第15話 自己嫌悪

「ごめん僕、ちょっとトイレ行ってくる」

「灰谷君……?」


 僕は来瀬さんにそれだけ言い残すとその場を去った。順路を引き返して角を曲がると、男子トイレに入る。 


 バタン。


 僕は個室に入ると、すぐに扉を閉めた。背中をトイレの扉につけると安心感からかそのままズルズルとしゃがみこんでしまう。


「はぁ……」


 何をやっているんだ、僕は……。

 

 来瀬さんには悪いことをしたと思う。優しい来瀬さんのことだ。突然、こんなことをして体調でも悪くなってしまったのか、と心配をかけているだろう。


「…………」


 狭い個室の中、囲んでいるパーティションが外の世界から僕を守ってくれる気がして、酷く安心した。


 あの場から逃げ出してしまったのは、どうしても耐えられなかったからだ。今の自分を誰にも見られたくなかった。


 佐藤さんと悟が手を繋いだのを見てから僕は心がざわついて仕方なかった。来瀬さんは話しかけてくれたが、きっと上の空で上手く返せてなかったと思う。

 前で歩く二人のことが気になって仕方なかった。ただ手を繋いだだけ、そう思い込もうとしても無理だった。時折交わされる会話だとか、視線だとか、歩く歩調だとか、二人の一挙手一投足に何か深い意味があるのではないかとどうしても勘ぐってしまう。


――そしてあの時、カワウソの水槽に差し掛かった辺りだったか。


 僕の視線の前で悟と佐藤さんは立ち止まり何か言葉を交すと顔を近づけた。僕は思わず目を逸らした。とても見ていられなかった。そして気がつけば足は順路を引き返す方に向かい、ここまでやってきていた。


 きっと僕が背を向けていた瞬間に二人は口づけを交わしていたのだろう。


 男女が付き合うなんて自分にはどこか遠い世界の出来事だと思っていた僕には鈍器で頭を殴られるような気分だった。


 悟と佐藤さんは付き合った。その事実を僕は正しく理解しているつもりだった。つもり、だったのだ。

 だが、目の前で繰り広げられた光景はあまりに生々しかった。手を繋ぐだとか、ましてやキスなんて……。その当事者が悟だなんて信じたくなかった。


 僕の知っている悟はどこに行ってしまったんだろうか。ひねくれていて、カップルだとか、充実した人生を送っている人をひがんでは、俺達には一生関係ない世界だよな、だなんて僕の隣で自虐して一緒に笑っていた悟はもういないんだろうか。


 もう僕のことなんてどうにでも良くなってしまったのだろうか。悟は僕よりも彼女を取った、そういうことなのだろうか。


 だが、自分に置き換えて考えてみる。


 仮に僕が悟の立場だったら。ある日、来瀬さんに好意を伝えられたとしたらとしたら、僕はどうしただろうか。


 きっと、断わらないだろう。断れないだろう。


 僕は他人からの好意を無下にする勇気はないから。他人からの好意を切り捨てる勇気はないから。他人から受ける好意も悪意も恐ろしいから。

 あるいは普通に恋愛をしたいという思いがあるかもしれない。自分の力で恋人を手に入れることが出来なくとも目の前にそれがあるとなったら手を伸ばしたくなるものなのかもしれない。


 悟の立場なら僕も悟と同じようにしたはずなのだ。


 だから、悟は何も悪くない。


 そのはずなのに……。


「ごめんな、悟……」

 

 ああ、どうしてこんなにも僕は弱いんだろう。どうしてこんなにも僕は情けないんだろう。僕はきっと普通じゃない。親友に彼女が出来たら素直に祝ってやるべきなのだ。そんなことは分かっている。


 僕がこんなことで悩んでいる事を知ったら悟は僕を嫌ってしまうだろう。お前はただの友達なんだから、いつまでもベッタリ依存してんじゃねえよ、やっと彼女が出来たんだからお前はどっか行ってろよ、気持ち悪いんだよ。頭の中で悟の声で僕を罵る声が再生された。悟への負の感情が傷口から膿が出るように溢れ出す。悟は、わざと僕に見せつけるように佐藤さんといちゃついて見せたのではないか、


 やめろ。やめろよ。悟はそんなことはしない。


 そこまで考えて嫌な想像を打ち切った。


 自己嫌悪。


 うじうじと考え込んでいる自分も、悟を悪者にしようとしている自分も全てが嫌いだった。


 そこでふと気づく。


 僕は当たり前のように告白される相手として来瀬さんを想像していた。違和感なくごく自然に他の誰でもなく、はっきりと来瀬さんを想起していた。


「は、ははっ……」


 ああ。そうだよ。僕は来瀬さんに惹かれているよ。自嘲しながら、やけくそ気味に肯定した。


 だが、好意を伝えることなど考えもしていない。


 恋愛感情を抱いたことがないわけじゃない。


 以前もクラスに好きな人がいた時期が何度かあった。


 だが、僕にとってそれは決して成就させるものなんかじゃなかった。世間が恋と呼ぶものではなかった。

 僕なんかが好きになったら気持ち悪いから。迷惑だから。そうやって押し殺しては忘れるのをただ待った。いや、それはただの詭弁でただ拒絶されるのが怖かっただけかもしれない。


