僕をレンタルしてみませんか? 1時間1000円です
仲瀬 充
僕をレンタルしてみませんか? 1時間1000円です
◇◇◇ プロローグ ◇◇◇
宇宙船の船団が地球の上空に7年前から静止している。人類の科学技術では探知できないのが幸いだ。もし探知できたら人々はその規模の壮大さに
「個人的記憶は99%以上消去ずみです。彼の記憶の最後の部分をこれから再生します」
「うむ」
博士がカプセルに付随した機器を操作すると男性の頭部の電極が明滅してカプセル上の空中に映像が映し出された。
「どういうつもりだ。調子に乗るなよ」
「なんのことだ」
「とぼけやがって、この野郎!」
「何をするんだ、放せよ! わッ!!」
「ああッ!!」
「これが彼を採集した直前のシーンです」
「顔面のひどい損傷はこのせいだったか。むごたらしいから消去だ。この少し前の記憶を再生してくれ」
「了解しました。人間特有の抒情的シーンなので映像に重ねて彼自身の思いも字幕で表示します」
男性の頭部の電極が再び明滅を始めた。
【海岸ぞいの細い道は片側が松並木で反対の海側は路面よりも一段高い護岸壁になっている。そのコンクリートの護岸壁に僕らは海に向かって腰を下ろした。真下の磯からはけっこうな高さだが怖さは初デートの高揚感がかき消してくれた。けれども会話はほとんど僕からの一方通行だ。話しかけても彼女は生返事を繰り返すばかりで制服のスカートのひだをしきりに気にしている。僕への興味はスカートの
「どうでしょう?」博士が司令官に伺いを立てる。
「このすぐ後に携帯機器を使って二人で写真撮影をしているな。その写真を個体識別用タグとして彼の脳内に残そう。ただし彼自身が知覚する記憶としてはソフトフォーカス加工を施して不鮮明にする必要がある」
・・・・・・・・・・・・・・・
★「ちょっとあんた、もうゴミ収集車は行っちゃったわよ」
「そうなんですか、すみません」
「ここに越してきた人?」
中年の婦人はゴミ集積所のすぐ横の101号室を指さした。
「はい。佐藤といいます、独身です。よろしくお願いします」
「ちゃんと8時半までに出さないと一番困るのはあんただからね。次の収集日までずっと
そこへ2階からの外階段を同じ年配の婦人が下りてきた。
「どうしたの?」
「今ごろゴミを出そうとしてるからさ。この人、101に入った佐藤さん。独身なんだって」
「そう。あら? 可燃物と不燃物の分別もしてないじゃない」
「すみません、ルールが分からなくて」
「後でゴミの出し方のチラシをあげる。野良猫がゴミ袋を食い破ったりしたら大変なのよ。掃除するのは私たちなんだから」
「大変、ですか?」
「なに、その言い方。このコーポの半分の4戸はあなたも含めて独身なの。ゴミ置き場の掃除は独身者を免除してあげて私たちが回り持ちでやってるってわけ」
「それが大変なんですか?」
婦人二人の眉が同時につりあがった。
その夜佐藤はスマホのホーム画面に【簡易国語辞典】というWebページのアイコンを置いていつでも見られるようにした。
【大変=非常に驚くべきこと。苦労がなみなみでないこと】
★「こんにちは、佐藤です」
「ここが
母親に案内された部屋に入ると男の子がベッドの上で膝を抱えて
「君が琢磨くんか、4年生なんだって? 話し相手になってくれってお母さんに頼まれたんだ」
あれこれと話しかけても琢磨は一言も発しない。佐藤は張り合いがなくて眠気を催してきた。
「ちょっとごめんよ」とカーペットの床に横になった。
休憩するつもりだったのがつい寝入ってしまった。眠りから覚めて時計を見ると1時間近くたっている。
「おおッと! こんなときは大変だと言っていいのかな?」
ねぼけたことを言いながら上体を起こした佐藤を琢磨はベッドの上から面白そうに見下ろした。
「琢磨くん、お願いだ。僕が寝てたことをお母さんたちには黙っててくれないか?」
顔の前で手を合わせると琢磨はうなずいた。佐藤は立ち上がって右手の小指を差し出した。
「ありがとう。約束だよ、男と男の約束」
「うん」琢磨も小指を出して佐藤の指に絡めてにっこり笑った。
琢磨の両親はリビングにいた。
「奥様、今日はこれで帰ります」
「そう、ご苦労さま。おいくらかしら」
「1時間ですので千円。それに諸経費として往復のバス代360円よろしいでしょうか」
お釣りはいらないからと琢磨の母親は千円札を2枚手渡した。佐藤が辞去すると母親は琢磨を呼んだ。
「佐藤さんとどんなことをしたの?」
「言えない」
「どうして?」
「男と男の約束なんだもん、フフッ」
琢磨が駆けて部屋に戻ると母親は夫に
「お金とるなんて詐欺よ、ずうずうしく交通費まで」
「あちらの規程どおりじゃないか。何を怒ってるんだ?」
「あんまり静かだから私、ついさっき琢磨の部屋の前まで行ったの。そしたら佐藤さん寝てたみたいで琢磨に口止めしてたのよ。もう二度と頼まないわ、無表情で何考えてるかも分からないし」
「そんなことよりお前、気づかなかったか? いつ以来だろう、あの子の笑顔や元気よく駆けるところを見たのは」
「あッ、そうね、そうよね!」母親の表情はガラリと変わった。
「一人前の男扱いしてくれて秘密の共有までしたんだ。琢磨が心を許すみごとなアプローチじゃないか」
★次の日曜日も佐藤は琢磨のところに呼ばれたが帰り際にプランの変更を勧めた。
「奥様、次回からはBコースに変更して琢磨くんを僕のところに来させてはどうでしょう」
「そうすればひきこもりの解消にもなるわね、あなた」
「ああ、お前が車で送り迎えしてやればいい」
提案は受け入れられたが佐藤は黙って立ったままだ。その様子を見て父親が頭をかきながら妻に言った。
「うちはこんなところがダメなんだな。バスや徒歩で行き来させよう。佐藤さんは琢磨が一人で外出や登校ができるように先々のことまで考えてくれてるんだ」
琢磨が佐藤のアパートに通うようになった初日、帰宅した琢磨に母親が問いかけた。
