プロローグ2 殻の外

「仁兎。いい加減にしなさい」


 俺の母親は口癖のようにそんな事を言っている。

 もちろん耳を貸さず、扉を閉め切った。内側から鍵がかけられる仕様なら良かったのに……こんな扉では力ずくで押し切られてしまう。俺は毎日怯えていた。


 俺は今年でもう二十歳になる。引き籠りを始めてから早四年か。

 もう四年も経つのか……もう四年も経つのに、今でもあの日の血の海が夢に出る。そうなると、その日一日は何も手に付かなくなる。そんな調子で、とうとう不登校のまま高校生活を終え、成人までしてしまった。



「仁兎、お客さんよ」


 また別の日の事だった。母親は部屋を訪ねてくるなりそんな事を言った。

 客だと? 高1の秋から引き籠ってる俺に? 何かの勧誘か? どうせ知らない奴だ……と言い返しかけたが、母親の不機嫌な表情を見ると中々そういう訳にもいかなかった。口答えすれば、俺はたちまち追い出され、路頭に迷って野垂れ死ぬだろう。

 一瞬それでも良いかとも思ったが、まだ死ぬ勇気は無いので母親の言いなりになる。


「リビングで待たせてるから。邪魔だしさっさと帰ってもらって」

「うん」


 母親はその場を立ち去って行った。

 結局、客って誰なんだ?


「お待たせしました……」


 慣れない敬語。親とばかり会話をしている弊害だ。作法という物が分からない。恐る恐る俺はそっと顔を覗かせた。

 リビングの中心に備わった机、そこには確かに人が座っていた。髪が長く、細身のシルエットだ。一瞬女性かと思った。

 しかし女ではなかった。そして俺は、ソイツの顔を知っていた。正確にはソイツの顔からある人物の面影を感じ取ったのだ。



「テル……」

「あ、ニトくん」


 テルは柔らかく微笑んだ。あの頃と変わらない笑顔だ。しかしその微笑み以外はすっかり変わっている。具体的には、女性的な雰囲気が加速している。


 実を言うと、俺は少しドキリとした。人生で女と付き合ったことは一度も無いし、それどころかマトモに会話をしたことも無い。テルが男だと分かっていても、自ずと緊張してしまった。

 もちろん、ドキリとした原因はそれだけではない。コイツはクラスメイトを大量に殺した精神異常者であった。そのことを思い出した。柔らかな物腰で、あの日の雰囲気はとんと感じないが、それでも自然と恐怖した。


「久しぶり。ずっと会いたかったんだよ?」

「……あぁ」


 テルは少年院に入れられた、なんて噂を聞いた事があった。あれだけの事件を起こせば当然、いやむしろ独房にぶち込まれてもおかしくない筈だ。俺的には死刑囚にでもなったのかと思っていた。


 それこそ、あの日の事件に関しての情報は、極力シャットアウトしていた。思い出したくなかったから。

 故に、今この瞬間、テルが語るあらゆる主観的な情報が、紛うことなき真実のように感じられた。


 盲目に信じてしまいそう。少し怖くなって俺は身構えた。


 しかし、そんな俺を他所にテルは、諸々物騒な話を早々に切り上げ、そこからは他愛もない談笑を始めた。正直、気味が悪かった。

 というのも、テルの笑顔があまりにも愛らしかったのだ。なぜコイツに怯えていたのか。はたしてコイツは本当に人殺しなのか……そんな答えの見え切った疑いを持ち始めてしまった。


「でね、ここに来るまでに猫ちゃんがいたんだよ。ほらこれ。可愛いでしょ? 子連れ猫!」


 テルの問いかけにハッとする。

 勘ぐっているのがバレない様に、慌てて適当な相槌を打つ。猫は、可愛かった。俺の相槌に呼応してテルはまた一段と晴れやかな笑顔になった。コイツも可愛い。俺は男になんて感情を抱いてるんだ。


 猫の画像をいくつも見せて来て、土産と言っていくつか菓子を渡されて……いよいよ本当の目的がなんなのか分からなくなって来た。俺はますます混乱する。



「ねぇ、どうしたの?」


 吐息の混じった艶っぽい声が俺の耳を襲う。いつの間にかテルは、考え込んでいた俺の耳元に顔を近づけ、あろうことか俺を艶やかな声で誘惑したのだ。顔を赤らめ、息が上がってえらく興奮している。

