外に特別な対策はなかったが、賃金を払わないと言われたら雇われ者は幽霊だろうが女人国だろうが現場へ入るしかない。そして、遂に労働者たちは廃坑の最深部に到達した。そこで彼らは女人国からの使者と名乗る異形の物体と遭遇したのである。

 その怪物がどのような外見をしていたのかは正確には伝わっていない。それを見た者は皆、既に物故者となっているし、敗戦時に軍部が目撃証言を記録した資料をすべて焼却したので、曖昧なことしか分からないのだ。分かっているのは、女人国からの使者が工事の即時停止を求めたこと、そして工事責任者と会合を持ち、何らかの条件を飲めば工事の継続を認めるまでに姿勢を和らげたこと、地表側から話し合いを希望するときは女人国に対する敬意を示すため無言で坑道の最深部までやってきて、裸になって逞しい男性の肉体美を見せつけるように伝えたこと、これぐらいである。

 地上の側から女人国へ会合を求める呼びかけは行われないまま終戦を迎えたので、工事とマッチョむんむんポージングの機会は永遠に失われた……はずだった。それがどうして二人の男が全裸でポーズを決めているのか? 話は少し遡る。この二人は、とある町のオカマバー(この物語の頃にはゲイバーという洒落た呼び方はなかった)で働くカップルだった。そのオカマバーのオーナーは戦時中に建設会社の現場責任者をしていて、防空壕建設現場で起きた女人国に関する奇怪な事件の噂を知っていた。当時はまだオカマが暮らしにくい時代だった(今もそうかもしれない)。そんな時代に生きるオカマにとって、女しかいない女人国は女だけでなくオカマにとっても天国ではあるまいか? 借金苦のせいで、とうとう自殺まで考えるほど気持ちが衰弱していた二人の男、ターヤ49歳とキジィ29歳は、そんな風に考え、オカマバーの売り上げを持ち逃げして旅費を作ると伝説の地、つまり地下の女人国へと出発した。その旅路の果てが、ここ、廃坑の最奥だ。

 この説明が終わると共に、廃坑の突き当りの岩盤が崩れた。そこから放たれた強い光に、ターヤとキジィの目が眩む。光の中から現れたのは二人より背が高くスタイル抜群の遮光器土偶だった。遮光器土偶は言った。

「よく来たわね。長いこと待っていたわよ。生贄はあんたたち?」

 無言の行を破っていいのか分からなかったので、二人は沈黙を守った。それが肯定と受け取られたようである。自分たちは生贄ではないと言うべきだったかと二人、後になって思わなくもなかったが思ったところで後の祭りというものだ。

 遮光器土偶は両目から怪光線を発射した。その光線に包まれたターヤとキジィは、あっという間に美少女へ変身した。遮光器の巨大なガラス面に映る自分たちの姿を、二人は信じられないという面持ちで見つめた。そうなったら、もう沈黙を守ってなどいられない。本性が露呈する。

「ちょっとナニコレ! 何なのよ!」とターヤ49歳。

「あたしのストロングなボディーが、こんな惨めなものに成り果てちゃうなんてサ……もう信じられないっ」とキジィ29歳。

 その後も二人は甲高い声でキーキー喚き散らした。マッチョマッチョしていた時はためらうことなく全裸となって自慢のわがままボディーをこれでもかぁん、これでもかぁん! と言わんばかりの勢いで過剰に見せつけていたというのに、生まれたままの姿の可憐な美少女になった今はというと右手は胸、左手は腰を隠し心なしか前屈みになっているのは、とても可愛らしくって糸岡氏じゃなかった、いとおかし。