「おかえり。佐藤さんところで何したの、お絵描き?」
「ううん、学校から届けられてる宿題」
「あらよかったわね。勉強を教えてもらえて」
「でも佐藤さん国語だけは全然だめなんだ。たとえばさ」
琢磨は国語の問題集の『ごんぎつね』のページを開けた。
「
その日の夜、母親は琢磨から聞いた話を夫に報告した。
「それで国語は琢磨のほうが佐藤さんに教えてやることになったんだって」
夫は腕を組んでうなった。
「佐藤さん若いのに大したものだ」
「え?」
「わざと分からないふりをして琢磨を先生役に仕立てたんだ。大人の佐藤さん相手に琢磨が誇らしげに教えている姿が目に浮かぶじゃないか」
佐藤は琢磨が帰った後【簡易国語辞典】で検索した。すぐに見つかったが見出し語も意味も同じくらいに分かりにくかった。
【
★琢磨はすっかり馴れて佐藤のアパートに自分のゲーム機を持ちこんだりするようにもなった。ある日佐藤と琢磨は一緒にテレビのバラエティーを見ていた。番組が終わるとそれまでケラケラ笑っていた琢磨が心配そうに佐藤の顔を覗きこんだ。
「佐藤さんって全然笑わないね。楽しくないの?」
佐藤はスマホを手に取った。
【楽しい=愉快で心地よいさま】
引き続き調べる。
【愉快=楽しくて心地よいさま】
佐藤はさらに検索しなければならなかった。
【心地よい=気持ちがいいこと】
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ。僕だって気持ちがいいから楽しくて愉快なはずさ」
「じゃ、笑わなきゃ」
「笑うって?」
「ほら、こんなふうに」
琢磨は満面の笑顔をつくった。その顔を見て佐藤は気づいた。自分に向けられる他人の多くの顔は笑顔よりも怒った顔に近いことに。そして怒った顔よりも笑顔を向けられるほうが心地よいということも。
「これからはなるべく笑うようにするよ。こんなふうでいいかい?」
佐藤が両方の
「なんか変だけど面白い!」
琢磨の母親は夫の帰宅を待ちかねたように琢磨から仕入れた話を伝えた。
「あの子、今日は笑い方まで教えてあげたんだって。佐藤さんがそう仕向けたんでしょうけどそれはそれは楽しそうに話すのよ。佐藤さんの顔真似を見たら私まで笑いが止まらなくて」
そう言って母親は笑ったが夫は懐疑的だった。
「今回は見えすいたとぼけ方だなあ。いくら表情の乏しい佐藤さんでも笑い方が分からないなんて」
★怪しい! マウスでスクロールしていた玲華の手が止まった。城東警察署生活安全課の中野玲華は定期的にネットパトロールを行っている。きっかけは神奈川県で発生した事件だった。犯人の男はSNSで知り合った自殺願望のある女子中学生を誘い出して自宅で支配下に置いた。そして数日後の夜半に近くの川に連れ出して
【僕をレンタルしてみませんか? 話し相手になります。料金:1時間千円 Aコース:こちらがそちらに行く Bコース:そちらがこちらに来る Cコース:打ち合わせて外で会う】
末尾には「悩み事その他、気軽にご連絡ください」と氏名・電話番号・メールアドレスが記されている。幼稚な誘い文句でハードルが低いぶんよけいに怪しい。玲華はしばらく考えてスマホを手にした。
「あの、佐藤さんですか? サイトを見たので会いたいんですけど。Cコースで」
待ち合わせの場所と時間を打ち合わせた後、玲華は刑事課の同僚湯川文也の部署に足を運んだ。
「ね、ほらこのサイト怪しいでしょ?」
「まあ、そう言われればそうかな」
「明日この署の近くの喫茶店で会うことにしたわ。でね、頼みがあるんだけど彼の帰りを尾行して住んでるところを突きとめてほしいの」
★「佐藤です、お電話ありがとうございました」
「初めまして。中野玲華といいます」
「中華料理の冷麺みたいなお名前ですね」
そう言って佐藤は口角をピクリと上げた。発言もこの妙な表情もギャグのつもりなのだろうか、それとも馬鹿にしているのだろうか? 出鼻をくじかれてしまったが動揺してはならない。
「私一応公務員ですけど佐藤さんはお仕事は?」
「しいて言えばこれが仕事みたいなものです。僕、仕事っていうものがよく分からないんですよね。生きてる実感もあまりないんです。一歩ごとに『今、今』って呟きながら歩いてみたこともありました」
玲華は説明を促すように首をかしげた。
「地に足を付けた生活とか言うじゃないですか。歩いていて右足が着地すると同時に左足は地面を離れますよね。離れた瞬間それまでの左足は過去の存在になり、地に付いた右足が現在ということになります。宙に浮いた左足は右足の前方、つまり未来に向かいます。そして着地すると今度は左足が現在になり右足は地を離れて過去になるんです。ということは『今、自分は確かに生きている』と言えるのは足が地面に接している時点と地点だけなんです」
語り終えてまた口角を上げた佐藤を玲華は薄気味悪く思った。
「何だか難しそうな理屈ですね。話を戻しますけど今回の面会のようなことがお仕事なら生活していけるんですか?」
「家賃が安いところに住んでいますし食べるだけなら1日千円あれば何とかなります」
「連絡してくるのはどんな人が多いんですか?」
「世間話の相手がほしいというお爺さんやお婆さんですね。あと自閉症や不登校の子供たちとか」
玲華のアンテナに「自閉症や不登校の子供たち」という言葉がひっかかった。
「サイトはいつ頃立ち上げたんですか?」
「あのう、ご相談とかお話があるんじゃなかったんですか? なんだか警察の取り調べみたいです」
★やばい! 玲華はどぎまぎした。
「すみません、そんなつもりじゃ。悩みというのは、私25歳なんですけど彼氏がいるのでそろそろ結婚をと考えているんです」
とっさに口をついて出た話題だったがでたらめではなく同期採用の湯川文也とは高校の時からの付き合いだ。
「25歳なら僕と
