閑話 夏休みの一日 後編

「……っ」


 いや、これで終わりだ。ちょっとした昔話をしただけ。それ以上のことは何もない。


 その、はずだ。


 だけど、来瀬さんのその視線に、僕の醜さも弱さも見透かしているようなその瞳に、僕は敗北する。


 無意識のうちに、体面を保つために意地を張って本心を隠し通すよりも、隠しても無意味だ、話して楽になりたい、そんな気持ちが大きくなっていた。


「でも、悟には彼女ができたからもう一緒に帰ったり出来ない、よね……ちゃんと見守るって決めたし……」


 気づけばごく自然に口から言葉が溢れていた。まとまりのない独り言のような言葉。


「……さみしいの?」

「いや……」


 咄嗟に否定しようとした。だが、言葉に詰まる。


 自分でも驚いた。寂しさという感情を否定しきれない自分がいることに。


 僕はただ単に寂しかったのか。ただ単純な人間的な感情に合理的な解釈を与えようとグダグダと思い悩んでいたのか。


「うん、そうかもね」


 自嘲するように、投げやり気味に肯定した。いつの間にか自分の中でも明確になっていなかった本心が言葉にすることで形になっていく。


「…………」

「…………」


 沈黙。湿度の高い生ぬるい風が僕らの間を駆け抜けた。何となくそろそろ雨が降りそうな、そんな予感がしていた。


「――でもそんなもんなんじゃないかな」

「え?」

「冷たい言い方をするけどさ? 例えば今、友達だって言って一緒にいる人達の中にどれだけ進学して、さらに大人になって働いてからも会うと思う?」

「それは……」


 学生時代の友人が大人になると疎遠になるなどありふれた話だ。


「そうでなくたって私だってもう疎遠になっちゃた友達は沢山いる。小学校の頃の友達とかね。でも私はもうそういうものだと諦めてるよ。割り切って、また新しい関係を作ってすごしている。離散集合は普通の人間関係にとっては宿命だから。どうしようもないことなの」

「そんな……」


 否定しようもない正論だと思った。だけど、だからといって僕と悟に当てはめてそれを受け入れることは難しかった。


「冷めてると思う?」


 確かに優しい来瀬さんにしては冷徹で冷たくも見える意見だったと思う。僕が何も言えずに口を閉ざしていると来瀬さんが続けて話し出す。


「でもさ、それでも信じてるんだ」

「……何を?」

「一生を共に出来る、絶対に私を裏切らない、そんな人が出来ることを、だよ」


 何のことだろう。何にせよ、僕には難しくてよく分からない話だと思った。


「だから別に不安がらなくてもいいと思うな。私も、そして灰谷君もただ前に進むだけだよ」

「…………」


 僕を励ましてくれているのだと分かった。


「ほらっ、それに灰谷君は独りじゃない。私がいるでしょ? 前も言わなかったっけ?」

「……ありがと」


 にひっ、と彼女は僕に笑いかける。


 素直に嬉しかった。そう言ってくれるだけで救われるような気がした。あの来瀬さんが僕なんかに気を配ってくれるなんて夢見心地ですらあった。


 だけど――


 同時に、素直にそれを肯定することができない自分がいることに気づいた。


 来瀬さんは今こうして普通に話しているから忘れそうになるけど、みんなの人気者だ。だから勘違いするな。これは社交辞令だ。まともに受け取ってはいけない。


 どうしてこんなに自分は無意味に悩んでしまうのだろう。何かが自分の身に起こるたびに否定的な考えが浮かんでしまう。自分の心を守るために相手の好意を内心では拒絶する。


 素直に受け取った方が、相手にとっても自分にとっても良いに決まっているのに、そう出来ない。


 自分のそんな所が嫌いで仕方ない。


 だから僕は他の人達が羨ましかった。何にも縛られず、臆することなくただ自分の思うままに話しかけたい人間に話しかけて、仲良くなりたい人間と仲を深め、好きな人間を好きだと言える他人が羨ましかった。


 僕は後ろめたさで来瀬さんの方を見ることが出来ない。


 ああ。これだから僕は人と向き合うことが苦手なのだ。


 他人に壁を作って避けてきたのも。実際今まで悟くらいしか友達といえる人がいなかったのも。


 僕は僕の事が嫌いだから。


 きっと他人は鏡のようなものだから。他人と相対する度に自分の発する言葉や息遣いや思考、相手の自分をみる目からどうしても自分の未熟で醜悪な部分が透けて見える。嫌でも敏感に感じ取ってしまう。


