第一章 竜と月、出会う

第1話 どうせいつかは終わる始まり

 その少女は、未だこの世界の人々の、誰もたどり着けていないと思われたほど辺境の、深い山あいの森の奥で育った。けれどそれを寂しく思ったことは生まれてから一度もなかった。いつもそばに”母”がいたからだ。

 母はいつも夜になるとその大きな翼を広げて、少女の体を優しく包み込んでは、森の外がどんな世界なのかを語って聞かせた。昼間の狩りの時には赤く輝く母の鱗が、青白い月明かりに照らされて、美しい紫に染まるのを見るのが少女は好きだった。

 

 今でも少女は鮮明に思い出せる。それは初めて母が少女に昔話を聞かせてくれた夜。


「スーラ、かわいいスーラ」


 見た目の荘厳さからは想像もつかないほど優しい声色で、母が娘に語りかける。


「あなたはいずれこの森を出て、私の元を去って行くでしょう。そして、それは決して悲しいことではないわ。だからこそ、あなたには”その日”が来るまでに、私が知るこの世界についてのことを学んで欲しいの」


「それって、ごはんの捕まえ方とか?」


 少女が不思議そうに尋ねた。母が語る昔話が、将来の自分になんの関係があるのか、彼女には見当がつかなかった。


「ふふっ、狩りも大事だけれどね。一番知って欲しいのは、この世界でどんな人々が日々を営んでいるのか、よ」


 母がその翼の先にある大きなかぎ爪で少女を指して続けた。


「あなたは私や、あなたが生まれる前に死んでしまったお父さんと同じ、赤い鱗を持っている。けれど手足は鱗が薄くて細いし、指は五本もある。あなたは確かに私たちの大切な子。けれど姿形は、森の外で生きる人々に近いのよ」


 少女も、自分が両親と違う姿をしていることは前から不思議に思っていた。鱗のないところは、頭以外赤い毛は生えずにすべすべしているし、空を飛ぶのも苦手だ。目の形も違う。何より、母と同じ大きさになれるとはちっとも思えなかった。


「じゃあ、森の外には私以外にも肌がすべすべで、空を飛ぶのが下手で、私とおんなじ大きさのヒトビトがいるの?」


「ええ、たくさん!お魚のようにヒレとエラを持っていて、水の中を泳げる人や、馬のように細い足にひづめがついていて、草っ原をどんな生き物より早く駆ける人、体に草や苔が生えていて、鼻と口が塞がっていても息ができる人……とても今夜だけじゃ語りきれないぐらいに!」


「おかあさん、私、もっと知りたい……!教えて!世界にはどんなヒトビトが暮らしているの?」


「大丈夫。これから毎日話してあげるわ。でも、これだけはその前に言っておかないとね……良い?良く聞いて──」



 ※



 ガタンッ!


 馬車が石を踏んだはずみで、スーラは懐かしい夢から引き戻された。ぼろ布で鉄格子に沿って雑に目張りされた隙間から、朝焼けの光が差し込んでくる。


「母さん……」


 自然と口から出た単語だった。最後に見た姿を嫌でも思い出す。病に伏しながらも自分の名前を呼び、いつも気にかけてくれた姿を。やがて気力すら失い目を閉じ、スーラが必死で狩ってきた獣の肉にも口を付けず、最期に一言だけささやいた姿を。


『森を出なさい』


 とてもそんな気にはなれなかった。朽ちていく母の亡骸のそばに寄り添って、食べることも寝ることも忘れて何日も泣いた。秘境のはずの森にとうとう人が踏み込み、人狩り達が近くに来ていたことすら気付かず、捕まっても抵抗する力さえ残っていなかった。


「私が森を出て行く前に、母さんが私から去って行ったじゃん。嘘つき」


 とうに枯れたと思っていた涙がにじむ。夢の中で、最後に母が言おうとしていたことの続きを思い出した。


『──これだけはその前に言っておかないとね……良い?良く聞いて。森の外の世界に住む人々は、色んな体を持つだけじゃなく。色んな心を持っているわ。当然、悪い心の持ち主もいる。あなたが森の外の世界へ旅立ってから、きっとそういう人々とも出会って接することもある。彼らはあなたを傷つけようとしてくるかも知れない──』


「……そこは嘘じゃなかったよ。母さん」


 自虐的に笑いながらスーラは腕を胸元に掲げた。仰々しいくらいに光る鋼鉄の手錠。足にも、鉄球に鎖で繋がれた足枷がはめられている。

 鳥の鳴き声が聞こえて、前の方が騒がしくなった。馬車自体にも揺さぶられたような振動が起こる。当然目張りされている鉄格子の中からは、外の様子はうかがい知ることはできないが、大方、目的地に着いたのだろうとスーラは思った。


「もういいよ。もういい」


 スーラの諦念が、半ば無意識に彼女の口を動かす。


 こんな拘束も、万全なら訳なく力任せに引きちぎれる。結局母より上手くはなれなかったが、空を飛んで逃げることだってできただろう。けれど、最早体力も気力もない。そんなタイミングで人狩りに捕まったこと自体、運のなさの現れでもある。


 馬車の揺れが収まって、漏れ聞こえる話し声の人数も減った。いよいよだ、とスーラは思った。もうすぐ格子に張られたぼろ布が剥がされて、そこから先のことは想像もつかない。

 母に毎夜話を聞いて、期待に胸を膨らませた人々との出会いの旅路も、始まる前に終わってしまった。まあいいや、とスーラは思った。どうせどんな始まりも、いつかは終わる。私の場合はそれが最悪な形だっただけだ、と。半ば無理矢理に自分を納得させようとした。


 やがて想像通り、馬車の朝焼けが差し込んでくる側面のぼろ布が力任せに引っ張られ、剥がされた。スーラの目がくらむ。


 逆光を受けながら、鉄格子の隙間から手を差し伸べてくるシルエットがあった。


「怖がらないで」


 全く敵意を感じさせない。優しさだけを湛えた声色。


「……ぁ」


 スーラは思い出した。母の言葉には更に続きがあったことを。


『──彼らはあなたを傷つけようとしてくるかも知れない。でも忘れないで。あなたのことを慈しみ、庇い、愛してくれる人も、この世界には必ずいる。そんな人に出会えたのなら──』


 尽きたはずの力が湧き、いつの間にか手錠も足枷も砕け、外れていた。


「僕の名前はエンズ。”筆記者”のエンズ。君が望むなら、僕達に君を助けさせて欲しいんだ。君、名前は?」


 シルエットが近づいてくる。静かな微笑みを湛えた、白髪の中性的な青年。肌は鱗も無くすべすべで、指は五本。翼は見えないからきっと空は飛べない。背はスーラより頭半分くらい高い程度だろうか。


『──そんな人に出会えたのなら、どうかその手を離さないで』


「私……スーラ。”竜”のスーラ。うん、私、助けて欲しい」


(私、森から出るよ、母さん)


 誰にも知られることのない決意を胸に、少女は彼の手を取った。



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