「彼が私に気があることは確かなんですけどプロポーズしてくる気配がないんです。私って魅力がないのかなって落ちこんじゃって」
佐藤がじっと見つめてきたので玲華は再びどぎまぎした。
「うーん、顔だちもスタイルも上の下ですから魅力がないことはないと思いますけどね」
むッ! 玲華のどぎまぎは雲散霧消した。
「それってほめてるようで地味に失礼だと思うんですけど」
佐藤はスマホを手にした。
【失礼=礼儀をわきまえないこと。不作法なこと】
「ごめんなさい。またやっちゃいました」
「何をですか?」
「子供たちによく言われるんです、佐藤さんは人の気持ちが分からない変人だって。おまけに顔も変だって言われるんですがそれはあんまりでしょう?」
そう言って口角を上げた佐藤の顔を見ると子供たちの発言は否定できない。佐藤は玲華の返事を待つふうもなく本題に戻った。
「思いを寄せてくれている人がいること自体、すでに中野さんが魅力的である証拠です。それにプロポーズを受け入れるつもりならどうして待つ必要があるんですか? あなたからプロポーズすればいい」
「でも気があるとは言いましたけど彼、どこかうわの空みたいな感じもあるんです。付き合いが長いだけに飽きられたのかなって、そんなふうにも思ったりして」
「かもしれませんがあなたの魅力を前提にすれば他に何か問題をかかえているのかも」
玲華も同じ考えなのでたまたま持ち出した話題とはいえ引きこまれていく。
「その線もそれとなく話題にしてみるんですけどいつもはぐらかされます」
「問われて答えられる程度の問題なら結婚の差しさわりにはならないでしょう」
ならどうすればいいのか、そう問おうとした玲華に名案がひらめいた。
「佐藤さん、お願いがあります」
★玲華から2時間分の料金を受け取ると佐藤は徒歩で自宅アパートへ向かった。喫茶店の近くで待ちかまえていた湯川は30分ほど佐藤を尾行したがアパートの敷地にまでは立ち入らなかった。築4、50年はたっていそうな2階建ての木造アパートだ。新築当時はともかく今では『コーポ藤井』より『藤井荘』と言うほうがしっくりくる。佐藤が1階の端の部屋に入るのを見届けて引き上げようとすると隣りの部屋から中年女性が出てきた。夕飯の買い物にでも出かけるのだろう。ついでだから事情聴取をと湯川は声をかけた。
「あの、すみません。こちらにお住まいですか?」
「そうですけど?」
「これから佐藤を訪ねるんですが変わり者ですからご近所に何か迷惑をかけてないかと思いまして」
佐藤の友だちだと名乗ると中年女性は身がまえを解いた。
「いいえ、いい人ですよ。ぱっと見は不愛想ですけど人は見かけによらないって佐藤さんみたいな人を言うんですね」
「へえ、いい人、ですか」
「うちは102だけどほら佐藤さんの101のすぐ横、ゴミの集積所が見えるでしょ?」
「それが何か?」
「ネットを
女性は愉快そうに後を続けた。
「独身の所帯はきちんと分別せずに出すこともあるんです。それを佐藤さんがいちいち分別し直して。そしたらあなた、ゴミ袋の中身を全部見られるもんだから今じゃ違反者はゼロ」
「そうなんですか」
湯川は肝心の質問に移った。
「人の出入りはどうですか。ちょくちょく彼女が来るとか」
「若い女性はみかけないですね。小中学生の子とか」
「その子供たちは暗い顔してませんか? 泊まったりとかは?」
にこやかに応対していた女性が眉をひそめた。
「何でそんなことまで聞くの? あなた本当に佐藤さんの友だち?」
★「最後は焦ったが、以上で報告は終わりだ。おおむね佐藤の評判はよかったよ。しかし人の後をつけるってのは気持ちのいいもんじゃないな」
「刑事課がそんなこと言ってどうするの」
「ただ今回の尾行は楽だったよ。あいつは立ち止まったり振り返ったりすることが一度もなかった。交差点にさしかかると信号も不思議と青に変わるんだ。ところでさ、俺思ったんだけどやつのサイト見ればBコースってのがあるじゃん。住所を知りたいならそれを希望すればよかったんじゃないか?」
「ほんとだ、そうよね。じゃさ文也、二度手間になって悪いけどそのBコースで室内の様子見も兼ねて彼に会いに行ってよ。子供たちが出入りしてるなら自殺願望のある子がいたら心配。実はね、私の彼氏も悩みごと抱えてるみたいだから連絡とるように勧めてみるって佐藤さんに言っちゃったの。だから適当に悩みをこしらえて行って」
「いやに熱心だな。ひょっとして玲華好みのタイプとか? 俺は後ろ姿しか見てないけどイケメンなのか?」
「ええっとね、あれ? おかしい。私、似顔絵捜査官の資格を持ってるのに説明できない。どこにでもいそうな顔で特徴らしい特徴がないのよ。しいて言えば理科室の人体模型の顔」
「いろいろと謎めいている不思議なやつだな」
「そうだ、不思議と言えば声! 最初に電話したときドキッとした。彼の声、似てるのよ春夫に」
★あらかじめ連絡をとって湯川がコーポ藤井の佐藤宅を訪ねるとリビングに通された。湯川は玄関からリビングまで歩くあいだに間取りを把握した。
「2LDKですね。私の官舎も同じですがこっちが広そうです」
「官舎ということは湯川さん、公務員ですか?」
「警察官なんです。あなたを紹介してくれた中野も同僚です」
反応を見るために湯川はいきなり身分を明かしたが立て続けに警察官が面会を申し込んだと分かっても佐藤の表情に変化はない。それにしても玲華が理科室の人体模型と評したのは言いえて妙だ。完璧に左右対称で各パーツの形も平凡すぎて逆に特異な顔だちにも思えてくる。気になることはほかにもあった。湯川は佐藤の背後の壁の
「あれは何ですか?」
佐藤は首をひねって後ろの壁を見た。
「ああ、あれは僕の
湯川は別の意味で首をひねった。
「座右の銘にするような言葉には思えませんが」
「そうなんですか。習字が得意な子に書いてもらったんですが後で外しときます。僕の言語感覚は変なんでしょうね、ここに来る子供たちにも言葉づかいをよく注意されるんですよ」
