第2話 おかえりなさいを聴く前に──①

「揺れるから、酔ったりしたら言ってくれ、スーラちゃん。どうも馬に乗るのは慣れなくてね……」


「はっ!馬にお前が乗られた方がまだマシだろうよ、エンズ。テメエも乗り替わりたいなら遠慮なく言えよ?」


「呼び方はスーラで良い──ううん。今のところは大丈夫、です。……ねえ、これからどこに行くの?」


 人狩りの労役から解放した二頭のうち、片方の馬の上へエンズに引っ張り上げられながら、スーラが尋ねた。あれほど明るかった朝焼けもとうに日が昇って失せ、真昼が近づいている。


「そうだなあ……家、とか故郷、とまで言ってしまうと僕やシュトラールにとっては間違いになるんだけれど、それに近いところかな。寝て、食べて、暮らす場所だ」


 故郷──その言葉を聞いて、スーラは思わず馬車が進んできた道の方へ振り返った。


 詳しい道のりは拘束されてわからなかったが、それでも馬車に乗せられてエンズ達に救われるまで、数日以上は経っていた。当然、彼女が今まで住んでいた森も、それを隠す山々も、もはや見えない。


「──故郷が恋しいかな?」


 エンズが、馬車の檻の中のスーラに手を伸ばしたときと変わらない声色で聴いた。


「ううん。母さんも死んじゃったし、昔から教えられてきたから。『いずれは森を出て、あなたに似た、外の人々と暮らしなさい』って」


「……そうか。最期まで優しかったんだな」


 前を見据えて馬を手綱で促しながら道を進むエンズの表情は、後ろに乗るスーラからは見えなかった。


(でも、この人の優しさはきっと嘘じゃない。母さんじゃないのに、なんでだろう、ひどく懐かしい)


 この人は私を裏切らない──根拠もないのにそう確信できるのが、スーラ自身にとっても不思議に思えた。


「身の上話は済んだか?ネヴァンから合図が出た。案の定盗賊団はあいつら二人だけだったみてえだ。他に害獣や怪しい類いの奴らもいねえようだし、早く進むぞ」


 手庇てびさしをして空を仰ぎ見たシュトラールが口を挟む。スーラが目線を追うと、翼を広げた人影が三人の遙か上空を旋回している。


「おっと、その前に彼女の紹介もしておかないと、後で拗ねられちゃうな!」


 ニカッと髪と同じくらい淡い白さを持つ歯を見せて、エンズが笑いながら空の影に手を振った。


「スーラ、今僕らの上を飛んでる彼女の名はネヴァン。”大鴉おおがらす”のネヴァンだ。色々と愉快な子だよ!……君が彼女のこと気に入るかはわからないけれど、彼女は君のこと、間違いなく気に入るだろうなあ」


 やけに含みを持たせた言い方が気になったが、エンズの紹介を抜きにしても、彼女が見張り番をしてくれている味方であることは、スーラにもすぐに察せられた。スーラが母と狩りをする時も、良く交代で上空を飛び、獲物や障害物の位置関係を探って知らせていたからだ。


「これから目指す場所はここからずっと西にあって──モザイクという街なんだけれど──なにを隠そう、彼女がそこの生まれでね。周辺の案内も、近道もお手の物さ。うん、少なくともシュトラールよりは余程土地勘があるな!はっは!」


「しれっと自分を土地勘ある側に置いてるが、アンタがあいつ以上にモザイクのこと知ってんのはズル使ってるからだろうが!ケッ!とっとと行くぞ!夜になるまでには森に入りてえんだから!」


「ふっ……ぷふっ」


 頬にある薄緑の鱗をプルプルと震わせてまで、ムキになって怒るシュトラールの姿がなんだかおかしくて、スーラは思わず吹き出してしまった。やってしまったとすぐに手で口を塞いだが、聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか、シュトラールは何も言っては来なかった。


(シュトラールは少し荒っぽいけど、悪い人ではないんだ、きっと。まだ会って話していないけれど、ネヴァンという人だってきっとそう……安心した)


 馬を進ませる内に岩壁沿いの道を抜け、三人は隠れ場所一つない原っぱに出た。地平線に目をこらすと、黒い森がうっすらと見える。


 途中不意に肩のあたりに重さを感じてエンズが目線を背中にやると、スーラが自身に体を預け、寝息を立てている姿があった。赤く長いまつげが呼吸に合わせて静かに上下する。


(ようやく少しは気を抜けたのかな)


 エンズは手綱を軽く引き、速度を少し落とすよう馬に指示した。隣のシュトラールが疑問ありげに視線を寄越したのに気付くと、背後を指差して、次にその人差し指を口元に添えた。


(シーッ。静かに行こう。馬のおかげで夕方には森の深部に着ける)


 シュトラールはしばらくスーラを見つめ、それからエンズが先程したように手綱を引いた。


『ありがとう。シュトラール』


 声には出さずに口の動きだけで感謝を伝えると、シュトラールは虫でも追い払うかのように、鬱陶しそうに顔の前で手を振った。


 相変わらず、人の好意を受け取るのが下手くそだな、とエンズは笑う。


(まあ、どうせ森に入ったら野営するんだし。寝るのが遅いか早いかだもんな)


 そして再び背後のスーラを見やる。少しやつれて、健康なら陽光に照らされてより輝くであろう紅の髪も鱗も色あせている。目にもうっすらと隈が見えた。寝ている本人は気付いていないだろうが、ここしばらくの苦労がありありと見て取れた。


(間違いなくこれからの君の歩みは、あの森での暮らし以上に過酷なものになるだろう。けれど、いや、だからこそ──)


「今はおやすみ。竜の姫君」


 誰にも聴かれない労いの言葉をかけ、エンズは森へと向かう。

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