第17話 親友の彼女
僕はトイレを出ると、重い足を引きずりながら来た道を引き返していた。
他の人達に突然逃げるようにあの場を離れたことをなんて説明しようか。言い訳をぐるぐると頭の中で考えながら歩く。
逃げ出してしまった自分への嫌悪感に飲まれそうになる。
そして、しばらく歩いたところで一人の女の子が立ち尽くしているのが見えた。見覚えのある顔。
彼女はスマホに目を落として、歪めている。
――あれは……佐藤さん? 一体何をやっているのだろうか。
「…………」
声をかけようとするが、足は一歩踏み出したところで止まってしまう。
佐藤さん。親友である悟に突然できた彼女。
その姿を見て引け目感じたのだ。僕は悟に彼女ができたことに昏い思いを抱いている。だから、その発端たる彼女にも複雑な思いを拭えないでいた。
彼女が悟に告白なんてしなければ、こんなことには……。そんな全ての責任を彼女に押し付けるような自己中心的な考えが浮かんで来るのに気づいてはそれを必死にかき消した。
こんな僕が声をかけてもいいのだろうか。
だが、さっきまで悟といい雰囲気だったはずなのに、こんな所に一人でいるなんて悟と何かあったのかもしれない。それに佐藤さんとは話したことはないとはいえ、クラスメイトで一緒に来ている手前、見て見ぬふりをするのは印象が悪い。
僕は意を決して声をかけた。
「……あの、佐藤さん?」
「はっ、はいっ……」
佐藤さんはビクリと肩を震わせて、驚いて声をあげる。
「えっ、灰谷くん...? 来瀬さんと一緒にいたんじゃ」
「ああ、僕は……」
答えに詰まる。佐藤さん達二人がキスするのに耐えられなくなって逃げ出した。そんなこと言えるわけがなかった。
「ちょっとお手洗いに行きたくなって……」
「そう、ですか……」
会話が途切れた。
「えっと、あの、今日楽しめてますか?」
佐藤さんが続けて聞いてくる。
「え、ええ……まあ。水族館なんて滅多に来ないんで新鮮でおもしろいですよ。ハハハッ……」
当たり障りのない返事。こんな返しでは会話は広がらないのは分かっているが、僕には他の上手い返答なんて思いつかない。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。やっぱり駄目だ。こういう場で何を話していいか分からない。相手が異性なら尚更だ。
最近、来瀬さんと自然に話せるようになっていたから忘れていた。本来自分がこういう人間だということを。
僕はどうして来瀬さんと普通に話せるようになったんだっけ。たしかに共通の趣味という取っ掛かりはあった。だが、来瀬さんの人当たりのいい性格がなければ、僕はこんなにも話せなかっただろう。
それでも今回は僕から佐藤さんに話しかけたのだ。このままではまずい。僕は意を決して話しかける。
「えっと、佐藤さんはどうしてこんなところに? 悟は?」
悟の名前を゙出したのは故意だった。この人が悟の彼女で、悟にはもう彼女がいて、僕は親友として悟と距離を置く。その覚悟をするために、自分を奮い立たせるためにあえて名前を口にした。
暗い顔をしている佐藤さんに明るく、気さくにそう努めて声をかけた。
上手く出来ているだろうか。
声が上ずったような気がした。
「…………」
佐藤さんは答えない。
見れば佐藤さんの顔には影が差していた。分からない。どうして彼女はこんなに昏い表情を浮かべているのか。さっきまで悟と睦み合ってキスまで交わしていたというのに。僕の見ていない間に何があったのか。
部外者の僕には何も分からない。
そこで佐藤さんがポツリと言った。
「あの、水島君とは親友なんですよね」
「えっ?」
明らかに会話の流れと離れた答えに意表を突かれる。僕の質問に対する答えではなかった。自分の事情を知られたくないから、話題を逸らした。そう見えた。
だが、僕に彼女の事情に踏み込む勇気はなかった。いや、踏み込んではいけないと思った。たかが友人が 僕は蚊帳の外で、それが普通のことなんだ。
「小学校の頃から仲がいいって、水島君がそう言ってました」
胸が痛む。悟は僕の事を親友と言ってくれていた。僕はこんなに醜く昏い感情を湛えているのに、親友だと言ってくれる。その善意が今は酷く苦しかった。
「ええ、そう、ですね」
今はそう返すのが精一杯だった。
「もし灰谷君なら仲の良かった友達をもう口も聞いてくれないほどに怒らせてしまったらどうしますか?」
「え?」
発言の意図が読めなかった。
「……ずっと一緒でその人にとって自分が一番の友達だと思っていたのに、自分の弱さでその人を傷つけてしまって、もうどうやっても取り返しはつかなくて、そんな時に灰谷君ならどうしますか?」
佐藤さんは呟くように続ける。だが、そこまで言うとハッと何かに気づいたように首を振った。
「……いえ、すみません。こんな事聞いてしまって。忘れて下さい」
佐藤さんは顔を背けた。 何だ?