「あんたたち、うるさいわよ。ちょっと静かにおしよ」

 遮光器土偶が注意したが、ターヤとキジィは黙らない。

「どうしてこんな小娘になってんのよ」

「聞いてないわよ、マジで聞いてないわよ」

「話してあるわよ、忘れてんじゃないの。それとも、あんたたちバカぁ?」

「馬鹿にしないでよ、馬鹿じゃないわよ」

「あたしたちのグンバツなボディーを返してよ返してよ、早く返してよぉん!」

 うざくて可愛いウザカワイイ系女子を略してウザカワと呼ぶ地方があるようだが、そこに女人国は含まれているらしい。遮光器土偶は言った。

「あ~のね、ウザカワの系統はね、もういるのよ。キャラクターの個性を立てたいのならねえ、別のにしたら? 個性を際立たせる何かがあるはずよ、あんたたちにも」

「あったのよ、あったから言ってんじゃない」

 ターヤはリュックサックの中から思い出のアルバムを取り出し遮光器土偶の顔の前で広げて見せた。

「これは日本版『ロッキー・ホラー・ショー』の舞台オーディションで撮ったもの。ウチとキジィの二人で受けに行って、最終選考まで残ったのよ」

 キジィが合いの手を入れる。

「そうそう、あたしたち、もうちょっとだったのよ」

 遮光器土偶は冷たく言った。

「最終選考まで残っただとか、あと少しで合格したのに、なんてのはね、何の自慢にもならないの。受かった者と落ちた奴の違いは天と地より大きいわ」

 もうすぐ50歳になるターヤは肩を落として負け続けた人生の書をリュックサックに戻した。アラサーだが気持ちは若いキジィは、まだ未来に若干の希望を抱いていたので、遮光器土偶に食って掛かった。

「そんな言い方しなくたってイイじゃないのさ! これからよ、あたしたちは、これからなの! だから返してよ、あたしたちの体を返してったら!」

 遮光器のガラスをキラリと光らせて、土偶は言った。

「取引したでしょう。工事を続けたいのなら人身御供ひとみごくうを差し出しなさいって」

 人身御供の意味が分からないので、キジィは薄ら笑いで肩をすくめた。その意味を知っているターヤは遮光器土偶をじっと見つめた。

「生贄って言ったわよね、さっき」

 遮光器土偶の巨大な頭が小さく上下した。

「言った」

「ウチらの元の体は、生贄になったの?」

「なった」

「あの体は、取り戻せるの?」

「知らない」

「知らないって、どういうこと!」

「ちょっと唾を飛ばさないでよ。担当が違うから、知らないんだって」

 事の次第が分からず話に食い込めずにいたキジィだったが、生贄と人身御供が同じ意味だと、やっと理解した。鼻息荒く遮光器土偶に突っ掛かる。

「あたしたちの体が生贄になったってことは、神様とか何かの餌にでもされちゃったってことなの?」

 土偶は太い首を左右に振った。

「餌ではないわねえ」

「何になったのよ!」

「女たちの玩具」

「女たちの遊び道具って、何なのよ?」

「さあねえ? あたしは詳しいことまでは知らないけど、あんたたちの体を使って、女たちはエッチなお人形遊びとかお医者さんごっことかしてんじゃないのかしら」

 外側は美少女で中身はオカマゲイの二人は顔を見合わせた。声を揃えて悲鳴を上げる。

「イヤーッ! キモキモキモキモキモファウーゥッ!」

 遮光器土偶は呆れた。

「声を合わせてキモキモ言わなくたっていいじゃないのよ」

 ターヤは全身をプルプル震わせた。

「ウチ、女に体を触られるの、絶対に嫌なの」

 顔を含む体中に鳥肌が生じたキジィは、見る間に増殖している粟粒を嫌がる土偶に示しながら言った。

「あたしなんて見てよ、これ。女があたしの体を弄り回しているって思った瞬間に、もう出たわよ蕁麻疹じんましん

 どうにかしてよ! と詰め寄られ遮光器土偶は困り果てた。

「前回の会合で、話はついているって聞いて来たんだけど」

 大規模な防空壕の建設工事即時中止を通告するため、女人たちの地底国家は異形の外交団を工事現場である廃坑へ派遣した。その使節団と接触した工事責任者は工事の継続を認めてもらう代わりに、女人国が要求する人身御供の供給を約束した。平和な時期であるなら生贄の提供など許されないが、何しろ戦時である。人命よりも勝利が大事なのだ。かくして労働者の中から候補者の人選が秘密裏に進められたが、生贄を捧げる前に終戦となり、残虐な儀式は施行されなかった。工事に関する秘密資料は連合軍が来る前に軍部が焼却したので占領軍総司令部は何も知らなかったし、正気を疑われることを恐れ関わった工事関係者は戦後になっても口をつぐんだままだった。

 一方、女人国の住人は約束を忘れていなかった。ある日突然工事は中止となり地底に平安は戻ってきたけれども、それでも生贄は欲しいのだ。一日千秋いちにちせんしゅうの思いで人身御供となる男を待ち続けて、遂に来たのだ、その日が!

