第18話 一日の終わり
僕が姿を表すと来瀬さん、そして悟が座席から立ち上がった。僕の背後から続けて佐藤さんも姿を現す。
四人の間で視線が交錯する。互いを測り合うような沈黙が流れるのを肌で感じた。
「二人とも一緒にいたんだ」
最初に声を発したのは来瀬さんだった。
「…………」
横に立つ佐藤さんに目を向けるが何も答えない。
「あ、うん。たまたま途中で会って」
仕方なく僕が代わりに答える。
「よかった。連絡しても出てくれないから、心配してたよ? 佐藤さん」
来瀬さんは僕の言葉に特に反応することなく佐藤さんに目を向けて、そう投げかけた。ちらりと横を見ると、佐藤さんは依然として黙ったまま俯いたままだ。唇を震わせていたように見える。
だが、その心境は何も背景を理解出来ていない僕には計り知れない。
「水島君、ほら」
次に来瀬さんは悟に目を向ける。
「なに呆けた顔してるの? ほら仲直りして」
「ああ……うん」
悟が前に出る。恋人同士の二人が対面する格好になった。
「…………」
「…………」
沈黙。二人とも何を言っていいか分からないといった様子で、視線を互いから逸らしている。膠着状態だった。
「水島君」
先に切り出したのは佐藤さんだった。
「ごめんなさい。勝手に逃げ出したりして、心配かけたよね。困らせちゃったよね。ずっと今日もから回ってばかりで……」
「…………」
「ごめん。次は上手くやるから。次は失敗しないから」
「…………」
悟は黙ったままだ。
「だから私とまた付き合ってくれますか……?」
小さくそれでも僕にも届く声で彼女はそう言った。悟は暫くの間、考え込んでいる様子だった。そして――
「いや……俺こそ、ごめん。ちゃんと佐藤さんのことを考えるべきだった。思ったことを突きつけるばっかりで、佐藤さんのことを思いやれてなかった。きっと、本当はもっと上手く気持ちを汲み取るべきだった……んだと思う」
「…………」
「でも、こういうことは初めてで、人付き合いも……ずっと苦手で、だから――」
「こんな俺でいいならまた付き合ってください」
そう、言った。
二人が思いの丈を一つ一つ言葉にする静謐な時間。邪魔することは許されない、否が応でも感じさせられた。僕はただ二人を遠巻きに見守っている。
「ほら、指切りでもしとこ? 仲直りの証」
来瀬さんが促す。
悟と佐藤さんは互いに顔を見合わせると、視線を合わせた。
二人はゆっくりと曲げた小指を軽く触れ合わせて、そして結んだ。
「最後に私からもごめんね」
来瀬さんが言う。
悟はどこか戸惑っているような表情だった。
「よかった」
小さく呟く声が横から聞こえる。気づけば来瀬さんが僕の隣に並んでいた。
何かあったの?
そう尋ねたかった。だが、僕は悟と佐藤さんのただ二人だけの空間を白けさせるような気がして何も言葉を発することができなかった。
今目の前で起きたこと、佐藤さんがあの場を去っていたこと。きっと悟と佐藤さんの間で何かがあったのだろう。
だが僕には何もわからない。知るすべもない。僕はその場にいなかったのだから。
でも、それでも僕は今この瞬間、二人を見て心の枷が取れるような気がしていた。
それはきっと佐藤さんと少し話したからだと思う。僕は悟しか見えていなかった。いや、自分のことしか考えられていなかった。ただ、悟との関係が変わっていくことへの恐怖に怯えていた。
でも今、目の前で小指を絡め合う二人を見て、一歩一歩歩み寄っている二人を見て、どこか心温まる僕がいることに気づいた。そして、この二人の関係を僕が自分本位な気持ちで壊してはいけない。踏みにじってはいけない。邪魔してはいけない。そう、思った。
それはある種の現実逃避なのかもしれない。悟が自分の隣からいなくなって、悟が変わってしまうことへの不安を覆い隠すために虚勢を張っているだけなのかもしれない。醜い自分本位な感情を綺麗事で強引に封じ込めているだけなのかもしれない。今の僕は親友の幸せを願う自分に酔っているだけの偽善者なのかもしれない。心の底から、本心で思っていることではないのかもしれない。
でも――
それでもよかった。
きっとこれで正しいのだ。僕は前に進まなければならない。
きっと人間関係は不可逆なものだから。関係性が変容していくのはどうしようもないことで、そして目の前で起きている僕のことは必ずしも悪いことではないのだろう。
ようやく、そう思えたのだ。
「ほら、置いてかれるよ? 私達も行こ?」
僕は歩み出した来瀬さんの後を二歩、三歩後から追った。
*
それから僕らは普通に水族館を楽しんだ。順路を一通り回って、軽く館内で昼食を取った後、イルカのショーを見て昼過ぎに解散となった。
「じゃあ、二人はここでお別れだね」
「今日はありがとうございました」
悟が来瀬さんにペコリとお辞儀をした。佐藤さんは黙って悟の隣にいる。あの時の出来事が緒を引いているのだろうかぎこちない表情をしているが
「じゃあ、優もまた学校で」
悟が僕に手を振る。
「あ、ああ」
僕は返事をする。だが、声を発してから掠れるほど小さかった。
そのまま、二人の後ろ姿が遠ざかっていく。
