第1章 02 転生

「ー--ー-」


 女児は俺の手を引いた。彼女は意気揚々と、俺を部屋から連れ出すのだ。こうして俺は、ついに暗闇からの脱出を成し遂げる。

 さて、彼女は拳ほどの大きさしかない、小さなランプを持っている。あまりにも心もとない。それこそ彼女の顔すらまともに照らせていない始末だ。


 廊下はさっきの部屋に比べれば多少明るい、が……それでも、いっそココも暗がりと言ってしまってもいい。

 主な光源は二つ。壁に飾られた申し訳程度の小さなランプ。そして小窓から入って来る日光。ともなれば、当然空間も暗くなる。


「ー---」


 彼女は、時折何かを語り掛けてくる。言語はさっぱり分からない。恐らく、動きの鈍い俺を気遣っているのだろう。段差か、足元の悪い場所があれば、その都度俺にくっ付いて、慎重に歩行を手助けしてくれる。


 なぜこの子はここまでしてくれるのだろうか。三十路手前のおっさんにここまで接近して……嫌ではないのだろうか。

 ひとまず俺は、年端もいかない彼女に身体を預け続けた。



 やがて階段に到着し、そこを登る。その先は、とうとう外の世界だった。空は快晴。場所は海の上。やはり俺は船の中に居たのか。我ながらナイスな予想だったという訳だ。


 ……予想外だったのは、この船がかなりデカかった事だった。甲板だけでもサッカーグラウンドの倍くらいの広さはある。おまけに木造りである。こんな船が未だ現代に残っていたのか…………。


「ー--!」


 体の感覚に馴染めていないせいだろうか、俺はすっかり息が上がっていた。


 彼女もその事に気づいてくれた。近くの椅子を引っ張って来て、そこに座るよう促してくる。


 ……実は、座るのも一苦労なんだ。結局彼女の手を借りないと、腰すら下ろせない。

 介護される人はこんな感覚なのだろうか。自分ばかりが必死になって、彼女に対する気遣いが徐々に薄れてくる。

 そんな恩知らずな思考も露知らず、彼女は更なる気を回してくれる。肩にかけた水筒を差し出してきた。おいおいそれは関節キスにならないか? 女児相手に何を言っているのだと、思うかも知れないが、俺はあまりにも紳士なのだ。俺は首を横に振る。


「い-なーー-か?」


 その時、彼女の言葉がなんとなく分かった気がした。とはいえ俺は何も話せないので、意思の疎通は相変らずまともに出来ない。


 女児は俺の隣に寄って座る。そして俺の手を持ち上げ、手のひらを凝視し始めた。何をする気か。俺はただぼんやりと見守る事しか出来ない。

 彼女は彼女の細い人差し指で俺の手をなぞり始めた。文字を書いているらしい。言語はやはり分からない。何かを伝えようとしているのだろう。名前か?


「わーーーのーーえーめあ! めあー-!」


 彼女は自身を指さし、そんな事を言った。

 め……あ……。辛うじて聞こえた単語は、そんな感じだった。読み取れたから何なんだという話ではあるが、彼女の事はとりあえず、”メア”とでも呼ぶことにしよう。


 ”よろしく”とでも言って愛想よく振舞おうとしたが、やはり口も舌も巧く動かない。なので最大限の笑顔を作った。引き攣(つ)った笑顔だ。正直気味が悪かったと思うが、彼女は呼応してニコニコする。

 笑えばキモイと言われる星の下に生まれた俺は、かえって調子を狂わせられた。俺のこの感情はどうすればよいのだろう。



 俺はあの後、やけに広々とした部屋に案内された。長方形型のデカい机と、その机を取り囲むようにしてシックな椅子が配備され、さらに奥には厨房がある。

 ダイニングキッチンというヤツだ。


 彼女は、俺をその辺の椅子に座らせるや否や、厨房の方に駆けて行った。何か食わせてくれるのか。まさか手料理。俺は淡い期待を抱く。同時に激しい高揚感を感じる。


 ガチャガチャと厨房が騒がしい。そうしてしばらくすると、メアが小さな椀とスプーンを持って来た。



「あーん」


 メアは隣に来るなり、得体の知れない何かを口元に近づけてくる。それは、お粥にしてはネバネバしているし、とろろにしては粒粒している。本当に得体の知れない何かだ。匂いは無い。匂いが無いので余計に怖い。


 俺が拒んでいると、メアはムッとした表情を浮かべる。躊躇せず、信じて食えと言うのか……確かにこんな心優しい子の手料理を食わず嫌いで済ますなど、あまりにも恩知らずだ。しかしこんな物、食えば即座に吐き出してしまいそう。それはそれで恩知らず。

 俺に用意された選択はあまりにも残酷だった。


「えい!」


 油断していると、メアの手にしているスプーンが、勢いよく俺の口に突っ込まれた。スプーンの先は一瞬で喉の奥にまで届く。意識が飛ぶ。この子ヤバい……早く体、動くようになってくれ……親切心に殺されてしまう。