 概ね上記のような説明を土偶から聞いて、ターヤとキジィは納得したかというと、全然しなかった。

「そんなの知ったこっちゃないわよ! ウチらの体を好き勝手にしないでよ!」

「何だか目が見えにくくなってきたんだけど、ちょっと見てよ、目玉にもブツブツが出来てきてない?」

「そもそもよ、どういう理屈で女体化してんのウチら。魔法? 仙術? 科学?」

「息苦しくなってきたんだけど、あんたのとこで医学って発展してる? やばいわ、ゼーゼーしてきた。救急車呼んで、早く! 救急車あぁぁぁぁぁ……」

 キジィの顔色が見る間に悪くなってきた。高度のアレルギー反応で呼吸状態が悪化したのだ。ターヤは慌てた。キジィが喘息持ちであることは知っており、その発作を見たことは何度かあるけれど、ここまで酷いものは初めてだった。

「しっかりして! 救急車ったって、あんた。ここは山奥の廃鉱よ、山の中の地の底まで救急隊は来ないでしょ」

「ぞ……んんあな、こと、いっだ、言ったっでえ……し、じ、死ぬぅ……」

 土偶は宣告した。

「女人国は穢れなき清浄の土地。死人は穢れなので死ぬなら別の場所へ」

 ターヤが切れて怒鳴る。

「酷い!」

 土偶が言い含める。

「何を言っているの。本来であれば生贄となった段階で心は消去、つまり肉体は残るけれど精神的には死んだも同然の状態になるところを、それでは哀れということで、代わりに美少女の体を供与してあげたんじゃないの。実質的にはね、あなたたちにも十分なメリットがあるはずよ。その発作は精神的なものでしょう? それなら、ここを離れたら良くなるんじゃないかしら。せっかく手に入れた美少女の体を生かして、新しい人生を生きてみることを強くお勧めするわ。どうせさあ、ろくな生き方をしてこなかったんでしょう? ちょうど良い機会なんだからさあ、やり直しなさいって。バカなりに」

 土偶の余計な一言のせいでターヤの怒りは収まらないどころか火に油を注ぐ結果となった。

「失礼なこと言わないで! 人を何だと思っているのさ! もしもキジィが死んだら、あんたたちのこと、絶対に許さない。絶対よ! 覚悟しなッ!」

 顔を真っ赤にしてギャーギャーうるさいターヤの横に、土気色の顔になりつつあるキジィがゼーゼー言いながら座り込んで動けずにいる。

 そんな状況は、長くは続かなかった。とうとう遮光器土偶が折れたのだ。

「しょうがないわねえ。それじゃ女人国へ連れて行ってあげるけどさ、どうなっても知らないわよ」

 遮光器土偶は、自分だけさっさと光の中へ消えた。ターヤはへたり込んで動けないキジィを立たせようとしたが駄目だった。肩を貸して助け起こすもキジィはそこから一歩も歩けない。やむなくターヤはキジィを背負って光の方へと歩き出した。男の体だったときと違い、キジィの目方は軽かった。しかし少女の体に変化した結果、筋力が低下したターヤにとっては重かった。