「そろそろ戻りましょう。二人とも待ってるでしょうから」
今のは何だったんだ、一体。聞こえなかった訳じゃない。ただ、理解できなかった。佐藤さんの言ったのは悟のことなのだろうか。
口を利いてくれないほど怒っている。あれは今の悟の状態を表しているんじゃないだろうか。
まさか。悟は僕に幻滅してしまったのだろうか。僕の悟に彼女が出来たことを受け入れられない醜い心も全て見透かして、僕のことを嫌いになってしまったのだろうか。
いや。あるいは佐藤さん自身のことか。僕が知らない間に佐藤さんは悟と何かがあった。そして佐藤さんも僕と同じように逃げてきた。彼女はそれを吐き出したくて僕にそんなことを言ったのかもしれない。
いや、でもだとすると仲の良かった友達という言い方をするのはおかしいのではないか。佐藤さんと悟は恋人関係なのだから。
「…………」
分からない。彼女の物言いは理解するには余りに抽象的だった。
佐藤さんは僕の方を見ずにゆっくりと歩き出す。
「えっと、佐藤さん……そっちじゃないんじゃ」
佐藤さんの歩く方向は僕達が来た方向とは正反対だ。僕は戸惑って思わず佐藤さんの背中に呼びかける。
「ああ、すいません。私飲み物買ってから戻りますから先に戻っててください」
佐藤さんはそう言って駆けだしてしまった。
僕は言い知れないもやもやを抱えながら、一人で来瀬さんたちと別れた場所まで引き返すことにした。
*
「……あれ?」
来瀬さんと別れた場所まで戻ってきた。だが、そこには誰もいなかった。既に移動してしまったのか。
スマホを確認しても特にメッセージは届いていない。今どこにいますか、とメッセージを送ろうとしてテキストボックスに打ち込んだ。だが送信する前に指を止めた。情けなくあの場から逃げ出しておいて、今更そんな図々しくそんなメッセージを送るのは気が引けた。
やっぱりあそこで佐藤さんと別れたのは失敗だったな、と少し後悔する。彼女についていけば合流できたかもしれないというのに。
僕はもう一度佐藤さんが向かっていった方に引き返し始めた。そして自動販売機の多く設置されている休憩スペースにさしかかる所で佐藤さんの後ろ姿を見つけた。
だが、その様子に違和感を覚えた。
なぜあんな所で立ち止まっているのだろう。佐藤さんは丁度休憩スペースの前の曲がり角で立ち尽くしていた。僕が後ろにいることなんて気づきもせずに、まるで死角に身を隠すようにして休憩スペースの方を伺っている。
そして彼女は胸に手を当てて自分を落ち着かせるかのように小さく何かを呟いていた。
「なに、してるんですか」
「……!」
恐る恐る声をかけると佐藤さんは肩を震わせて、振り返った。
「灰谷、君……? どうして?」
「……いや一回別れた場所まで戻ったんですけど移動してしまったみたいでいなかったので……」
弁明するように訳を話す。
「佐藤さんこそ何をしてるんですか?」
「…………」
俯いて答えない。
僕は佐藤さんが見ていた休憩スペースの方を覗き込んだ。
「あっ……」
佐藤さんが僕を引き止めようとしたのか手を伸ばしたが、遅かった。
休憩スペースに置かれた長椅子。そこには見知った二人の男女の姿があった。来瀬さんと悟だ。
――嫌だ。そう思った。
それは醜い独占欲。いや、あるは悟が佐藤さんと付き合った時と同じように自分の居場所が失われることへの不安か。
もう、やめてくれ。
いや。実際のところ、別に二人が一緒にいることに何の不思議もない。クラスメイトが四人で遊びに来て、うち二人がいなくなった。この状況なら残り二人がいなくなった二人を一緒に探すのはごく自然な流れ。そのはずだ。
自分に必死に言い聞かせる。
目線の先で二人は横並びで何か言葉を交わしているが、何を話しているかは分からない。
まさか。まさか。まさか。最初から来瀬さんは悟に興味があるから僕に近づいてきたのか? そんな突飛な妄想が僕を苦しめる。いや違う。そんなはずはない。来瀬さんはそんなことはしない。他人を、僕を道具のように使うような下劣な真似は絶対にしない。
「…………」
僕の中に一つの昏い感情が芽生えてくる。
来瀬さんから離れてくれ。
ねえ、悟。悟は佐藤さんを選んだんでしょ? 親友だった僕よりも彼女を選んだ。別にそれはもう怒らないよ。怒る権利も資格も僕にはない。それは全て僕の醜く、勝手で、一方的な押し付けがましい感情だって分かってる。
でもさ、今の僕の唯一の居場所だけは奪わないでよ。
別に来瀬さんは僕のことを何とも思っていない、ましてや好意を抱いてなどいないだろう。ただ、彼女は誰にでも優しいから、僕に対してもそうしてるだけ。それでも、悟という心の支えを失った僕にとってはそれは救いだった。
横にいる佐藤さんの姿を見る。
――ああ。そうだ。
佐藤さんの姿を見ればきっと二人は話すのをやめてくれる。彼女の前では他の女の子と大っぴらに話すことは出来ないはずだ。
「佐藤さん。こうしても仕方ないし、行こうか」
「えっ…、あ、うん」
僕は今、自分の欲望の為に、嫉妬心のために、独占心のために、他人を利用するクズだった。
そして僕は話を続けている二人の前に姿を現した。
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