 他人と相対することが僕には出来ない。人の好意を素直に受け取る事が出来ない。


「そろそろ行こっか」

「……うん」


 僕らは本屋に戻ることにした。


「あ、そういえば」


 来瀬さんが何かを思い出したように声を上げる。


「今から私たちが買おうとしてる本だけどさ、一冊しかないけど……どうする?」

「あっ……」


 その言わんとしていることを察した。「ピクルス大戦争」の十巻は今まで全く見つけられなかった。当然あの古本屋にも二冊以上あるわけがない。つまり僕たちのどちらかしか買えなくなってしまうのだ。


「じゃあ……」

「あ!」


 譲るよ。そう言おうとした時だった。来瀬さんが突然立ち止まって声を上げた。


「そうだ! ならさ、一緒に半分ずつお金出して買うのはどう? 後で貸し合いっこすればいいでしょ!」


 確かにそれなら公平だし、二人共読むことができる。


「……でも、来瀬さんの方が先に来てたでしょ? なら」



「うん、それがいいかも」

「えへへ、いいアイデアでしょ」


 来瀬さんは得意気に言う。僕がお金を渡すとじゃあ買ってくるねと来瀬さんが古本屋に入っていった。


「買ってきたよ」


 来瀬さんはすぐに戻ってきた。本の入った袋を僕に見せてくる。


「灰谷君、先読む?」

「いや、いいよ。来瀬さんが先に読んで」


  僕は首を振る。早く読みたかったのは確かだが、譲ってもらうのは悪い気がした。何より異性のクラスメイト、しかもクラスの中心にいる来瀬さんに僕にもらうのは悪い気がした。


「そう? いいの?」

「うん、来瀬さんの方が先にお店に来てたんだから、先に読みなよ」

「優しいね」


 優しい。


 違う。


 ただ、僕は自分の我を通す度胸も勇気もなかっただけだ。


 僕は来瀬さんの言葉に何も返すことが出来なかった。


「じゃあ、今日はありがとう」

「うん、じゃあ」


  気がつけば駅の前までたどり着いていた。僕がいつも通学に使っている駅。ただ、今いるのはいつも使っているのとは反対側の入口で目に入る全てが見慣れず全く別の場所に思えた。

 そういえば、高校になってからこの街に引っ越して来てから、学校と家を行ったり来たりするだけの日々だった。悟と一緒に帰ってはいたが、中学までとは違って家が離れたこともあって街中を探索するようなことはなかった。

 今になって知らない場所が沢山あるということに気付かされる。


「本はそうだな……じゃあ、来週また会えるかな」

「え……」


 来週会う? 来瀬さんと? 僕が?


 今僕の表情を俯瞰して見たのなら、文字通り目を丸くしていたことだろう。


「えっ、て……何、豆鉄砲を撃たれたみたいな顔してるの? この本、次は灰谷君が読む番でしょ? そういう約束だったんだから」


 来瀬さんはまるでそのことに何の疑念もないという様子だった。


「一週間もあれば読めるからさ。それとも何かまずかった?」

「いや……ううん、そんなことないよ」


 僕は頭を振る。


 断る理由はない。


 来瀬さんにそう誘われた瞬間に驚くほどすんなりと、その誘いに乗っている自分がいた。


 それは詭弁なのかもしれないだとか、ただ、下心に突き動かされているだけなのかもしれないなどと、考えている自分はいなかった。完全にそんなことは頭になかった。


 自分の内面を批判して自己嫌悪に陥りがちな僕にとってこれが、イレギュラーなことであるとこの時は気づいていなかった。いや、きっと思考から無意識のうちに排除していた。 


「じゃあ、次あった時にたっぷりネタバレしてあげるからね〜」

「いや、やめてよ……」

「ふふっ……冗談冗談」


 からからと鈴の鳴るように笑う。


「それじゃあね」

「うん、ばいばい」


 僕らは手を振り別れた。来瀬さんが改札を潜って見えなくなるまでその場に突っ立っていた。


 僕の家は線路の向こう側だ。地下道を通って迂回するために歩を進める。


 地下道を抜けてすぐのことだ。


 頬に水滴がついた。手の平を灰色の雲に覆われた空に向けてみる。


「…………」


 雨が降り出した。早く家に帰ろう。


 僕は歩みを早めた。



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