 背負われているキジィが、呻吟するターヤの耳元で囁いた。

「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって」

 喘ぎながらもターヤは笑う。

「この苦労のお返しは、後でたっぷり払ってちょうだいよ」

 二人が恋人同士であることは、既に触れた。年齢は親子ほども離れているけれど、互いに深く愛し合っていて、良いカップルだった。二人の付き合いは、かれこれ五六年になるだろうか。出会いの瞬間から二人は恋に落ちた、というわけではない。当時ターヤは中学校の教員で、妻子もあって、仕事は熱心で夫婦仲は悪くなく子煩悩な善き父親ではあるが、家族がいないときに時折こっそりと女装する、その程度の変態で、自分の中に秘められた同性愛の傾向は意識していなかった。一方キジィは小学校高学年の頃から、自分は男が好きだと自覚していた。中学校に入ると同じ嗜好を持つ相手を探すために積極的な活動を始め、そういった男性――同年齢の相手は見当たらず、主に年上だった――とタコ足で交際するようになっていた。あるとき、それらの交際相手の一人から複数の交際を止めるように命じられ、それを拒否したら酷い暴力を振るわれて入院したことが切っ掛けとなって性癖が周囲に発覚してしまう。家族はキジィを別の中学校へ転入させた。そこがターヤの勤務する中学だった。転校の事情は生徒には知らされないが教員間では共有されていた。自分は女装家であるが同性愛者でないと思っていたターヤだったが、秘めたる性癖がバレて生活環境を変えなければならなくなったキジィの悲劇は他人事とは思えなかった。いじめられないように、十分に注意するようお達しがあったので、担任ではなかったけれどターヤはキジィを気遣い、優しく接してあげた。それが傷ついたキジィの心を癒し、それに対する感謝の思いが、いつしか恋愛感情へ発展したのである――むしろ新たな傷口を作ることになりかねない気がするけれど、怪我を恐れて恋はできない。向こう見ずな、あまりにも無茶なキジィのアプローチに当惑していたターヤだが、遂に教え子の愛を受け入れた。やがて、ターヤは二人の将来を考えるようになった。しかしどれだけ考えても、考え抜いても、未来は見えてこなかった。そんな二人が駆け落ちを選んだのは、客観的には損な計算として思えないけれど、歪な純愛を貫くためには必然だったらしい。いずれにせよ、他人が口を挟むことではないのだろう、多分。

 キジィを背負ったターヤが、かつて硬い岩盤があり、今は強い光を放っている空間へ足を踏み入れた。しかし、そこに床も通路も地面も無かった。一歩前に踏み出した次の瞬間、ターヤとキジィは自然落下し始めた。二人一緒にギャーギャー悲鳴を上げて墜落しながらも、ターヤはキジィを離さずキジィはターヤにしがみつく手を離さなかったのは、愛の深さゆえか、あるいは強い恐怖と緊張で体が硬直していたためか、それともその両方か? と考えたところで意味はない。それよりも、この現状を一体全体、どう解釈すべきなのか? そっちの方が大切だ。

「二人とも慌てないで! リラックスして、深呼吸でもしてみてよ」

 聞き覚えのある声だった。ターヤとキジィは周りを見回す。先程の遮光器土偶が斜め下の空中に浮かんでいた。

「ちょま、ちょ、ちょっと待ってよ、ここは何処なのよーっ」とターヤ49歳。

「落ちるぅーっ、落ちるのよ、落ちているのよーっ! 落ちるのは恋だけでたくさんなんだからねっ!」と、ショック療法が功を奏しアレルギーによる喘息発作が治ったキジィ29歳。

「ホント、男ってイチイチうるさいしネチッ恋わよね、間違えたわ、ねちっこいだったわ」

「だったらどうなっていうのさ! そんなことよりウチら墜落して死んじゃうわ」

 強い風に煽られ涙目のターヤを、キジィが背中からぎゅうぅっと抱きしめる。

「あたしはね、ターヤとなら平気よ。一緒に落ちて行っても、ターヤとならば何処へ落ちたとしても幸せよ」

 ターヤはキジィの手に自分の手を重ねた。

「キジィ」

「ターヤ、ターヤ、あんぅ、好き好き、超愛しているわ」

 キジィがターヤの背中に自分の腰をグイグイ押し付けた。しかし、あるものがないと調子が狂うようで、悲しげに呟いた。

「女の体って、駄目ね。あたし、どんな美少女になったとしても、不幸な気分がしてしまうみたい」

 さすが相性ぴったりのアベックなだけあって、気分はターヤも同じだった。

「わかるわかる、すんごくよくわかるわ。ウチも、熱いキジィを体の奥深くで感じたいの。背中越しなんて、絶対に嫌、絶対に、絶対イヤなのよっ! 皮膚ではなくって粘膜でキジィを味わいたいのよっ! 味わい尽くしたいのよっ!」

 外見は美少女でセリフは美食家、中身はオカマの中年オヤジであるターヤを見て、遮光器土偶は感に堪えないといった風情で言った。

「うん、あんたたちは本物の女じゃないけれど、中身は女なのかもしれないわね」

 そして遮光器土偶はターヤとキジィに近づくと、二人の体に半透明の白く輝く布を掛けた。その布に包まれると、二人の落下速度は次第に減弱していった。やがて落下は止まり、二人は中空でふわふわと浮遊した。

