016:良い知識は悪い経験から

「御前は一度でも人の顔面をぶん殴ったこと、或いはぶん殴られたことはあるか?」


 訓練の始まるや否やグレースはそう聞いてきた。勿論、僕の返答は決まっていた。


「ノーであります。教官殿」


「だろうな、そういう面をしている。生まれたばかりの子鹿より数段やわな腑抜け野郎だ」


 そう吐き捨てると、彼は僕に肉薄した。


 そう表現する他ない。滑るように踏み込み、僕の胸倉を引っ掴み、ぐいと引き寄せた。


 僕の眼窩へ額を叩き込んだ。とんでもない衝撃と痛みが脳髄まで響き渡った。


 脳裏に浮かんだのは前世の記憶。棚卸しの際、ど頭に降ってきた釘箱の感触。


 気づけば、僕は床に伸びていた。一撃KOといった所だ。鼻面がズキズキと痛んだ。


 グレースは犬の糞でも見るように僕を見下ろし、僕の手元に何かを放った。派手な金属音。


 よく見れば、それは研ぎの入っていない練習用のスチレットナイフだ。


「そいつで俺にやり返してみろ。今やられた痛みを思いだせ、俺を憎め、容赦するな」


 その言葉に対する感想。こいつの頭はどうかしてるのだろう。


 それが、真っ当な意見というものだ。この世界においては彼が正常で、僕が異常だ。


 つまり、僕の頭がどうかしているということ。

 

 僕はナイフに手を伸ばす。全長二十七センチ。刃長十三センチ。真鍮製の座金。十時型の鍔。革張りの柄。刃が無い事を除けば文句なしの逸品。


 それを軽く握り締め、立ち上がる。


 地面に十字を意識する。右足を縦の線に置き、左足を横の線に置く。両足は肩幅に開き、腰を落として自身を可能な限り小さく見せる。屈むというより、背筋を立てたままに膝を適度に曲げ、重心を低く保つのだ。

 

 知る限りにおいて、それが最もマトモな構えだ。


 大道芸について調べるうちに行き当たった短剣術指南書には少なくともそう書かれていた。


 クアトロッチという名のシチリア人が書いた碌でもない本だ。


 対して、グレースは余りにもラフに突っ立っている。脱力しているといって過言じゃない。

 

 だが、攻撃が命中するビジョンはまるで見えなかった。


 僕は勇気を奮い起こし、指南書で見た通りに刃を繰り出した。


 右足を前に進め、次に左足を摺り足で前進させる。曲げた肘を伸ばし、手首の回転を最大限に活かし相手の最も無防備な部位を抉るように刃を振るうのだ。


 あと数mmで刃が届く、その瞬間。


 僕の手首はグレースの右手によって押さえ込まれた。そして、僕の手は捻りあげられる。


 凄まじい痛みが迸る。腕を破砕機に突っ込んでしまったような感覚だ。

 

 僕はたまらず、膝を付く。腹の奥から溢れ出す胆汁を地面に吐き散らす。


 苦く、酷く酸っぱい。激臭が鼻腔を貫く。


「何処でナイフの使い方をかじったか知らないが、小手先の屑に頼るな。俺はこう言ったはずだ。俺を憎め、容赦するなと」


 膝をついた僕の顎に左膝が叩き込まれる。


 舌だけは噛まずに済んだが、脳の奥にまでその衝撃は響き渡り、僕の視界は暗黒に沈んだ。

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