「だいーょうーですか?」


 俺は喉奥の激痛によって、それはそれは機敏に背面へそっくり返った。床に倒れ、仰向けになる。

 そんな俺を見て、メアは慌てた様子だ。そりゃ驚くだろう。先程までノロノロと動いて手助けが必須だった奴が、急にひっくり返ったのだから。

 いやはやそれにしても、この反射速度なら、体の感覚が戻るのは、そう遠くない未来かもしれない。


 ……しかしそうなると、この子の介抱は受けられなくなるのか。

 ……なんなら、マトモに動けるようになった後も、しばらくは動けないフリをしようか。そんな悪魔的発想に、俺は即決の判断を下した。



「こっちがしんしつです」


 空耳だろうか、彼女の言葉が片言の日本語の様に聞こえた。

 ……不慣れな日本語って、不思議と愛おしくなるよな。多分、心の何処かで見下してるんだ。俺は性格が悪い。


 さて、案内されたのは話通りの寝室であった。ふかふかのベッドが四つ並び、木目の綺麗なクローゼット。かなり大きい。親子孫の三世代でも大満足の収納だ。ご丁寧に姿見まで置いてある。高級ホテルの様だ。泊まった事ないけど。


「ここでまっててくださいね」


 俺は軽く頷く。待つとは何時までだろうか、そんな事も特に考えてはいない。今の俺は、時間から解放されていた。


 その時ふいに姿見を見たくなった。今俺は、余程疲れた顔をしているだろう。そういえば、さっきの部屋で覚めてから、寝癖を直していない。割と今更だが、身だしなみはかなり気にする方だ。特に高校生になってからは。

 登校中にある車の窓。学校のトイレの鏡。俺は事ある毎に自分の顔や髪を気にした。多感な時期だったのだ。

 とはいえいくら身なりを気にしても、反射して映るのはいつも不細工な俺である。今日は少しマトモだと思う日があっても、実際は大した違いのない普段通りのブスだ。



 姿見には、やはり醜悪な俺の顔が映っていた。重い瞼から覗く瞳は死んだ魚の目の様であり、口はへの字に曲がり、眉毛も髭も可哀想なくらいに伸ばしっぱなしだ。手入れの”て”の字も無い。

 頬には火傷のような跡がポツポツとある。正体はニキビ痕。高校生の頃から背負い始めた恐ろしい十字架だ。体質だからと我慢出来るような欠陥ではない。


 そんないつも通りの薄汚さを醸す顔面を、ただただ見つめ続ける。

 ふとその時、鏡の中の自分に違和感を感じた。猫背な事もあるのだろうが、見慣れた身長よりもやや低くく感じた。背が縮んでいるという訳だ。

 それにシワが無い。工場で働き出してから、苦労ジワというのだろうか、俺はやけにしわくちゃに成り果てた。あの頃から俺は急激に老け始めたのだ。

 しかし今現在、そのトレードマークのシワが無い。


 まるで若返った様だった。

 間抜けな妄想である。そんな妄想を突き破る様に、寝室の扉をノックする音が聞こえてきた。


「失礼するよ」


 ドア越しにそんな声がした。メアとは違った明瞭な声である。一発で別人と分かる具合だった。

 しかしながら、俺は声での返答が出来ない。いやに気まずい時間が流れる。


「船長、彼まだ目覚めたばっかりだから……」

「あぁそうか」


 メアの声もした。どうやら一緒に居るようだ。それなら安心。

 それにしても、俺はとうとう彼女らの言語が理解出来る様になったらしい。これで幾分か便利になったし安心もできる。というのも、彼女らが日本語で話し出したのだ。結局先程までの言語は何だったのか。


 扉が開いた。そこからメアがひょこっと顔を出す。


「船長どうぞ!」

「あぁ」


 呼ばれるやいなや、“船長”とやらも登場する。

 その瞬間、俺は驚かされる。


「やぁ冴根仁兎くん、おはよう……と言ってもまだ喋れないか」


 目の前に現れたのは、二次元作品でよく見る様な“半人半竜”の女だった。透き通った赤い角。重厚な尾っぽ。蝙蝠の様な両翼。

 一方の人相や体格は、非常に人間の女性らしい雰囲気である。とはいえ俺よりは背が高い。髪は赤毛のロング。アシンメトリーに左側が伸ばしてある。


 こうしてメアと並び立つと、どうもメアが不憫になるくらいグラマラスで美しいプロポーションをしている。服装が生地の薄いワイシャツと、ラインの映える引き締まった黒のパンツスーツであるのも、余計に彼女のスタイルの良さを際立たせているのだ。

 思わず生唾を飲む。


「明日の朝には喋れる様になるから、そしたら生前の話を沢山聞かせてくれ」


 女性はニコリと笑う。俺を安心させようと言うのか。何処までも親切な環境だ。俺は運が良かったらしい。

 さて、彼女の発言で引っ掛かるのは、“生前”という単語だ。まるで俺は死んだみたいじゃないか。


 ……やはり俺は、死んでいたのか。


 生き延びていたのではない。死んだのは事実だった。その上で、何かをキッカケに生き返ったのだ。この得体の知れない巨大な船の上で。

 そしてその頃にはもう、すっかり日が陰ってきていた。

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