そう言ってピクピクと口角を震わせたがその奇妙な表情と佐藤自らが口にした「ここに来る子供たち」という言葉を湯川は不吉な想像でつないだ。
「ちょっとトイレを借りていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
湯川はトイレを手早くすませて風呂場ものぞいてみた。鑑識を入れる最悪のケースを想定したがトイレからも風呂場からも腐敗臭や血の臭いは嗅ぎ取れなかった。
「ありがとうございました。ところで子供さんたちがこちらに来るというのはどういう?」
「引きこもりや不登校の子供たちは保護者の横のつながりがあるみたいですね。最初に相手をした琢磨くんという子が登校するようになったらそれを聞きつけて……ふふ」
佐藤はまたピクッと口角を上げたが含み笑いを漏らしたところからするとこれは彼の笑顔なのかもしれない。
「私、何かおかしなこと言いましたか?」
「やっぱり警察の人だなと思って。中野さんもそうでしたけど事情聴取をされてるみたいです」
★まずい、気づかれたか? 湯川は用意してきた話題に切り替えることにした。
「すみません、根掘り葉掘り聞くのは職業病みたいなもので。こんなふうだから私は駄目なんですね。仕事がうまく行かなくて私は警察官に向いてないんじゃないか、今日はそんな愚痴を聞いてもらいに来たんでした」
「具体的にはどんなことでしょう」
「刑事なのに尾行が嫌いで聞き込みも下手くそでいやになります。ごく最近では強盗傷害事件の犯人を運よく逮捕できたんですが凶器を見つけられずにいるんです」
「どんな事件なのか話せますか?」
「一人暮らしの老婆宅に押し入ってお金を奪った事件でたまたま私が玄関から出てきた犯人に出くわしたんです。逃げたのを追いかけて取り押さえましたが凶器がどうしても見つからないんです」
「その事件はいつのことですか?」
「先週の金曜日の午後11時すぎです。仕事帰りに居酒屋で飲んで官舎に帰る途中でした」
「具体的にイメージ化したいんでその家の住所を教えてください」
湯川はスマホの画面に市内の地図を表示させた。
「この家なんですが今度は私が取り調べを受けているみたいですね」
★佐藤は湯川から聞いた日時と場所の情報を頭に入れて目をつぶった。するとまぶたの裏に血の付いた包丁を手にした男の像が浮かんだ。男は玄関を出て湯川と鉢合わせすると庭から裏に回る途中で包丁を力まかせに放り投げた。
「なるほど」佐藤は目を開けてそう口にした。
「何がなるほどなんですか?」
「湯川さん、僕は刑事ドラマの遺留物を探す場面で不満に思うことがあります」
「何でしょう」
「部屋の床や地面は這いつくばるようにして隅々まで目を凝らすのにどうして垂直方向はおざなりなんでしょう。例えば屋根の上とか。包丁ならかなり遠くまで投げることもできます」
今度は湯川が「なるほど」と口に出したがすぐに声を潜めた。
「凶器が包丁だとどうして分かりました?」
★翌日の湯川からの電話は声が弾んでいた。
「佐藤さん、凶器を発見できました。今夜ぜひ一杯つきあってください。お仕事扱いで料金も支払います」
待ち合わせた居酒屋でも湯川は上機嫌だった。
「
そう言った当の湯川のほうがピッチが速いが佐藤にとっては好都合だった。湯川に酔いが回ったところで玲華から頼まれていた話題を持ち出した。
「立ち入ったことを聞きますが湯川さんは中野さんと交際してるんですよね?」
「ええ、それが?」
「先日中野さんにお会いしたときあなたの態度が煮え切らないことを嘆いていましたよ。余計なお世話かもしれませんけど結婚に踏み切れない理由が仕事面だけなら僕がお手伝いできるんですけどね。名探偵を気取るわけではありませんが今回のように僕は直感と推理にはかなり自信があるんです」
佐藤は過去のことなら日時と場所を特定するとその場の状況を脳内でリアルに思い描くことができる。どうして自分にそんなことが可能なのか分からないが特殊すぎる能力なので他人には鋭い勘とでもごまかすしかない。
湯川は手にしていたハイボールのジョッキを一気に飲み干してテーブルに置いた。
「佐藤さん、この場限りの話として聞いてください。7年前の高校3年の夏のことですが友だちが行方不明になりました。たぶん私のせいです。それが辛くて私は自分が幸せになることに抵抗があるんです」
酔いでろれつが怪しいが表情は真剣そのものだった。佐藤は話を聞きながらスマホを操作した。
【
★「くわしく話してくれませんか」
「夕方に散歩に出たら海ぞいの道で玲華を見かけたんです。その頃はもう彼女と付き合っていたので声をかけようとしたんですけど日曜なのに制服姿でしかも急いでいるふうなのでおかしいなと思いました」
「すみません、夏休みのどの日曜日ですか?」
「最後の週でした」
佐藤はスマホでカレンダーのアプリを開いた。
「7年前の8月の最後の日曜日は27日ですね、場所もくわしく」
今度は湯川がスマホの画面に海岸部の地図を出した。
「この道です。玲華はこの道路の海側の護岸壁に上ったので私は反対側の松並木に隠れて後をつけました。そしたら春夫が彼女を待っていたんです」
「春夫というのは?」
「同級生で脇山春夫といって私の友人です。玲華と春夫は海に向かって護岸壁に座りました」
「それから?」
「二人でしばらく話をしていましたが暗くなると玲華だけ先に帰って行きました」
「あなたはどうしたんですか?」
「話だけにしても春夫が玲華と二人きりで会ったことに私は怒りが収まりませんでした。玲華と私が付き合ってることを春夫は知っていたんですから。別れ際に玲華がツーショットの自撮りをしてたのも
「
「もちろんそうですけど? それでですね、玲華がいなくなった後護岸壁に飛び上がって春夫に詰め寄りました。興奮して揉み合いになったんですけど幅が狭いので春夫が足を踏み外してしまって。護岸壁の高さは道路からは1メートルくらいですが海面までは4、5メートルあるんで私は血の気が引きました。見下ろすと春夫は真下の岩場にうつぶせで倒れていました」