僕は二人の後ろ姿に小さく手を振ってみる。二人は背を向けていて気づかない。どこかさみしいような、でも同時に吹っ切れたようなそんな気持ちだった。
「楽しかったね」
来瀬さんが微笑んで言った。
「灰谷君は楽しかった?」
来瀬さんが僕に尋ねてくる。どうだろうか。水族館へ行くのは久しぶりだった。
「うん。あんまり行くことなかったけど結構楽しかったよ」
僕が答えると、来瀬さんはよかったと言いながら胸をなで下ろした。
「今回ここを選んだのはね。まあ、デートスポットに最適だっていうのはもちろんなんだけど」
屋外だと夏は暑いし冬は寒いからね。来瀬さんは小さく笑いながら続ける。
「単純に私が、水族館が好きなんだよね」
僕は来瀬さんの話をただ聞く。
「小さな頃、長期休暇になると親が私を連れていろいろなレジャースポットに連れてってくれたの。動物園、遊園地、他にはスキー場とか」
「うん」
「でも、どれもいまいち好きになれなくてさ。なんだろう多分みんな騒がしくて、どこか自分だけが一人ぼっちのような気がしたからだと思う。でも水族館だけは好きだった」
懐かしむように、話す。
「…………」
「ほら水塊が揺れて水面がキラキラ光ってさ、その中を魚や海の生き物が悠然と泳ぐの。なんか見てるだけで周りのことも時間も忘れそうになるんだ」
なんだか分かるような気がした。
「そっか……」
「って、ごめんね? 自分語りみたいになっちゃって」
「いや、大丈夫だよ」
こんなやり取りが出来ることがただ心地よかった。
「……あのさ、話は変わるけどさ」
「何かな?」
「僕がいない間に二人に何があったの? 僕、何も知らなくてさ」
尋ねずにはいられなかった。あの時、二人に何があったのか僕は何も知らないまま悟と佐藤さんの仲直りの様子を眺めているしかなかった。
「ああ……」
来瀬さんは小さくつぶやく。
「灰谷くんはいなかったもんね。知らないか」
僕は来瀬さんから知らされた。
来瀬さんが佐藤さんに積極的に動くようアドバイスしていたこと、佐藤さんがそれで気負ってしまったこと、それが原因で悟とぎこちなくなってしまったこと。
正直なところどれも僕にはピンと来ないことばかりだった。親友のことなのに、まるで他人事のようにしか受け取れない自分がいた。恋愛というものに疎いからなのか。あるいは僕が結局の所は当事者ではないからなのか。
「申し訳なかったな。やっぱりさ、余計なおせっかいだったのかもね」
来瀬さんは小さく笑う。
「部外者が余計な気を回す必要はなくて、二人の関係は二人だけで、二人のペースで育んでいくべきなんだよ」
「僕は分からないけど……」
僕はそう言うことしか出来なかった。
後ろめたさ。それしかなかった。来瀬さんはきっと善意で佐藤さんに声をかけただけなのだろう。
それに比べて僕はどうだ。二人の恋路を心から応援していただろうか。いや、自分のことしか考えてなかったじゃないか。悟が自分の下から離れてしまう、そのことばかり考えていた。
僕は自分を恥じた。
「それで、少しは心の整理はついた? 水島君とのことで悩んでたでしょ?」
「…………」
ずっとずっと考えていた。
僕は悟とこれからどう関わっていくのか。変化した関係は不可逆できっと前に進んでいくしかない。
僕は僕の意思で悟から距離を置く。
そう、決めていた。
きっとこれは前のような後ろ向きで消極的な選択ではない、前向きな選択。そのはずだ。悟が前に進む為に、そして僕が前に進む為に必要な選択。
僕にとってはこの時間が全てのように思えた。
「うん。僕さ、ちゃんと悟と、佐藤さんのことちゃんと応援することにする。悟には幸せになってほしいからさ」
これでいい。これでいいんだ。
何度も心に塗りつけながら。
「だから、もう大丈夫。いろいろ考えてくれてありがとう。来瀬さん」
「ううん。私と灰谷君の仲でしょ? これくらい当然だよ」
来瀬さんは首を振る。
「へ〜、でも友達の恋を応援するって言えるようになるなんてね、成長したじゃん」
ニヤニヤしながら僕に言う。
「えらいね〜、灰谷くん。頭撫でてあげよっか?」
「ちょっと、やめてよ……」
手を頭に伸ばしてくる来瀬さんに僕は恥ずかしくなって、距離をとる。
「ははっ……ごめんごめん」
昼を過ぎて傾き始めた太陽の下、僕らは駅に向かって歩いていく。
これから僕はどうすればいいのだろう。一体どうなっていくのだろう。
人生において立ち止まることは許されない。ろくに判断材料もないまま、僕達は選択を迫られる。だというのに選択の結果は常に僕達の背中にのしかかる。神様は酷く理不尽だ。弱い人間は変わりゆく環境に翻弄されて、流されることしか出来ない。流されて、流されて、たどり着く先は一体どこなのだろうか。
これからへの漠然とした不安と諦観、ある種の開き直り。
来瀬さんの横を歩く僕の中ではそんな感情が渦巻いていた。
「そういえばもうすぐ夏休みだね」
来瀬さんがぽつりと言った。
ガタンゴトンと水族館横の線路を電車が走り抜ける音がした。
「そう、だね」
夏が迫っていた。
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