第24話 羨望(水島悟視点)
二学期が始まった日の放課後。水島は佐藤と共に学校の中庭を無言で歩いていた。
「…………」
「…………」
学級委員であり、文化祭の実行委員を兼ねている二人は学校中を回って生徒会に頼まれて文化祭で使用する備品の数をチェックしていた。
「あとラスト一周!」
「はい!」
陸上部だろうか、グラウンドを走る運動部のかけ声が聞こえてくる。
「…………」
「…………」
じっとりと肌に粘りつくような暑さに水島は辟易とする。すでに八月も終わり。もうじき終わるというのに、夏は最後の力を振り絞るように地上に熱を振りまいているようだ。花壇のあじさいはすでに元あったはずの鮮やかさを失い、茶色く変色していた。
花壇から目線を前に戻す時、横を歩く佐藤を一瞬だけ見る。佐藤は水島に一瞥もくれず、ただ無表情に歩いている。
気まずいな、水島は額に伝う汗を拭いながらそう感じていた。
水島は隣を歩く佐藤と交際している。だが、問題はそれにも関わらず、夏休みに水族館に行って以来、ほとんど佐藤と話せていなかったことだ。今も事務的な会話を一言二言交したのみでほとんど話していなかった。
あの日、来瀬の仲介もあって二人は言葉を交わして誤解を解いた。だが、全てが都合良く元通りにはならなかった。弱く、愚かで、機械的に物事を割り切れない、ある種の悪い意味で人間的な思考をもつ水島は佐藤に引け目を感じ、意思疎通を取ることをためらっていた。そして、佐藤も何かしらの引け目を感じているのか水島に接触してくることはなかった。
端からみれば、酷く情けない人間に映ることだろう。
水島は自嘲する。
学級委員、ひいては文化祭実行委員としても役割に専念することを免罪符にしながら、全ての問題を後回しにしているのが現状だった。
「次はここ」
佐藤が呟く。そこはグラウンド脇に設置されている用具庫だった。今から文化祭で使用する備品がちゃんとあるかリストを照らし合わせて確認しなくてはならない。
「……ああ」
水島は絞り出すように短く乾いた相づちを打つ。
後を引く気まずさの原因は分かっている。
あの時、水島は踏み込んだ。水族館デートで不自然に接触してくる佐藤を咎め、拒絶された彼女はその場から逃げ出してしまったのだ。
あの日の出来事が昨日のことのようにフラッシュバックする。
何かがおかしいと思った。このまま突き進めば取り返しのつかないことになるのではないか。そう思えてならなかった。
合理的な判断のもと行われたというより、ある種の直感に基づいた衝動的な行動だったことは水島自身認めていた。
省みる。
あれは本当に正しい行動だったのだろうか。自分の直感に身を任せるばかりの浅慮な行動だったのではないか。佐藤の心に土足で踏み込む愚かな選択だったのではないか。
後悔が募ってゆく。
ふと、思うのだ。もしあの場で佐藤とキスを交していればこうはなっていなかったのではないかと。
もしかして本当の所、自分の感じた違和感の正体はただ佐藤を受け入れることに対する恐怖だったのではないか。自信のなさ故に、この先も佐藤との恋人関係を進めていくことに不安を覚えた。ただそれだけだったのではないか。
だとすれば自分はただ佐藤の勇気を、好意を無下にしたことになる。
水島は申し訳ない気持ちで、倉庫で屈みながら黙々とチェック表を埋めている佐藤を見た。
「…………」
過ぎてしまったことは仕方がない。大事なのはこれからだ。そんなことは重々承知している。
だが、水島はどうしていいか分からなかった。
他人とすれ違ってしまった時、どう対処するのか。相手の心を砕くためにどう振る舞えばいいのか。異性とほとんど関わることもなく、人間関係にも疎い水島はその術を知らなかった。
また自分は間違えてしまうのではないか。そうなればやっと手に届きそうになった何かを逃してしまうのではないか。自分の無力さが証明されてしまうのではないか。そんな恐怖で水島は八方塞がりになっていた。
「みなちゃん、今から家来る?」
「え? また〜? 一昨日も行ったじゃんか」
「いいじゃん。いいじゃん。それとも駄目?」
「えへへ……しょうがないな~いいよっ」
一組の男女が喋々喃々と話しながら昇降口から出てきて水島の後ろを通り過ぎて行く。
カップルだろう。腕を組み、人目も憚らず、仲睦まじそうにしている。全てが順風満帆で幸せの真っ只中に見える彼らがどうしようもなく妬ましく感じた。
水島はその姿を目に写すまいと故意に視線を地面に向けた。
「…………」
彼らならばその術を知っているのだろうか。誰かの心と向き合い、関係を修復する術を。
今まで恋人が出来れば人生が好転すると、そう思っていた。自分は恋人がいないから駄目なのだ。あいつらは彼女がいていいよな。でも俺にはいないから、だからこうして燻っているのも仕方がないよな。そうやって僻んでいた。
だが、今感じている嫉妬はまた別の事象に起因することを水島は自覚していた。
別に恋人がいる状況が羨ましいのではない。ただ自分の思い通りに他人に振る舞える、他人の欲しい言葉を吐いて心を通わせることが出来る、そんな人間が、そのあり方がただ羨ましい。