「お空に浮かんでいるけど、何なの、これ?」とターヤが首を傾げる。

「凄く肌触りが良いわぁ」と布地を頬をすり寄せてキジィ。

 これは天女の羽衣なのだと遮光器土偶は説明した。それを聞いてターヤは「これって、まるで『魅せられて』を歌ったときのジュディ・オングの衣装みたいじゃない」とキジィに言ったがキジィは何のことだか分からず、超えられないジェネレーションギャップを痛感した。

「歌謡曲については答えられないけど」と前置きしてから遮光器土偶は「重力制御が可能な繊維で織った布地なの」と言った。その説明を理解したのかしていないのか、どっち何だか見た目では見当もつかぬ天然素材のキジィが質問する。

「何処で売っているの? あたし、欲しい!」

「非売品」

「あら残念。じゃあさ、それはともかくとして、ここは何処なの?」

 落ち込んでいるターヤの背中に背負われたまま、キジィが遮光器土偶に重ねて質問する。

「下を見てごらんなさい」

 言われるがまま下を見ると、足元には緑の陸地と、そこを流れる川や湖らしきものが広がっている。打ちひしがれていたターヤの気分も、珍しい眺めのおかげで上がってきたようで、明るい調子でキジィに言った。

「地下に大きな空間があって、そこに別の世界があるなんて、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』みたいね」

 キジィは『地底旅行』またの名は『地底探検』と呼ばれる古典的な空想科学小説について何も知らなかったが、今回はターヤに調子を合わせた。

「そうね、あたしもそう思ったところよ」

 遮光器土偶は二人に「上を見てみなさいな」と言った。二人が見上げると、頭上にも緑の大地と川や湖沼がある。

「?」

「?」

 混乱する二人に遮光器土偶は言った。

「ここはね、月の裏側に浮かぶスペースコロニーの内部なの」

 スペースコロニーとは宇宙空間に建設が検討されている、人類が恒久的に居住可能な巨大な建造物である。宇宙植民地という別称から察せられるように、地球以外への植民が開発の念頭にある。宇宙に植民地があれば、領土を巡る地上の紛争は激減するのでは……という希望が込められた研究だが、スペースコロニーを建設するより他国の人間を殺して領地を奪った方がコストパフォーマンスが良いらしく、実現のめどは立っていない。

 それなのに、女人国では既に現実のものとなっているらしい。ターヤは素直に感心した。

「人間の体を一瞬で変化させる謎の魔法だけじゃないのね。重力を制御する羽衣に、スペースコロニー建設、そして地上からスペースコロニーへの瞬間転送技術……女人国の科学技術は、あたしたちより遥かに高度なのね」

「あたしたちはスペースコロニーなんて造れないけど、スペースシャトルは飛ばしているわ。こんなのが宇宙に浮かんでいたら、ナイスガイの宇宙飛行士たちに発見されるんじゃないの?」

 キジィの質問に遮光器土偶が答える。スペースコロニーは地球と月との引力バランスが安定する空間、通称ラグランジュポイントに建設が予定されている。女人国は、ラグランジュポイントの代わりにランジェリーポイントという半球と半球の境界線にある、見えそうで見えないギリギリの部分にスペースコロニーを設置した。

「ここなら男たちの嫌らしい視線を気にせず、おしゃれを楽しむことができるのよ」

「でもさ、変じゃない。これだけ技術が進歩しているのに、男の肉体が欲しくてさ、あたしたちの体を奪ったんでしょ? 自前で好きなだけ作れるんじゃないの」

 諸般の事情で中学を卒業していないキジィだが、大卒で教員免許ありのターヤより頭の冴えを示すときがある。今回がそのときのようだ。

 遮光器土偶は二人に尋ねた。

「自分たちの体を、どうしても取り戻したい?」

 二人は頷いた。

「一応、聞いてみるけどさ、約束だから返してもらえないかもしれないよ」

 ターヤが言った。

「担当の人に確認してみて」

 キジィも言う。

「あたしたちの体が今どうなっているのか、この目で見たいの。今すぐにでも」

 遮光器土偶は自分の後を付いてくるよう二人に言った。宙に浮かんでいたターヤとキジィは天女の羽衣に包まれた体で犬かきをして遮光器土偶の後を追った。円筒状のスペースコロニー内部を六分割した三面に設置され、外部から太陽光を取り入れる巨大な窓の前に彼らは移動した。そこから広大無辺な宇宙が見える。青い地球が、まん丸のお月様が、二人の眼に映った。あそこに輝く眩しい天体は太陽なのだろうか? いや、違う。太陽は別にある。

