第1章

第1章 01 暗闇

 死後の世界というのは究極の真っ暗闇らしい。何も無いのに、満ち足りた気分になれるらしい。

 これは、俺の好きな通説だ。皆、聞いた事くらいはあるかもしれない。


 ……裏付けなんて何もないのに、どうしてこんなに共通認識なんだろう。教科書にだって載ってない。皆、死後の世界に興味があるから、独自で調べるんだろうな。俺もそうだ。



 かくいう今現在、俺はその暗闇に包まれていた。体の感覚は一切ない。痺れている状態というのか、はたまた肉体がそもそも無いのか……。


 俺は死んだ。案外辛くも悲しくもない。それもその筈、あんな三十路手前のくたびれた肉体と人生に今更未練が無かった。もはや、清々していた。


 ……いや~しっかし、精神が残っている事には驚いたな。


 こんな暗闇の中に俺をほっぽり出して……感情くらいは消しておいて欲しかった……。ものの数十分で発狂しちゃうぞ……? 神様……あまりにも不親切だ。いくら俺がどうでも良いからって……!


 と言っても、こんな文句を聞き入れてくれる奴はいない。体が動かないと、すぐに悪態をつき始める性分らしい。嫌な性格だ。まったく死んだ後にまで自分の事を嫌いになるなんてな。



 さて、そんな時、ふいに揺れを感じた。



 なんの揺れだろう。俺を囲む暗闇が、言うなれば世界全体が波打つように揺れたのだ。俺は、海の上で仰向けになっている様を想像する。海上を思い描くだけで船酔いしそうになった……。


 そういえば生前、波に揺られるという経験はかなり少なかったな。俺は泳ぐのが苦手だし、海に行く様な奴らも苦手だった。

 海嫌いも陽キャ嫌いも全ては必然である。



 それ以降、世界が何度も大きく揺れた。心なしか、ますます海の上にいる様な気分になる。上下左右に、まったりと揺らされている様な感覚が続くのだ。終いには波の音まで聞こえた気がした。

 死後の世界に、音なんてあるのか……? 俺の知ってる死後の世界とは、少し違うな……。五感は存在しないものと思ってた。



 ……ちなみに、本当に藪から棒な話だが、実は、俺はネガティブで思慮深いのだ。

 そんなんだから、ふいに嫌な妄想をした。


 まるで今の俺は、奴隷船にでも積まれて運ばれているんじゃないか。そんな縁起でもない妄想だ。


 そんな筈はない。俺は死んだんだ、間違いない…………いや、けれど、”転生”なんて今日日(きょうび)珍しい話でもないぞ。もしかしたら、俺は奴隷に転生して、そのまま運搬されて……それを転生とは言わないか。転移だ。


 ……いや待て、落ち着け。転生なんてのは全部妄想の範疇だ。そもそも前世の記憶を引き継ぐとかありえん……。

 事実なのは俺は死んだことだけ。どうやって死んだのか、それはあまり思い出せないが……それ以上の事を考えるのは時間の無駄。


 まぁ、もし本当に生き返れるんだったら、本当に、転生できるんだったら……そうだな、いっそ異世界にでも行ってみたいな!


 ……俺、もう三十路だよ……。

 年月とは恐ろしい。まるで精神が追い付かない。いっそ止まっててくれれば良いのに。



 その時、違和感を感じた。突然の事で思わず驚く。

 俺は今、もしかしたら呼吸をしたのかもしれない。


 ”呼吸をする”なんて、何にも面白くない、赤ちゃんでも出来る行為だが……俺はすでに死んでいるので、本来、呼吸する意味は無い。死んでまでどうして呼吸をしているのか。俺は馬鹿か。


 それともやっぱりもしかして……俺は今、生きているのか……?


 ……そんな“誰も救われない事”を妄想する。いやしかし、何を根拠に死んだと言えるのだろう。記憶違いかもしれない。

 今だって、その気になれば”無い筈の”腕や足も動かせる様な気がしてきた。


「あ」


 ……今……動いた……? 俺の手、動かせたか……?