「もちろんあなたは助けに、」
「はい。でもいったん反対側の松並木の陰に隠れました」
「なぜです?」
「散歩している人たちが見えたんです。その人たちが通り過ぎるのを待ってから海岸に下りましたが春夫は見当たりませんでした。7時半過ぎでだいぶ暗かったんですがそれでも白いシャツを着て倒れていた春夫が分からないはずはありません。自分で起き上がって帰ったんだろうと思うしかありませんでした」
「でも家には帰っていなかった?」
「ええ。春夫の親が捜索願を出したことを知ったのは数日後の2学期初日でした。脇山がいなくなったが誰か知らないか?って先生がみんなに」
「その呼びかけにあなたは?」
湯川は首を振った。
「卑怯と言われればそれまでですが怖かったんです。死んだのならともかく彼は自分で立ち去ったのだからと自分に言い訳しました」
「あなたは
佐藤の慰めに湯川は両肘をテーブルについて手の平で顔を覆った。佐藤は目を閉じて7年前の8月27日19時近くの現場をモニターした。湯川が松並木ぞいに玲華の後をつけている。玲華が護岸壁に上る。前方に人影が見えたところで佐藤は頭がズキズキと痛み出した。早送りする感覚で湯川が揉み合いになったと言った場面に移ろうとしたらなおさら耐え難い頭痛に襲われた。
★湯川との面会の報告のため佐藤は日曜日に玲華の実家に赴いた。Cコースの待ち合わせ場所として玲華は実家近くの喫茶店を指定したが場所が分かりにくいということで玲華が案内する手はずになっている。インターホンを押すと「はーい」と返事があり玲華はすぐに表に出てきた。
「湯川さんは官舎住まいだそうですが中野さんは実家から通ってるんですね」
「通勤に時間はかかりますけど気楽ですから。さ、行きましょう、こっちです」
「行きつけの店なんですか?」
「小さい頃から親に時々連れて行ってもらってました。モーニングが充実してるんです。11時までですから間に合いそう」
「すみません、少し遅れてしまって」
「たいていの人は迷うんですよ。この地域は道が入り組んでて分かりにくかったでしょう?」
「いえ。道は青信号が教えてくれますから」
「え? それはどういう……、あらおばさん」
1軒の家の前で玲華が足を止めた。60歳前後の夫妻が玄関から出てきたところだった。女性のほうは着ている
「おや玲華ちゃん」
「こんにちは。割烹着ですか、いまどき珍しい」
「荷造りや掃除にはこれが一番。エプロンと違って服の袖が汚れずにいいのよ」
そう言って脱ぎ終わった割烹着をくるくると丸めるようにして畳んだ。玲華は男性のほうにも声をかけた。
「おじさん、やっぱり引っ越しちゃうんですか?」
「息子もいないしこの家はわしら二人には広すぎる。それに年を取ると町なかのほうが何かと便利だからね。段ボール箱が足りなくなって今からスーパーに貰いに行くところさ。こちらも警察の人?」
玲華が答える前に佐藤は手をひらひらと振って言った。
「違います。僕はフリーターというか何でも屋みたいなものです」
夫妻は「え?」「あら」と声に出して佐藤を不思議そうに見た。その後二人は軽自動車に乗り込んで町の方角へ走り去った。
「なんでも屋って言ったら驚いてましたね。珍しいんですかね?」
「さあどうなんでしょう。今のお二人は春夫のご両親です」
「そうだったんですか」
「春夫のこと、文也から聞きました?」
「脇山春夫さんですね、湯川さんの友だちだとか。でも中野さんとこんなご近所ということは?」
「私と春夫は幼なじみで幼稚園からずっと一緒でした。でもこの家、もうすぐ売りに出されます。さっきおじさんが言ってたように町なかのマンションに移るんだそうです」
「そうなんですか」と言って佐藤は目をつぶった。そして目の前の家の7年前の8月27日の様子を再現しようとした。その途端、頭が割れるように痛み出してその場にしゃがみ込んだ。これで2回目だ、そう思って前回と照らし合わせてみた佐藤はこの頭痛について突拍子もない考えがひらめいた。
★佐藤と玲華は奥まった席に向かい合わせに座り二人ともブレンドコーヒーを注文した。
「モーニングに間に合いませんでしたね、すみません」
「そんなことより大丈夫ですか?」
玲華が心配そうに佐藤を見た。
「もう平気です。ちょっと目まいがしただけですから」
コーヒーが運ばれてきたので佐藤は一口すすって続けた。
「湯川さんの件ですがあなたに曖昧な態度をとり続けているのは脇山春夫さんの失踪が理由のようです」
オフレコとの約束だったので大事な部分を省いての報告だが玲華にため息をつかせるには十分だった。
「やっぱりね。そんなことだと思ってました」
「湯川さんは脇山さんの失踪を自分の責任のように感じています。それで自分だけが幸せになることはできないと」
「文也と春夫は同じクラスで仲がよくてしょっちゅうつるんでいましたから……」
そう言って肩を落とした玲華と対照的に佐藤はコーヒーカップをソーサーごと脇にのけて身を乗り出した。
「湯川さんが救われるには脇山春夫さんの消息を知る必要があります。脇山さんはどんな人だったんですか?」
「どうしたんですか? 急に」
玲華は佐藤の意気込みに目を丸くしたがすぐにいたずらっぽく切り返した。
「私からすれば佐藤さんこそ謎なんですけど?」
返事は特に期待していなかったが佐藤は思いも寄らないことを口にした。
「僕のことなら話したくても話せることはありせん。僕はどうも記憶喪失者のようなんです。今のアパートに来るまでのことはほとんど記憶にないんです」
「まあ! 本当に? 親兄弟や親戚、友だちなんかも?」
「はい。人間関係もほとんど思い出せません」
「そうなんですか……。あっ! 人間関係といえば佐藤さんは春夫と共通点がありますよ。そうか、それでさっきおじさんたち変な顔したんだ」