 俺は、とことん色情に弱いらしい。女顔の男に優しく抱きしめられただけで、すっかり高揚していた。


「えへへ……ちょっと積極的過ぎたかな?」


 テルは俺に顔を近づけ、そのままキスをした。

 俺の頭は真っ白になる。


「はぁはぁ……ご、ごめんね? もう帰るから……」

「あ、あぁ」


 テルはそそくさと荷物をまとめ、またそそくさと我が家を後にした。


「また会おうね」


 帰り際、テルは”また”と言った。しかしそれ以来、向こう五年間ほど彼と会う事はなかった。



「仁兎。就職先が見つかったぞ」

「え?」


 二十五歳のある日。俺は相変らず引き籠っていた。そこに父親がやって来る。

 彼の言う就職先とは何だ? 一瞬意味が分からなかった。俺の就職先の事か? とうとう俺が居座っているが嫌になったのだろう。


「支度しなさい。近所の町工場だ」

「工場……」


 彼は有無を言わせないつもりだ。

 しかしそれにしても町工場とは……キツイことでよく知られている業種だな。もちろん楽な仕事など無い訳だが、工場は特にイメージが悪かった。えり好みする身分ではない、これは父親の言葉だ。ごもっともが過ぎて心が抉られる。


 それからすぐ、俺は工場とやらに連れてこられた。あまりにもデカい機械が、ゴンゴンと重低音を響かせている。だいぶ古いのか、ちょこちょこ錆びているのも見えた。ああいうのって、定期的に買い替えるんじゃねぇの? そんなに金が無いのか?


 それから程なくして工場長に会えた。軽く挨拶をしただけだが、とても人柄が良いとは言えない感じだった。幸先不安だ。

 彼は、来週にでも現場に入って欲しいと言う。完全にバイトの感覚だな。俺自身はバイトの経験なんて無いわけだけども。

 工場長の頼みを父親が了承した。その場はあっという間に片付いてしまう。とうとう働くのか。色々不安は募る。



「ほら冴根くん。しっかり報告してよ」

「す、すいません」


「あはは、手際悪いね。皆に迷惑かけないでよ」

「はい。すいません」


 それから、嫌になる程の失敗と謝罪を繰り返した。社会人経験が無いのだから仕方ないと割り切れる程、俺は楽天家では無かった。失敗は精神的に堪えるし、謝罪してばかりいると同業者から舐められた。

 俺はふと、学校時代を思い出す。まだ虐められていた頃の学校だ。

 周囲は俺を馬鹿にして、すぐに団結する。そうなれば俺はますます孤立していき、ふいに逃げ出して消えてしまいたいと思ってしまう。


 現実は、どうも上手くいかない。

 高1の秋頃の、あの絶頂期は何だったのか。やがて血まみれの教室よりも、あの頃の栄光を思い出すようになった。


「あの頃に戻りたい」


 あの日常は、いつから狂ったんだ?



 それから一年が経過した。俺に後輩が出来るらしい。俺はまだまだペーペーなもので、教育係は任じられなかった。少しだけ安堵する。自分の事でも手一杯なのだ、青二才の教育なんて毛ほども考えられない。


「今日から私たちの仲間に加わります。自己紹介をしてね」

「はい。青野照隆と申します。これからよろしくお願いします」


 驚いた。新人というのは、青野照隆……あのテルだった。俺は硬直する。こんな偶然が。奇跡があるのかと……整理が追い付かない。


「あ」


 その時、テルと目が合った。テルは一瞬目を逸らしたが、すぐにこちらを見つめ直し、恥じらう様な笑顔を見せた。


「冴根先輩。これからもよろしくお願いしますね」


 俺はむず痒い気持ちになる。”先輩”か……確かに、俺らはそういう関係になったのだ。どこまでも奇妙な縁を感じる。今は、コイツに対する恐怖心はめっきり無くなっていた。不思議なものだ。コイツは大量殺人犯なのに……。