彼女が出来たところで実際の所は何も変わらない。弱く、ちっぽけで、他人と心を通わせることも出来ない自分自身は何一つ変わっていないのだから。そして、何もせず、何も施さずに、他人が自分を幸福にしてくれることは決してない。
ああ。
自分と道行く彼らはどうしようもなく違う存在なのだろうか。
生暖かい風が吹き抜けた。
自分が無力で、どうしようもなく虚しい存在のように感じられた。
「…………」
そして同時に、灰谷の関係がぎこちなくなっている事も水島の心に負荷を与えていた。
あの日。そう、まさに佐藤と水族館デートに行ったあの日だ。
その日、水島は灰谷と仲直りする機会を得た。いや、あれを仲直りと呼ぶのは正しいのだろうか。別に喧嘩をしていたわけでもないし、苛立っていた訳でもない。ただ、お互いがすれ違い、ぎこちない日々が続いていた。
これで大丈夫。そのはずだと思った。これで前のように灰谷と話せる。仲直りをした直後は安堵していた。
水島はそれからというもの以前のように振る舞うように努めた。そうするうちにすぐにもとの気の置けない仲に戻れるだろうと考えていた。
だが、違った。灰谷は一緒に帰省するのを用事があると断った。本当に用事があるならい
い。それなら、誘いを断られたことは残念だが、何も問題はない。だが、水島を避けているのであれば、あの時の仲直りの言葉が何も灰谷の心に響いていなかったとしたら。
水島は夏休み中ずっと灰谷のことが頭から離れなかった。
苦しかった。もしかしたら自分は灰谷をただ傷つけていたのではないか。
灰谷を苦しめるがために告白を受け入れたのではない。自分は恋人がいる、自分の方が灰谷より勝っていると優越感に浸るために、我欲のために付き合ったのではない。
本当だ。嘘じゃない。
脳裏に、あの日見た図書室で来瀬と仲良さそうに話していた灰谷の姿が映る。だが、水島は必死にそれをかき消した。
どうすることも出来なかった。
灰谷のために佐藤に別れを告げるのか。いや、それだけはありえない。いくら何でも佐藤に対して不誠実だ。そんなクズにはなりたくない。
第一、そんなことは灰谷も望んでいないだろう。自分の為に親友が彼女と別れたと知った時、灰谷は何を思うだろうか。きっと自分のせいだと、責任を感じてしまうだろう。いずれにしろ良い方向に転がることは決してないだろう。少しでもそんなことを考えた自分自身に嫌気が差す。
「……こっちは終わったから」
「っ……ごめん。ちょっと待って……」
佐藤の声で水島は思考の渦から引き戻される。考え込んでいたせいか作業の手が止まっていたようだった。
水島は慌てて残りの備品を数え出す。
「…………」
佐藤は水島の背後でただ待っている。
彼女は自分に何を思っているのか。呆れ? 諦め? 悲しみ? 哀れみ?
確認しなければならない。このまま、なあなあにして良い訳がない。分かっている。
だが、それは水島にとってこの上なく恐ろしいことだった。今、崖の端に立って、片足を一歩でも踏み出せば、深い谷底へと落ちる。そんな状況にも等しいと思える程の恐怖。
それでも。
これ以上は後回しにする訳にはいかない。夏休みの間十分なほどに後回しにしてきたのだから。時間が解決してくれる、他人が何とかしてくれるなどと思ってはいけない。全ては自分の肩に乗っているのだ。
水島は手早く仕事を終わらせると、意を決して声をかけた。
「佐藤さん」
「…………」
「ちょっといいかな」
「……何?」
佐藤は目すら向けようともしない。突き放すように感じられたのは気のせいか。いや、全ては邪推で、自らの主観によるものだろう。だが、それでも佐藤の態度と重い沈黙に水島はさっきまでの気勢がじりじりと、確かに少しずつ削られていくのを感じていた。
「えっと……」
声をかけたはいいものの、何と言葉にすればいいか詰まる。
水島の中でも、どうすればいいのか、どうしたいのか、明確には定まっている訳ではなかった。ただ、今の状態に留まる事への気持ち悪さだけが渦巻いていた。
「………俺達って、付き合ってるので、いいんだよな」
「そんなこと……」
佐藤は言葉を途切れさせる。
水島はぎゅっと唇を噛んだ。
違う。違う。違う。そんな事を言いたいのではない。言外に全ての責任を佐藤に押しつけるような最低な言葉だったと自省する。
ああ、どうして自分はこうなのだろう。
「いや、ごめん……。そうじゃなくてさ。俺が言いたかったのは……」
「……私は」
佐藤は小さく呟くと深く俯いた。水島は言葉を続けようとするが上手く出てこない。
「ごめんなさいっ。先に戻ってるから」
佐藤は背を向けて小走りで走って行く。
「っ……」
水島は用具庫の前に一人取り残される。振り絞った小さな勇気はあっという間に砕かれた。文化祭に向けて熱が高まっているこの学校の中でただ一人取り残されているような気がしていた。
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