玲華は納得したように一人うなずいた。
「どういうことでしょう?」
「佐藤さんの声は春夫とそっくりなんです。春夫に興味があるなら写真を見せましょうか? 失恋の記念写真なんですけど」
★玲華はスマホに1枚の写真を表示させて佐藤に向けた。
「ちょっといいですか?」丁寧な物言いとは裏腹に佐藤はひったくるように玲華のスマホを借り受けた。
高校の制服姿の玲華と白いTシャツにジーンズの男が夕暮れの空と海を背景に並んで立っている。その写真を見た佐藤は
「この写真が失恋の記念というのはどういうことか、聞かせてもらえませんか?」
緊張した面持ちでスマホを握りしめる佐藤のようすを玲華は興味深そうに観察していた。
「話してもいいんですけど、佐藤さん、今日はグイグイきますね。いつもは能面みたいなのに」
玲華が微笑して手を差し出した。佐藤は我に返ったようにスマホを返すと平静を装ってコーヒーカップをゆっくりと持ち上げて言った。
「能面みたいってどういうことですか? それ、地味に失礼なような」
微笑を浮かべたままの玲華に対抗するかのように佐藤も口角を上げてコーヒーを一口飲んだ。
すると玲華は佐藤を指さし、もう片方の手でおかしそうに口元を覆った。
「それそれ!」
「僕の顔がどうかしましたか?」
「佐藤さん、表情がぎこちなくて特に笑い顔は
言い終えると同時に玲華は噴き出した。
「やっぱりおかしいんですかね。子供たちも僕の笑顔を見ると笑い転げます」
「目が笑ってないんです。口の端だけピクピクッて
そう言ってまた玲華は笑った。
「子供たちにも言われます。笑うときは口元だけじゃなく目も細くしなくちゃって。あの、それより話の続きをお願いしたいんですけど」
そうでしたねと玲華は居ずまいをただした。
「言ったとおり私と春夫は幼なじみでそれ以上でも以下でもありませんでした。でも高校3年になってから春夫が急によそよそしくなったんです」
「嫌われたんですか?」
「逆です、男子の不器用な愛情表現に女子は敏感なんです。文也と付き合ってたんで二股みたいになるんですけど春夫の変化は私には新鮮な喜びでした」
「そのシチュエーションでどうして失恋になるんですか?」
★玲華は声をおとして上目づかいに佐藤を見た。
「ここからの話はオフレコ扱いでお願いしたいんですけど春夫から二人きりで会いたいと誘いがかかったんです。親には塾で勉強してくると言って制服で出かけました。ワクワクしながら春夫の待つ海岸通りに急ぎました。そしてコンクリートの護岸壁の上に膝から下をぶらぶらさせる形で並んで座ったんです。でもどんな話をしたかはほとんど覚えてません、春夫はNGOがどうとか将来のことを話してたようですけど」
「初デートで舞い上がっていたんですか?」
「違います。風が強くて私は会話どころじゃなかったんです。スカートを押さえるのに必死でした。風でめくれ上がらないようにずっとスカートのひだをなでるふりをしたりして。そのうち春夫は黙りこんで急に私に顔を向けてきました。いよいよ告白タイムだと思って緊張したんですけど、彼、何て言ったと思います?『帰ろうか』ですって。笑っちゃいますよね、とんだ勘違い女でした。でも彼にとってはただの進路相談だったにしても私には恋に恋する年頃の切ない思い出なんです。別れ際に春夫と並んで自撮りしたのがこの写真です」
そう言って玲華は改めてスマホを見た。佐藤も自分のスマホを手にした。
【
脳裏に唯一残っている画像、その画像にまとわりついている思いはこの切なさという感情だったのだ。得体の知れない頭痛の謎が玲華の話を聞いて全て解けた。同時に佐藤はこれから自分が進むべき道すじを定めた。
「僕もあなたと同じような思いをしました」
「佐藤さんが切ない恋を? 想像できません、聞かせてください」
「やめておきましょう、はっきりとは思い出せませんし。それよりも今の話がオフレコの理由は脇山さんが行方不明になったのがそのすぐ後だったからということでしょうか?」
「どうしてそれを? 誰も知らないはずなのに」
玲華は顔をこわばらせたが続けて佐藤が告げたのはもっと衝撃的なことだった。
「さっきの写真を見せられて驚きました。僕は脇山春夫さんを知っています。湯川さんもここに呼んでください」
★2日後の火曜日、玲華は時間休を取って少し早めに帰宅した。普段着に着替えて佐藤を待っているとインターホンが鳴ったのですぐに表に出た。
「あら? 髪、ずいぶん短くしたんですね」
顔だちは印象に残りにくい佐藤だが髪型が
「だいぶ伸びてたんでこちらに来る途中で理容院に寄ってきました。さっそく行きましょうか」
「訪問のアポをとりがてら大体のところは電話で伝えていますので細かい事情を佐藤さんからお願いします」
佐藤を連れて脇山宅を訪れると客間に通された。昔ながらの和風建築なので部屋は畳敷きだ。
「ごめんなさいね、荷造りをすませてしまったものだからテーブルも座布団もなくて」
そう言って春夫の母親は二人の前にお茶の小さなペットボトルを1本ずつ置いた。見回すと家具調度類は全て運び出されていて家の中はがらんとしている。ただ玄関を上がってすぐの小部屋には段ボール箱やゴミ袋がかなりの数置いてある。
「玲華ちゃん、このあいだのこの人が春夫を知ってるって人なの?」
「はい、佐藤さんといいます。じゃ佐藤さん、」
佐藤はぺこりと頭を下げて話し始めた。
「あの、僕は記憶喪失になってしまって、覚えているのはこちらに引っ越して来る数年前のことからです。大阪で簡易宿泊所に寝泊まりしながら日雇いの仕事をしていました。僕の仕事場から近い工事現場で働いていた脇山春夫さんがある日僕の宿泊所を訪ねて来たんです。彼も記憶を失くしていたようで名前も脇山でなく別名を名乗っていましたが、工事現場の人から『あんたと
春夫の父親は母親と顔を見合わせてから言った。