 時間の流れか、はたまたコイツの容姿によるものか。まぁ今はともかく、自分が生きるので精一杯なのでそういった思考はそこまでに留めた。



「青野ちゃんコレお願いね」

「はーい」


 テルは作業着を身に纏い、すぐに工場の雰囲気に慣れていった。流石のコミュ力だ。おまけに、あの容姿な事もあって、おっさんからも、おばさんからも人気が出た。彼ら彼女らは、奴が人殺して少年院に入った事を知らないのだろう。


 実を言うと、俺もあの事件は、何かの間違いだったのではないかとすら思っていた。

 そんな訳は無いのだ。そんな訳は無いのに、そう錯覚してしまう程に、彼は更生し、あまりにも美しい青年に成っていたのだ。



「先輩! ごはん食べましょ!」

「あぁいいよ」


 懐かしい響きだった。実に十年近くぶりだろう。テルと昼食を共にするのは……。

 俺は工場の人気者に誘われたのだ。そんな状況に、俺は鼻を高くした。


 相変らず同業者は俺に対して攻撃的だが、テルだけは違った。やがて俺は、コイツを心の拠り所にし始めたのだった。


「俺にはお前しかいねぇよ」


 酒の席で、俺はそんな事を口走る。そんな日もあった。しかしテルは一瞬驚いた表情を見せ、またすぐに恥ずかしそうに笑った。冗談だとでも思っているのだろうか。しかし実際、俺の味方なんて、家族親戚、同業者、あの頃の同級生、誰を含めても、テルしかいなかった。


 自分でも驚く程に、俺はコイツに依存していたらしい。



「僕、子供が出来ました」


 突然そんな事を告白される。そうか、としか言いようがない。ついでに祝ってやった。


「おぉ、おめでとう」


 パートナーいたんだ。それが率直な感想だった。長く一緒に居るがそんな話聞いた事が無かった。しかし、そりゃ当然いるか、と腑に落ちもした。この美形にこの敏腕っぷり。むしろ彼女が居ない事の方がこの国の損失だろう。

 なのでしっかり祝ってやった。なのにテルは不愉快そうな顔をした。


「他人事みたいに言うんですね」

「まぁな。そりゃそうだろ」

「…………先輩との子ですよ?」


 ……は?


「僕産みますから」


 その時ふと思い出した。コイツは大量殺人しても平気な顔をして生きている異常者である事を。間違いない、重度の精神疾患なのだろう。男は妊娠できない、男同士では妊娠は出来ない。それに、もし仮に妊娠出来たとして、俺とコイツは性行為なんてした事が無い。

 妄想妊娠? 男がか?

 いよいよ本性を現したか、それとも新手の詐欺か。ともかく俺はそれ以来、わざとらしくテルと距離を取り始めた。



 それから二か月、テルは工場に来なくなった。距離を取ったことが効いたのだろう。俺にとっては好都合だった。

 しかし、あいつの問題が片付いたのだが、別の問題が浮上した。


「おい冴根、どけ」


「ホント役立たずね……」


「相変らずキモイ顔してんなぁ」


 仕事も罵声もますます増えていく。親の手前、簡単に辞める訳にもいかない。俺は、雁字搦(がんじがら)めになっていった。


 その頃になると、テルは俺の心の拠り所だったのだ、と改めて思い始めた。好意的に接してくれる唯一の存在だった彼を失い、俺はみるみる疲弊した。軽い鬱状態になったりもした。そんな状態でさらに三か月が経った……。



「青野ちゃん、久しぶりじゃないか」


 工場長の部屋からそんな声が聞こえた。久しぶりに出勤したらしい……が、俺は作為的にアイツを避けていた故、気分的に会い難い。


「そうか辞めるのか」

「はい」

「分かったよ。お大事にね」


 そんな会話が聞こえた。アイツ、辞めるのか。一端の原因が俺にあるのだろうかと、ふとそんな事を考えた。しかしそれは今更だ。引き留める権利も、謝る勇気も俺には無い。


 すぐ持ち場に戻り、自分の作業に集中した。もう会う事は無いだろう。最後に別れくらい言うべきか? いやしかし、アイツにとって俺は、大した存在ではないだろう。ならかえって迷惑だ。


「先輩!」


 明瞭な声がした。俺ははたと振り返る。


「テル……」


 心構えの出来てないまま、再会を果たす。その時、俺は絶望した。


「お前……本当に妊娠して……」

「はい。もう七か月です。すっかり大きくなって」


 整理がつかなかった。本当に、妊娠していたのか?

