第3話 おかえりなさいを聴く前に――②

 結局、森の中心にある湖にエンズ達がたどり着く頃には、空も森の木々の葉と同じくらい黒く染まっていた。エンズは少し申し訳なさそうにスーラの体を揺すって起こすと、馬から降りて、近くにある大樹のうろの中をまさぐり始めた。


「ひとまず今日はここで夜を越そう。焦ることもない。なにぶんここは東の辺境だからね。モザイクまではどうやったって半月はかかる。野営の装備は来る時にこの辺に隠してたのが……あったあった」


 エンズはちょうど自分の背中ほどの大きさをした紐付きの鞄を引っ張り上げると、シュトラールに手を挙げて合図した。彼もそれに応じて馬から降りると、馬体にくくりつけていた荷物を外し始める。


「まずは何より飯だ。その次に寝床の準備。モザイクへの帰路の再確認は最後だな。……ったく、誰かさんの仰せのままに強行軍で来たもんだから、腹が減ってしょうがねえ──ほら、お前も手伝え」


「……ぇ?……あ、ああ、うん」


 すっかり寝ぼけていた頭を、頬をぱんっと叩いて現実に引き戻すと、スーラも見よう見まねで荷物をくくる紐をほどき始めた。


 途中、背後でエンズがピューっと長い指笛を吹くのが聞こえた。上空から見張りをしていたネヴァンへの合図だと、スーラにもすぐに察せられた。


 月明かりが差し込んでくる湖の上から甲高い鳴き声が聞こえると、しばらくしてあの黒い影が、ちょうど湖の中心の真上の辺りから飛び込んできた。音も立てずに水面すれすれを通ると、全く減速せずに三人のいる所へ向かってくる。


「ん……?えっ……あれ!?私たちにぶつかっちゃわない!?」


「あ?まあ慣れてるし大丈夫だろ……多分だけど……」


 慣れた様子であくびをしながら答えるシュトラールの暢気のんきさに反比例するかのように、ネヴァンの影はぐんぐんと近づいてくる。


(ていうかこれ、私の方に……きゃ──)


 きゃあ、と声に出す暇もなかった。影は激突直前になってようやく減速したが、慣性でそのままスーラの胸元に飛び込むと、二人はひとかたまりになって苔の生えた地面を何回も転がった。ようやく回転が収まった頃には、スーラの体は黒い羽の生えた人影に押し倒されたような体勢になっていた。


「ごっめーん調整しくじったー!キミがエンズの言ってた……うっわ」


 スーラがぐるぐると回る目を無理矢理声の主の方へ向けると、豊かな黒髪の中に少女の顔が浮いていた。外見はスーラよりやや年上といった風。細く、それでいてしっかりと通った鼻筋の上、くりくりとした丸っこいが、身じろぎしたくなるほど真っ直ぐにスーラの目を見据えている。


「顔チョー可愛いじゃ~ん!!でも隈あるね、ダイジョブ!?アタシはネヴァン!アナタは?どこ生まれ?何の”タダビト”?鱗あるし”蜥蜴トカゲ”あたりかな?てか文通やってる?」


「うぇっあっうあっあのっ」


 手を握ってきてぶんぶんと上下に激しく振りながらのネヴァンの質問攻めに、スーラはまたもや目が回りそうになった。助けを求めて必死に周囲に視線を投げる。


「おーい集まれ~魚釣れたし、火を起こして飯の準備するぞ~」


 いつのまにか湖の縁に腰掛けて釣りを始め──それどころか人数分の獲物を釣り終えた挙げ句、焚き火の準備を始め──ていたエンズが、カンカンと手元の鍋を食器で打ち鳴らしながら声をかけてくる。


「おう、待ってろ──米……はまだ取っておきてえな……麦か?魚は手持ちの香草と蒸して──汁を沸かしてからは身をほぐして粥に──いや待てよ、鍋と油があるなら揚げ焼きって手もあるな──」


 シュトラールもシュトラールで、馬車を牽いていた人狩りから失敬したらしい食品を敷物の上に並べながら、うんうんと悩んでいる。スーラは、まるでいつもの事だと言わんばかりにネヴァンの態度を意に介さない二人に、ますます頭がこんがらがった。