 手の感覚を薄っすらとだが感じた。かなり鈍い感覚だった。とはいえ、間違いなく、手が、そして腕が、”ある”。


 それだけじゃない。今、声も出たぞ。間違いなく、俺の声帯から発された声だ。


「あ……あぅ」


 寝起きの時みたいに喉が締まっていて、とても満足には発声できないが、なんとか何度か振り絞ってみる。間違いない。今の俺には、口や舌や喉も”ある”。身体が、”ある”。



 そうして再び、手に力を入れてみた。喉にも力を入れて……そして全身に力を入れてみた。全身麻痺状態。しかしそれでも、分かった事がある。

 どうやら俺は、何かの上に横たわっているらしい。恐らく、固いベッドの上だ。診察台の様な、固いベッド。



 そしてまたしばらく経った。やがて暗闇が暗闇でなくなっていった。目が慣れたのだ。

 視線の先には天井があり、そこには明かりを落としたランプが吊るされている。ゆらゆらと揺れていた。やはり何処かの室内か。もっと言えば、やはり船内なのだろうか。

 空間が捉えられるようになると、余計に波の上下を感じるようになる。ランプもキィキィと耳障りな金属音を鳴らしながら揺れを騒がしくする。



 本当に、生きてんだ……俺。



 と、特に安堵しているわけでもないのに、ただ俗(それ)っぽい事を考えてみた。九死に一生を得たアニメキャラみたいで、ちょっと興奮する。


 ”転生”……こんな事を、実際に体験出来る人なんて一握りだろう。褒められた人生ではなかったが、その先に、こんな非現実が待っていたとは……。



 しかし、生き返った事が例え何かの奇跡として、状況は最悪だろう。環境が劣悪すぎる。マジで護送船……奴隷船の中じゃないだろうな。


 ネガティブイメージは現実の物になるのが世の常、非現実の鉄則。ならば今は前を向こう。鬱々とした事ではなく、出来る事、やるべき事だけを考えよう。



 さぁこの頃になると、俺は身体を起こせるようになった。寝起きの時の全身麻痺より、だいぶマシになった。

 とはいえ、指先なんかは勝手に痙攣しているし、思うような速さで動かせない。これが転生の代償なんだろうか。まるで他人の身体だ。気持ち悪い。風邪でも引いた時の様な、こそばゆさと鬱陶しさだ。


 そんな身体でも、今は動かさざるを得ない。ベッドの上でじっとしていると発狂しそうだった。


 誰が俺にこんな事をしたんだ……ひいては、誰がこんな事が出来るんだろう。やはり主犯は神様だろうか。もうちょっとマシな風には出来ません?



 さて半身を起こしたら今度は周囲を見やる。

 薄っすらだが、他にもベッドがあって、他にも人がいる様だ。俺と同じように仰向けに寝っ転がっている。


 ……こいつらも動けないのか、それとも未だ気絶しているのか。

 部屋内にはベッドが六つあり、俺以外に四人いる。つまり一つだけ空いたベッドがあるという訳だ。もともとソコにも誰か居たのだろうか。まさか、起きた者順に何処かに連れていかれるのか?


 俺はどうしても現状を悲観的に捉えてしまう。ココを地獄と決めつけるのはまだ早い。三途の川を渡る豪華客船かもしれないだろ。



 さて、暗闇に目が慣れたとはいえ体の自由は効かない。とはいえ、探索しないと落ち着かない。慎重にベッドから足を下ろし、そうして、他のベッドや壁にもたれながらスタスタ歩き回ってみた。


 手探りで突き進む。その時ふと、手に柔らかな感触を感じた。若干反発してくる様な感触だ。何だろう……人生経験の浅い俺は、類似品をすぐには挙げられない。しかし決して悪い気はしなかったので、触れて損のある物ではない。

 かなり大きくて、それでいて丸みを帯びている……何か食物か、それとも玩具か?


 女子の胸ってこんな感じなんだろうな~……。


 俺はここぞとばかりに揉みしだいた。この物体に恨みは無いが、溢れ出る色欲を制止するモノは何もない。もし本当にこの物体がであるなら……。

 こんな妄想をしていると、その物体がだんだんそれらしく思えてきた。俺は凝視する。


 暗闇の中、自分が何を揉んでいるのか……薄々と勘づいてきた。気付いていたからこそ、俺はしらばっくれていたのだろう。これは間違いなく、である。

 その時俺の手には思わず力が入った。


「ん」


 たわわなの持ち主が、とうとう艶っぽい声を漏らした。俺はその時ハッとする。俺は、何て事を……。女の寝込みを襲うとは。

 気付かれない内に離れよう。俺は、面と向かって謝罪できるような、そんな大層な勇気は持ち合わせていない。



「ー----」


 その時、木の軋む音が聞こえた。この部屋の外からだ。誰かが接近して来ているのだ。微かに声も聞こえたが、聞き馴染みのない言語であった。

 隠れるべきだと瞬時に思考したが、俺の身体はヨタヨタとするばかりだ。そう、相変らず全身麻痺気味なのだ……。



 俺が隠れる間もなく、扉が開いた。その時、部屋に暖かい光が入って来る。暗闇に慣れていた目には刺激が強い。思わず面喰らう。

 さて、入室して来たのは女であった。女というよりはもはや女児だ。身長は140cmから145cmくらい。透明感のある肌は張りがあって、かなり若い。とても奴隷船の乗組員とは思えない。


 髪型はポニーテール。髪色の右側が白、左側が薄いピンクに染まっている。一言でいえば奇抜である。体格はかなり華奢だ。抱きしめたら折れてしまいそうで、近寄られたとしたら扱いに困ってしまう事請け合い。チャイナ服……とは言い得ないが、まぁそんな雰囲気の服を着ている。コスプレ紛いというのが相応しい。


 その女児は茫然と俺を見つめる。俺も見つめ返す。


 実は、俺は一先ず安堵していた。もし入室して来たのが厳(いか)つい豪傑だったなら、勝手な真似をしている俺は絞め殺されていただろう。


「ー--! ー--ー?」


 彼女の言語は相変らず分からない。何やら盛り上がっているが、俺はヘラヘラする事しかできない。

 このヘラヘラは、俺が生前身に付けた、数少ない処世術の一つなのだ。

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