 いずれにしろ恋心なんてのは、ただ心に秘めていずれ風化するのを待つだけの感情だった。決して僕が何か行動を起こす理由にはなり得ない。

 他人がどうだろうと、僕はそうやって生きてきた。それしか恋愛感情に対処する方法を知らなかった。


 だからこそ、今の状況が怖い。


 来瀬さんに必要以上に入れ込んでいる自分が、怖い。いつかは恋心が打ち砕かれると分かっていながら来瀬さんと関わっている、自分が怖い。きっと彼女は僕のことをクラスメイトか良くても友達くらいに思っていないだろうから。


 悟に彼女が出来ただけで取り乱している、こんな女々しくて気持ち悪い僕が他人に、ましてや来瀬さんに好かれる訳がないのに。


 ああ。今の僕は駄目だ。もう、何も考えるな。思考は時に人を深淵へと引きずり込むことがあるという。絶望に足を取られてははいけない。


 ひとまずは心を落ち着けよう。


 僕は深呼吸をした。



 優君が行ってしまった。きっと親友とその彼女がキスをしようとしているのに耐えられなかったんだね。

 キス。それは極めて明白で分かり易い行為だ。結ばれた二人の、恋人の、愛を確認し合う行為。


 ふふっ……ははっ……。


 私は彼の歪んだ顔を見て背筋にゾクゾクとした快感すら覚えていた。ああ、興奮してきた。


 でも、優君がこの場を去ったほんのすぐ後、私の想定外の事態が起きた。

 

 あの二人の間でキスが交わされなかったのだ。水島がキスを迫った百合を拒絶した。二人は何か言葉を交す、いや、一方的に水島が何かを百合に言った後、百合はその場を去ってしまい水島だけが取り残された。私は想定外の事態に思わず眉を顰めた。


 危ないな……。


 もし優君がこの場を去るのがあと十数秒遅かったら……あの二人の間の違和感に優君が感づいたかもしれない。今回ばかりは本当に危なかった。だが、運が私に味方したようだ。幸い優君はこの場にいない。彼はきっと二人がキスをしたと思い込んでいることだろう。


 それにしても……。


 何をやっているんだ……あの子は。直前になってひよったのか……? 

 あの子を利用したのは失敗だったかもしれないと苛立つ。


 一人取り残された水島と目が合う。


 それは対峙だった。明らかに雰囲気が違った。


 このフロアには他にも客がたくさんいる。だというのに、まるでこの場に私と水島の二人しかいないように感じた。


「来瀬さん」


 私に声をかけてきた水島の目に映るのは私への警戒。前に少しだけ話した時はこんな目ではなかった。


 この男は何かを察して、キスを迫る百合を拒絶したのは間違いないだろう。


 ああ、本当にめんどくさい……。爪を噛みたくなる衝動をグッとこらえた。


 どうでもいいから、早く優君の心から出て行けよ。そんな本心はおくびにも出さず私は答える。


「水島君、佐藤さんは?」

「えっと……それは」


 水島は言葉を濁す。


「……なんていうかな、余計な事を言って怒らせちゃったっていうか。うん、まあ、多分そんな感じだと思う……」

「え……なんで? あんなにいい感じだったのに」

 

 私がそういうと水島の顔に影が差した。


「はぁ……ほら、何してるの?」


 溜息をついて私は水島に声をかける。


「えっ……」

「ほら、急いで。落ち込んでる暇ないから。早く探しに行くよ。私も一緒についていってあげるからさ。まあ、企画者としては二人の仲違いは放っておけないし、ね?」

 

 これは私も行った方がいいだろう。万が一にも百合が水島に絆されて事情を話してしまえば全ては瓦解する。

 優君が戻ってくる前に事態を収拾させる。百合も私の姿をみれば自分が何をすべきことを思い出すだろう。


「あの、優はどこに行ったんですか? 姿が見えないですけど……」


 百合を追いかけようと歩き出した私を水島は呼び止めた。


「ああ、灰谷君ならトイレだって、多分すぐに戻ってくるよ。場所なら後で連絡して合流すればいいし。それより今は佐藤さんを!」

「あ、はい」


 私達は百合の去っていった方に向かって早足で歩き出した。


「水島君、佐藤さんがどこに行ったか聞いてない?」

「……飲み物を買ってくるとは言ってましたけど、多分それは俺の前から離れるための建前だと思いますよ」

「なら近くの自販機を探そうか」

「……?」


 水島は腑に落ちないといった表情をする。


「建前だとしても、飲み物は買うんじゃないかな? だって戻って来たときに飲み物を持ってなかったら水島君に嘘がバレちゃうじゃない」

「いや、もうバレてますけど……」

「そうじゃなくて気持ちの問題だよ。佐藤さんは水島君には自分の内心がバレてないって思っていたいの」

「……なるほど」


 だが、近くの自販機コーナーを探してもいなかった。その後暫く辺を探してもやはり百合は見つからない。


「いないね……」

「ええ」


 本当に百合はどこに行ったのか。今すぐ場所を教えろと、連絡を送っても既読もつかない。まさか、あの子。私を裏切る気? 百合の抱く私への罪悪感はその程度ではないと思っていたけど計算違いだったのか?


 まあいい。仕方ない。今はできることをしよう。


「少し休憩しましょうか。たぶん百合もそのうちここに飲み物を買いに来るはずだし」


 まずはこの男の私への疑いを解いておこうか。どこまで知ってるか聞き出す必要もあるし。


 さて、お話しましょうか。水島君?

 

 


 


 


 


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