数えることも憚られる文字の海の中で

 車やブランド物や資産に興味はない。本と音楽とテレビがあればなんとか生きていける気がする。特に本を取り上げられたらたまったものじゃないと思う。生きていくことはできても、私として生きていくことは不可能に近い。私の世界は半分失われることだろう。

 昔から本が好きだったかと問われると、素直には頷けない。そりゃあ嫌いではなかったけれど、子供の頃から本の虫でずっと本ばかり読んでいたというわけではない。読むときは確かに読んでいたが、それ以外の世界も確かに私の中にあった。

 そんな私が読書を意識し始めたのは高校の頃だ。図書室の大きな高校に入ったこともあり、学校は読書を勧めた。一年の時はさほどでもなかったが、二年になると課題の一環で読書が必須になった。資料としての本をかなり借りた。その頃あたりから夜寝る前の読書が習慣になったような気がする。

 本があると安心する。本屋や図書館はいるだけで充分なのだ。背表紙を見ているだけで面白い。この本はどんな本だろうと想像してみる。そして手にとって読んでみたりする。自分の趣味に合致することもあるし、あまり好まないと思うこともある。そんな一つの経験を重ね、また本のある場所へ向かう。その度、また安心する。

 何に安心しているのか。多分、理由は二つだ。

 一つはこれほど多くの人が自分の思うところを書いたということ。この本の数だけ人間は考えて集めて創って残したという事実に安心しているのだ。後世まで名前が残る人は一握りかもしれないが、それでも一冊の本を書き上げたという痕跡が目の前にあって、触れられて捲ることができて知ることができる。これほどまでに確かなことなど世の中にそうないのではないかと思うのだ。

 二つ目は自分の好奇心がまだ死んでいないことを実感できることだ。背表紙を見てこれは面白そうだと思えている自分の脳はまだ錆びていない。この分野、言葉を面白いと思えるこの脳みそはまだまだ計り知れないなと自分の可能性を自分で褒めてやるのだ。そうでもしないとやっていられない。私は元々明るい人間とは到底いえない。その癖楽観的な部分があるからこうなっている。それでも書架の間にいる私のアンテナはまだまだ機能していると思える。故障などしていない。好奇心は死んでいない。

 一冊の本を読んでなんの情報も得ないということはない。ひとつも勉強にならなかったということはない。これだけは確かな事実だと私は思う。今まで人と比べれば少ないけれど本を読んできた。その中には私の知能及ばず面白いと思えなかったものや趣味に合わないものもあった。けれど学びのなかった本など一冊もない。身にならなかった本など一冊もないのだ。だから私は今日も本を読むし、明日も本を読む。無職であろうとなかろうと、きっと本を読み続けていくと思う。

 高校の頃、私は多くの先生に会った。好きではない先生も多かったが、多くの先生は読書を勧めた。私はその言葉を信じて良かったと心から思う。後悔ばかりで振り返ってはああすれば良かったと嘆く人生だが、読書に価値を見出せたことは私が堂々とこれは良かったと言える数少ないことの一つである。

 今まで読んだ文字の量は一体どれくらいなのだろう。その海の中で私は今漂いながら、時々突き刺さる言葉に溺れたり救われたりしながら生きている。また次回。

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