いつか絵の具の中で滲むものを
とある絵の話を思い出した。
現代美術作品の話である。絵の具を撒き散らしたような、一見すると美しさとはなんなのかということを考えさせる絵である。学生時代に知った絵だった。私も人並み程度に現代美術はわかりにくいなと思ったものである。
その絵画の説明を聞いた。
作者は私が表現したものを理解できない、説明できないことが、理解させないことが目的だったという。
私はそれを聞いた時、不思議な気持ちになった。絵画の鑑賞でそんな気持ちになったのは初めてだったと思う。美術は好きで学んでいたから鑑賞の機会も多かったし、詳しい方だった。けれどその解説は初めての感覚だったのだ。
絵画はわかりやすい芸術だと私は思っている。視覚で捉えられるから情報としてもわかりやすいし、解説を聞けば大抵の作品は理解できると考えている。これはどこの場面を描いた作品で、このモチーフは何を示していて、技術的に何が凄いのかがある程度平等に語れる分野だと思う。
だからこそその作品は私に新しい視覚を与えたように思えた。
画家は伝えようとしてものを描く。伝えるための手段を絵の具やキャンバス等に託したのが画家なのだから当然だ。自分の世界を他者に伝えるため、彼らは表現する。
それなのにその画家は理解などさせない思いで描いた。私の世界をあなたたちが語れることはないと。
その日私の目は開いたような気がした。今まで私の中にあった絵画の世界が壊れ、新しく生まれ変わっていく。視野が広がるのをこれ以上ないほどに実感したのだ。
そして今、私はそれを思い出す。
私は今まで何度か表現者の立場になったことがある。その時は自分の世界を表現する楽しさと、技術の研鑽に明け暮れていた。
今思えば、それは壊れる前の私の絵画世界だった。あるいはその時代の画家の気持ちに近いのかもしれない。わからないものを描いては意味がない、その意識の中で生きていた。
けれど今、私は新しい視野の中にいるように思える。
私は今、一人の道を歩いている。自分で掘削しなければならない道を選んだ。遠くの方では舗装された道を歩く人の姿が見える。少しだけ羨ましく眺めつつも、選んだのは自分だと目の前の雑草を素手で引きちぎる。次々に壁は立ちはだかり、いざ立ち向かおうとすると体調を壊したりする。その度にどうしてと嘆くが、自分の責任だという答えにさらに追い込まれる。
この苦しみはいつか誰かに理解されるのか。もし、私が成せる表現の全てをし尽くして私のこの世界を具現化できたとして、それが誰にとっても平等に届き得るものだろうか。結局は受け取り手次第ではないか。人には立場がある、見方がある。その全てに私の思いが素直に届くことなど不可能でなのではないか。
そもそも理解なんてしてほしくないのかもしれない。多少の苦悩はあれど世界に慣れて生きてこられた人に、私は今の気持ちを理解してほしいのか。そりゃあ知ってほしい。舗装道路を歩くことが苦痛でしょうがなかった。こういう理由で辛かったと言えたらそりゃあ気持ちがいいだろう。でも、それで理解してもらったところで、私は嬉しいのだろうか。刺されたことがない人に、刺された痛みはわからない。失ったことのない人に、失った哀しみはわからない。到底理解しえない。そういうものなのじゃないか。
あの絵は時を経て私にそんなことを考えさせた。あの画家の言っていたことが今では理解できる。私の世界をそう簡単に理解はさせない。言葉で語らせたりしない。画家はつくづく強い生き物だと思わされた。
私もかくありたい。いつか私の絵の具の中で滲んだものを、誰かに理解してほしくはない。腹が痛い。また次回。
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