 無言で遮光器土偶が二人にサングラスを差し出した。ターヤとキジィは受け取って掛けた。黄金色の謎めいた天体を見る。二人の目に、自分たち二人が見えた。全裸で抱き合っている。大きさは月と同じくらい。明らかに大きくなっている。

 巨大化した筋肉ムキムキの全裸男性二人が、夜の宇宙で抱き合い輝いている、その光景を女人国の女性たちは眺めて心を癒すのだと遮光器土偶は言った。

 ターヤは率直な感想を述べた。

「あれを見て心が癒されるって、あんた……女人国の女って、どんだけ精神を病んでいるのよ」

 キジィは別の感想を抱いた。

「あれ、とっても素敵やん。ねえ、あれ、とっても素敵やん」

 そしてキジィは遮光器土偶に、あの状態で何日ぐらい持つのかと尋ねた。特殊加工を施してあるので宇宙でも半永久的に持つし、光が弱くなれば前身の穴という穴から精力剤入りのエナジーを注入するので、ギャラリーの女性たちが小さな連星と化したターヤとキジィの肉体美に飽きてしまわない限り、夜空に輝き続けるだろうと土偶は保証した。

 その答えを聞いたキジィはターヤに、自分たちの体は返してもらわなくてもいいんじゃないかと言った。ターヤはキジィからの頼み事に弱い。ターヤはキジィに言われるがまま、自分の体を取り戻すことを諦めた。そして二人は今の美少女の姿のまま、月の裏側にある女人国のスペースコロニーで暮らすことになった。そして私は、いつの日か月の裏へ向かうであろう宇宙飛行士が、そこで女人国の宇宙植民地と輝きながら全裸で抱き合う二人のマッチョに目を奪われることになる、と予言しておこう。


 ★ 輝きながら全裸で抱き合う二人のマッチョの物語、終わり


 ワ・ロルカの朗読に耳を傾けながら、ベランダに立つ二人の男は互いの指を絡め合っていた。ワーニャの弟のリュクセレリュクスとワ・ロルカの義弟のカーナバースである。二人は異世界の最高神ビーズログの聖なるお導きによって愛し合う関係となっていた。尊い絆が生まれていたのである。夕暮れが迫っていた。ジュドグサンムの別荘の庭に植えられた桜がライトアップされた。美しい夜桜に、二人の男は感動していた。その目に、怪しい男たちの影が映った。庭の樹木に隠れた、大勢の男たちの作り出す影だった。二人は室内に入った。そして自分たちが見たものをワ・ロルカに伝えた。彼は決断した。

「奴らが狙っているのは、自分だ。ここを出て、かたを付ける」

 ワ・ロルカは射撃の名手だった。しかし、相手は多い。カーナバースは言った。

「加勢するよ」

 その恋人、リュクセレリュクスが言った。

「僕も、手伝う」

 一匹狼ワ・ロルカは顔を綻ばせた。

「そう言ってくれて嬉しい。だが、これは自分の問題だ」

「違う、私のせい」

 そう言ったのはワーニャだった。

「私が、ワ・ロルカと結婚したいって言ったから、こんなことになったの」

 そして彼女はワ・ロルカに謝った。

「亡くなった奥さんのことが忘れられないあなたに、無理なお願いをして、本当にごめんなさい」

 言われたワ・ロルカの胸も切なくなった。愛した者を失う悲しみは、極道の彼の心にも深い傷を残していたのだ。

「私、庭にいる連中を追っ払ってくる!」

「危ないから止せ!」

「外に出るのは危ない!」

「お姉さん!」

 三人の男は止めたが、ワーニャは言うことを聞かなかった。ベッドの下から機関銃の入った箱を出す。予備の弾倉を男たちに持たせ、ベランダへ出る。そこから彼女は庭に向けて発砲を繰り返した。いきなり撃たれたので、侵入者は這う這うの体で逃げ出した。

 敵を追い払ったワーニャは恍惚の表情で「カ・イ・カ・ン」と呟いた。

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難病ヒロイン、ハードボイルドに殴り込み @2321umoyukaku_2319

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