第12話 パン

 お姉さんの名前は、クレアというらしい。この近所でやっているパン屋のひとり娘だとか。


「俺は、テオ。七歳」

「テオくんか。よろしくね」


 にこやかな顔で握手してくれる彼女は、どうやら路地裏の掃除をしていたらしい。ちょうど、クレアが屈んでいたあたりには、よく見ると木製の扉があった。彼女の実家であるパン屋の裏口らしい。


「この裏口、普段は使わないんだけど。定期的に綺麗にしておかないとね。変な人たちの溜まり場になっても困るし」


 そう言って苦笑するクレアは、額の汗を拭う。

 前々からちょいちょい掃除しているらしいのだが、人目の少ない裏路地ということもあり、油断するとゴミが勝手に放置されていたりするらしい。不法投棄ってやつだな。


 それにしても。


「じゃあ、あっちは大通り?」

「そうだよ。道を一本入るだけで随分と雰囲気違うでしょ」


 なんと。迷子になったと思って泣いていたのに、すぐ近くに大通りがあったらしい。思わず足元のユナを見下ろせば『まぁ、よかったじゃん。無事に戻れて』と、なんともやる気のない声が返ってきた。


 俺としては遭難したくらいの勢いでいたのに、まさか大通りのすぐ近くに居たなんて。なんだか途端に泣いたことが恥ずかしくなってくる。だが大丈夫。俺はまだ七歳児。迷子になって泣いたとしても、なんも恥ずかしくはない年頃だと自分に言い聞かせる。


「俺も手伝うよ」


 掃除をするクレアを見上げれば、彼女は「いいよいいよ」と小さく手を振る。


「ご両親が心配してるよ。はやく戻ってあげないと」

「大丈夫」


 先程までは、あんなにオリビアのところへ帰りたかったのだが、すぐ近くに大通りがあるとわかった途端に気持ちに余裕が出てくる。あとクレアお姉さんはすごく優しそう。もうちょっと一緒に居たい。


 追い出されてたまるものかと、彼女の袖を握りしめる。苦笑したクレアは、「そうだ。パンでも食べていく?」と、扉を指差す。


「食べる!」


 歩きまわって空腹だった俺は、迷うことなく頷いた。先程から、パンの良い香りが漂っていた。ぺろっと唇を舐めれば、クレアがころころと楽しそうに笑う。


「よしよし。じゃあお姉さんが奢ってあげよう」

「わーい!」


 わくわくと両手を上げた俺だが、存在を主張するかのように、足元に纏わりついてくるユナを認識して少し考える。パン屋さんに、猫を入れるのはいかがなものなのかと。


「猫はここで待っとけ。俺はお姉さんとふたりでパンを食べてくる」

『こいつ……!』


 絶句するユナは、不満そうに耳を動かす。


「猫は食べ物屋さんには入っちゃダメ。毛が入るでしょ」

『なにこのお子様。さっきまで助けて猫ってピーピー泣いてたくせに』

「泣いてない!」


 クレアに聞かれてしまう。泣いていたなんて格好悪いこと知られたくはない。慌てて猫を黙らせようと拳を握りしめれば、クレアが「猫ちゃんもどうぞ」と扉を開けてくれた。


「でもこの猫汚いよ」

『汚くないよ! 失礼だなさっきから!』


 ぎゃあぎゃあうるさいユナを見て、クレアが柔らかく微笑んだ。


「大丈夫。この裏口は店舗の方には繋がっていないから」


 どうやら裏口は、居住スペースに繋がっているらしい。中からも店舗側への移動は可能だが、扉で仕切ってあるので大丈夫だとクレアは言う。


 クレアがそう言うのなら。


「いいか猫。おとなしくしとけよ」

『それはこっちのセリフだよ』


 にこにこクレアに案内されて、建物内に入り込む。こざっぱりしており、物が少ない。


 リビングらしきスペースに通された俺は、言われるがままにテーブルにつく。

 どうやらクレアは、迷子のお子様を保護した気でいるらしい。俺がなかなか大通りに戻らないので、一旦パンを食べさせて落ち着かせようという魂胆なのか。


「食べたら、私も一緒にご両親探してあげるから」

「それは大丈夫。ひとりで帰れる」

「本当に?」


 疑いの目を向けてくるクレア。完全に俺を迷子扱いしている。ユナは、約束通りにおとなしくしている。俺の足元で丸くなって、置物のようにじっとしている。


「そもそも、ここまでどうやって来たの? 近所の子?」


 キッチンスペースで動きまわりながら、クレアはちらちらと俺に視線を投げてくる。


「猫と一緒に来た。近くに住んでるから、ひとりで帰れる。大通りの場所がわかんなくて困ってたの」


 だからもう大丈夫だと説明すれば、クレアは「それなら良いけど」と、まだ少し心配そうにしていた。大通りには、うちの騎士たちがまだ居るはず。彼らに声をかければ、連れて帰ってもらえるので安心である。だが、俺が公爵家の次男ということは内緒なので、騎士云々の話を彼女に教えるわけにはいかない。あくまでも、お忍びで街歩きをしているのだから。


 クレアが用意してくれたのは、美味しそうな小さめパンだった。ロールパンみたいなやつだ。手作りだという苺ジャムも一緒に、早速頬張る。甘酸っぱくて美味しい。ひたすら無言でもぐもぐしていれば、クレアが微笑ましいものでも見るかのように目を細めていた。


「おかわりあるからね」


 パンが口いっぱいに詰まっているので、こくこくと頷いておく。やっぱりクレアは優しい。「夕飯が入らなくなりますよ」とかなんとか言って、俺のおやつタイムを邪魔してくるオリビアとは大違いだ。

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