「記憶を失くしても土地勘は残ってたんですかな、春夫が小さかった頃わしら一家は大阪に住んでおったんです」
「そうだったんですか。そう言えばそんなことを彼から聞いたような気も」
真実はどうなのか知りようがないが横で聞きながら佐藤の話していることは全て嘘だろうと玲華は思っている。過去の記憶はほとんどないと佐藤自身が私に言ったのだから。以前に文也から佐藤の座右の銘を『嘘も方便』と聞いたときには笑ってしまったけれど一昨日私が喫茶店に呼び出した文也は佐藤から春夫の消息を聞かされた後悲しみの中にも安堵が入り混じったような表情を浮かべた。それにしても7年前のあの日、春夫と会っていたのを文也に見られていたとは。それだけでなく文也と春夫の間に不幸な出来事が起きたことも文也の口から知らされた。ずっと隠していたことを文也は詫びたけれどもそれは私のほうも似たようなものだ。今佐藤は一昨日の喫茶店での話を繰り返している。たとえそれが作り話であっても春夫の両親は文也と同様に辛くはあっても肩の荷が下りることだろう。だとしたら確かに嘘も方便なのだと玲華は思った。
★「そんなわけで僕と春夫さんは記憶を失くした者どうし時々会うようになりました。そうこうするうち去年の中頃だったでしょうか、NGOの国際ボランティアに参加することにしたと言って春夫さんは大阪を離れました。行き先はアフリカで、土木工事の支援事業の手伝いということでした」
佐藤が言葉を切ると父親が言った。
「玲華ちゃんから聞いたのは、その行った先がかつての紛争地帯で地雷が撤去されずに残っていてそれを踏んだと」
「国際ボランティア事務局からの通知ではそういうことでした、残念です」
佐藤がうなだれると夫妻は涙を拭った。
「あの子は中学生の頃から将来は海外青年協力隊で働きたいと言っておったから
夫妻の心中を思いやって玲華も涙ぐんだが佐藤がバッグの中から取り出したものを見てギョッとした。
「これ、ボランティア事務局から送られてきてたものです。日本での連絡先が僕の宿泊所になっていたので」
佐藤は一握りの毛髪が入っている紙包みを畳の上に置いて押しやった。
「春夫さんの遺髪だそうです」
父親と母親はそれを手に取ると我が子の名を呼びながら泣き出した。玲華はあらためて佐藤の散髪したての頭を見た。嘘も方便だとしてもこれは。佐藤を手招きして立ち上がり隣りの小部屋に移って小声で言った。
「いくら何でも遺髪はやりすぎでしょう。ご両親が検査機関に親子鑑定を依頼したらどうするんですか」
佐藤はまともに取り合わなかった。「大丈夫です。問題ないでしょう」
「それよりも」と佐藤は真正面に立って玲華の両肩に手を置いた。
「目を閉じてください」
言われるままにすると抱き寄せられて自然にハグし合う格好になった。
「玲華、君も文也も幸せになっていいんだよ。それが僕の願いだし喜びでもあるんだから」
「嘘! 春夫!?」
耳元で春夫がささやいたと思って目を見開くと佐藤がハグを解いた。
「脇山春夫さんが生きていたらきっとそう言うと思います」
玲華が息を詰めてコクリとうなずくと佐藤は目を細めて口角を上げた。それは上出来の笑顔だった。
★玲華と佐藤が脇山宅を辞去しようとすると佐藤は春夫の父親から頼みがあると引きとめられた。そこで佐藤は玲華を玄関先まで送りに出た。「それじゃここで」と別れを告げると玲華は両手を膝のあたりでそろえて頭を下げた。
「ありがとうございました。佐藤さんは優しい人ですね。おかげで春夫の両親も文也も救われたみたいです」
ワンピースの裾をふわりと翻して帰って行く玲華は道の角を曲がるときに振り返って手を振った。佐藤も手を振り返したが間に合わなかった。玲華の姿が消えた街角を見つめる佐藤の胸に静かに湧き上がってきた思い、それは何と名付けられる感情なのか佐藤には分からなかった。
家の中に戻ると脇山夫妻が小部屋で待っていた。
「お待たせしました。頼みというのは何でしょう?」
「佐藤さん、あなたは何でも屋さんみたいなことをやっていると言ってましたな?」
「はい」
「ご覧のとおりこの部屋に積んである段ボール箱とゴミ袋は処分する不用品で明日の午後トラックが引き取りに来ます。ただお年寄り一人でやっている運送屋なもんで積み込みを手伝ってもらえば助かるんですが」
「お安いご用です」
「ありがたい。本当は今日の予定だったのが運送屋の都合で明日になってしまって。わしらのほうはもうこれから町のマンションに移るんです」
「分かりました。お
「お預けします。明日の積み込みが終わったら施錠して郵便受けに入れてください。不動産屋にそう言っておきます」
「承知しました」
「上にも積み込んでもらいたいものがあるんでちょっと来てください」
2階に上がると廊下の隅に段ボール箱がいくつか積んである。
「これです。息子の本類ですが重たいので下におろすのも難儀で」
そう言うと父親は後ろを振り向いた。
「さてと母さん、後は佐藤さんに任せて出ようか」
「じゃお父さん、最後に」
母親の言葉で夫妻は脇の六畳間に入ったがその部屋だけは畳敷きでなくフローリングだった。窓辺に寄って二人は外の景色にしばらく目をくれた。そしてがらんとした部屋の中をゆっくり何度も眺め回した。
「佐藤さん、ここが春夫の部屋だったの。これで見納めです」
佐藤は母親に言った。
「ずいぶんと切ないでしょう」
「ええ、ありがとう」
1階に下りると父親が封筒を差し出した。
「これは明日の作業のお礼です」
封をしていない封筒の中を覗くと1万円札が入っている。
「時給千円ですから多すぎます」
返そうとする佐藤の手を脇から母親が押しとどめた。
「私たちの気持ちだから取っておいて。実はね、あなたの声は春夫の声にとてもよく似ているの。懐かしくて懐かしくて春夫が目の前にいるようで嬉しかった」
佐藤はスマホを手にした。
【懐かしい=思い出されて慕わしい】