「──な……な……」


「な!?」


 十数秒してようやく言葉を発しようと口を開いたスーラに、案の定ネヴァンが興味津々に食らいついた。


「何なの、この人たち──!?」


 当然の困惑の叫びが、月明かりの湖にこだましたのだった。



 ※



「よし、完成!淡水魚の香草蒸しと山菜たっぷりの麦粥!冷めないうちに食べよう、旨いぞ」


「よっしゃー!いただきまーす!」


 上機嫌なエンズと、長時間の見張りで相当な空腹らしいネヴァンの元気の良い返事が鍋の周りに響く。


「あいつら多分数日食わなくてもあの騒がしさだぜ、うっとおしい」


 ぼそっと隣のスーラに言いながら、シュトラールは音を全く立てずに麦粥をかき込んでいる。スーラもエンズに教えてもらいながら、慣れない食器で蒸し魚の身をほぐして、口に運んでみる。


「──おいしい」


 母との狩りで獲っていた魚はいつもかじりつくだけだったが、今日のそれはまるで違う。内臓を取り、鱗を丁寧に削がれ身を捌かれた後、香草で包まれて蒸された身はほくほくとして臭みがなく、ほんのりとした塩の味が更に魚の旨みを引き立たせていた。麦粥も初めての経験だったが、じんわりと滋味が舌から体に染み渡るような、心地の良い優しい味わいだ。


「それに……あたたかい」


 スーラは自身でも知らず知らずの内に微笑していた。母との死別。人狩りに襲われて捕縛を受け、そこからはろくに食事も睡眠も摂れなかった。それが今では自分を救ってくれた人々に囲まれ、こうやって温かい食事にありつけている。


「皆で食べると、もっと美味しいっしょ?」


 スーラにくっつくように隣に座っているネヴァンが、満面の笑みで尋ねてくる。スーラも先程こそ面食らったが、ネヴァンはきっとどんな人にも親しげに接することができる人で、それはきっと、とても良いことなのだろう、と思った。問いに頷いた上で、三人を順番に見ながら口を開く。


「皆、本当にありがとう。私、昨日の今頃はこんな風になってるとは思わなかった。救い出してくれた上に、こんなに美味しいごはんまで……どうやってお礼したら良いの?」


 最初に、恐ろしいほどの速さで食事を終えて寝っ転がっているシュトラールが答えた。


「さあな。そもそも今回の遠征はエンズが言い出しっぺだ。じなきゃわざわざこんな辺鄙へんぴな場所、モザイクの哨戒や治安維持を放り投げてまで来ねえよ。北方のベルグ軍の息がかかった人狩りなんて、ここに限った話じゃねえし。ま、クズをぶっ殺せるならなんでも良いぜ、少なくとも俺はな」


 後を継ぐようにネヴァンも答える。


「アタシも好き勝手についてきただけだし、お礼とかは良いかな~。ルーちゃんの言うとおり、エンズがなんでスーラちゃんがさらわれるタイミング知ってたみたいに東──つまりはこの辺──に行きたがってたのかは気になるけど……」


 『おい、いい加減その呼び方やめろ』『いいじゃんかつれないなー。うりゃ、魚の骨攻撃!』『きったね!やめろ!』──いつの間にか二人の取っ組み合いに脱線しているのを尻目に、スーラはエンズにも改めて問いかけてみる。


「たまたま通りがかって助けたわけじゃなくて、私があの森を出るのを察してたの?だとしたらなぜ、私のことを知ってたの?私、一度も森から出たことない」


 エンズはしばらく考え込む仕草を見せた。その質問に答えようと思えば答えられる。彼女が先程からしたがっている”お礼”だって、『自分が彼女にして欲しいこと』と解釈すれば、それはもうとてつもなく大きいものがいくつかあった。


(ただ、今は間違いなく”その時”じゃないな。彼女はまだ色々と知らなすぎる。この世界についても、自分自身についても。どう答えようか……)


 スーラの赤い瞳はじっと自身を見据え動かない。その純真さにまるで自身の持つ秘密が見透かされるようで、エンズは少し空恐ろしさすら感じながら、ゆっくり口を開いた。


「まず、今言えるのは、”そろそろだ”と思ったから、ここにやって来たってことぐらいかな。そして、”まだ答える時じゃない”と思った質問には答えられない。そこは先に謝っておくよ。ごめんね」


 エンズはすっと頭を下げた。それが謝罪を意味する仕草であることは、スーラにも言葉から察せられた。エンズが話を続ける。今明かしても良い情報と、そうではない情報を丁寧に頭の中で選り分けながら。


「僕はモーソと──君のお母さんとは友人だった。いや、それどころか、まだ物心のついてない君にも、あの森で会ったことがあるんだよ。君は覚えてなくても当然だろうがね」


「──え?」


 一瞬夜風が吹き抜けて、二人の間の焚き火が吹き上がるような火柱をあげた。






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