 どうやって?


「先輩。この後一緒にご飯食べましょう。二階空いてましたよ」


 もうすぐ昼時か……そんな事を、ぼんやりと考える事しかできなかった。



「誰との子なんだ?」

「言ったじゃないですか、先輩です」

「……ははは、先輩って誰だよ」

「冴根先輩です」


「……そんな訳ねぇだろ」


 きっとコイツは狂ってるんだ。どんな手段を使ったか知らないが、どうにか妊娠して、俺との子だと言い張る。俺は、コイツを心の拠り所にしていた事がかえって悍(おぞ)ましくなった。こんな精神異常者を、俺は精神の支柱にしていたのか……。


 まさか、俺を騙して金でもせびるつもりなのか?

 生憎そんな金は無い。払うものが無いのだから俺の財布は安心だ……。

 だがしかし、コイツが「はいそうですか」と引き下がるだろうか? もし親に話が行ったら……もし職場にバレたら……。俺は社会的信用を失って……本当に俺の人生が終わってしまう。


「先輩? 大丈夫ですか?」

「え」


 テルが、俺の顔を覗き込んできた。何を企んでいるか分からない、不気味で薄っぺらな笑みを浮かべている。俺は、心の底から嫌悪した。


 ここは二階。下には大型の重機や機械が並んでいる。


 もしここから突き落とせば、コイツは死んでくれるだろうか。


「先輩。この渡り廊下気を付けてくださいね。落ちたら危ないので」


 ふとそんな声が聞こえた。渡り廊下、というのは、壁が無く手すりだけが設置されている吹きさらしの橋のことだ。

 下では、廃材用の大型の破砕機が稼働していた。あれに巻き込まれれば、身体は粉微塵になって砕けるのだ。無論ナイフやライフルより、殺傷能力が高い。


「なぁテル」

「はい。どうしました?」


 テルを呼ぶ。そうして彼が振り返るや否や、俺は肩を掴み破砕機の方へ力強く押した。

 彼は咄嗟に抵抗した。俺の頬を引っ掻いた。顔は瞬く間に真っ青になっていく。なおも俺は、テルの身体を押し続けた。


「ニトくん! やめて! あぶな……


 遂にテルは後方に落ちていった。そのまま破砕機に飲み込まれる。

 バババッと形容し難い音が工場に響いた。悲鳴は、聞こえなかった。


 その時、俺もまた落ちそうになっていた。テルを落とすときに、思わず前のめりになったのだ。当然上半身は空中にあった。咄嗟に手すりを掴んだので、アイツの後を追う事は無かったのだ。

 俺は卑怯にも生き残ったのだ。


「はぁ……はぁ……」


 自分でも、どうして殺してしまったのか分からなかった。もしかしたら、俺の人生が狂ったのは、アイツのせいだと、心の何処かで思っていたせいもあるだろう。彼を恨んでいたと形容出来るほど、決して躊躇いは無かった。


「はぁ……はぁ……」


 その時、俺も死にたいと思った。


 今、この前傾姿勢のまま足を浮かせれば、もしくは手すりを離したならば、俺はすぐにでも死ねるのだ、そう、思った。


「あ」


 俺は、はたと手すりを離してしまった。ひどく手汗をかいていたらしい。次の瞬間、下半身がふわっと浮いた。

 俺はそのまま前のめりになって、破砕機に飛び込んだ。


 耳元で、バババッという音がした。ほんの一瞬、気が狂う様な痛みを感じる。

 しかし、すぐに目の前は真っ暗になった。


 俺はこの日、死んだのだ――――




『フロップリズム』

 俗にいう失敗作。または怪物。

 人類の進化を作為的に促進するため、神が実験的に生み出す特異な進化を遂げた人類種。一般的な生命体には見られないような性質を持ち、周辺環境、周辺生物に様々な影響を及ぼす。またその多くは悪影響である。その為、周囲からは忌み嫌われる場合が多い。

 一般的な人間を凌駕する能力を有するフロップリズムの対処は困難であるため、神の使いである『天使』が駆除活動にあたるのが一般的である。しかし、もし仮に常人が撃破に成功したとしたら、神から最大限の報酬が与えられるとされる。

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