★長年住み続けた家との別れは夫妻にとって一種の儀式なのだろう。奥の部屋に入った二人はきちんと着替えて出てきた。父親はループタイにスーツ姿で母親は薄化粧し口紅も引いている。佐藤に家の鍵を渡すと父親が先に玄関を出た。そして外壁に手を当てて表札が掛かっていた辺りを2、3度撫でさすった。母親は玄関を出る前に戸や
「佐藤さん、いろいろとお世話になりました。明日はよろしくお願いします。わしらはこれで失礼します」
佐藤も別れの挨拶をしようとしたが口をついて出てきたのは自分でも思いがけない言葉だった。
「あの、時々でも会いませんか?」
夫妻は何事かという顔で佐藤を見た。
「僕の声が息子さんの声に似ているのなら懐かしがってもらえるんじゃないかと思って」
夫妻はしばらく顔を見合わせていた。そして互いにうなずき合うと母親が言った。
「おんなじようなことを私たちも考えたの。一昨日だったかしら玲華ちゃんと一緒にいたあなたの声を聞いたとき、私たちもうびっくりしてしまって。それで時々電話ででもあなたの声が聞けたらって、そんなことをお父さんと話したのよ」
「それじゃいいんですね?」
「ありがたいんだけど、でもね」
真剣な面持ちの佐藤を前にして母親の返答は歯切れが悪かった。父親が話を継いだ。
「よくよく考えたら、かえって辛くなると思ったんですよ。あんたの声を聞けばそのたびに春夫がいない現実を突きつけられることになるだろうって。もう未練を断ち切ろうと思います。今日がちょうどよい機会です。息子がこの世にいないことがはっきりしたんですから」
「そういうことですか。分かりました」と言いながらも佐藤の表情はさえない。
「今日の僕からの報告は余計なことだったんじゃないでしょうか?」
「いやいや、それは違う、違います。今まではどこでどうしておるのかと気をもんでばかりで気の休まるひまがなかった」
「そうよ、あなたのおかげで春夫が帰って来たんですもの」
「帰って来た?」
佐藤が不安げに眉根を寄せると「ええ、ここに」と母親は胸に手を当てた。
「今まで胸を痛めていた私のこの胸の中に帰って来たんです。春夫はもうどこにも行きません。小さかった頃からの思い出をたどりながら一緒に生きていきます」
夫妻が乗った軽自動車は夕焼けを背景に影絵のようなシルエットになって佐藤の視界の中を遠ざかっていった。
★「どうもすみません」
翌日佐藤が脇山宅に着くと既に
「いやいやこっちもたった今来たとこさ」
預かっていた鍵で中に入ってさっそく二人で積み込みを始めた。本が入った2階の段ボール箱など重い物から積んでゴミ袋に入った不用品は上に載せる。全部の荷物を積み込んだ後運送屋が持参した
「ただいま」と勢いよく玄関の引き戸を開けた。
左手の廊下の先のキッチンに割烹着を着た母の背中が見える。
靴を脱ぎ捨てて廊下を駆けるが足が空回りしているようにもどかしい。
キッチンまではわずかな距離なのになかなか前に進まない。
すぐそこに見えている母が割烹着からエプロン姿へとどんどん若返っていく。
駆け寄る自分もどんどん身長が縮んで短パンにTシャツの小学生になっている。
ようやく母の腰にとりついた。
「おかえり」
「お腹すいた。今日はカレー?」
母の顔を見上げると
「あんたは鼻が
頭を撫でられたところで目が覚めた。目じりから頬に涙が伝った。懐かしい夢だったのか切ない夢だったのか、佐藤は初めての涙にとまどいながらも流れるに任せた。
・・・・・・・・・・・・・・・
◇◇◇ エピローグ ◇◇◇
宇宙船団の母艦『ノアⅡ』の操縦室では司令官と博士がくつろいでいる。
「いよいよ帰還だな、博士。それにしても7年は長かった」
「我々が地球に飛来したとき、たまたま日本の海岸で一体の人間を見つけたのがスタートでしたね。気を失っていたので強引な
「その彼だが、地上に戻すに当たって策定した方針を振り返ってみよう。不都合な点がいくつかあったようだ」
①採集時18歳だったので25歳として元の居住地域に戻すが我々のもとにいた7年間に関して誰も詮索しないよう全くの別人として戻す。
②外見的には採集時に顔面を損傷していたこともあり別人として整形するが全日本人を平準化した目立たない顔だちにする。新しい名前も日本人で最多の佐藤姓とする。
③内面的にも別人格とするため採集前の個人的記憶を消去する。
④付与する知性は外見と同じく目立たない平均的なレベルとするが感情に関しては大脳辺縁系の機能を抑制し喜怒哀楽の発動を必要最低限にとどめる。
⑤新しい生活が軌道に乗るまでの間、彼の行動をモニターし各種の便宜を図る。また、過去の個人的記憶の喪失の補償として日時・場所を特定すればその場の状況を脳内で映像として閲覧できる能力を付与する。
「以上の5項目ですが司令官はどれを問題だとお考えですか?」
「⑤の
「実際にそうなってしまったようです。ほかにもありますか?」
「④の感情に関する部分だ。博士、今回彼をサンプルとして地球人を解析したときに最も驚いたことは何だった?」
「いまだに知性と感性が統合されず精神が未熟なレベルにあることでした。そのため高名な知識人でさえ低劣な悪事を働く例は枚挙にいとまがありません」
「うむ。知性面では科学方面にいくらかの進化が見られるが人間は感性の制御に難がありすぎる。見かねた天帝様がかつてキリストや釈迦を使徒として派遣したというのに2千年たっても『
司令官が首を振りながらお手上げのポーズをとると博士も頷いた。
「それなのに追跡リサーチによれば彼は自ら感情の学習、習得を始めています。まったく何を考えているんだか。ところで司令官、新ノアの
「天帝様の真意は計り知れん。人間の感性は理性から遊離するとその発露は殺人から芸術まで多岐にわたる。その振れ幅がマイナスに偏りすぎたゆえの新
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