第14話 違和感(水島悟視点)
「ほ、ほら見て、マンボウだよ?」
薄暗い通路を水島と佐藤は手を繋ぎながら歩いている。佐藤が水槽の中を悠々と泳ぐ巨大な灰色の塊を見つけて、片方の手で指をさす。
実に初々しいカップルのやり取り。
「ああ……うん」
だが、当の水島はそんな佐藤とのやり取りを上手く楽しめずにいた。
――その原因は他ならぬ隣を歩いている自身の彼女だった。
佐藤と水島は付き合って一ヶ月弱になる。
付き合った当初、自分のことを避けだした親友の様子も気がかりではあったが、それでも水島は初めて出来た彼女という存在に浮き足立っていた。自分のことを折角好いてくれたのだから幻滅されないように頑張ろうと、気を張っていたのだった。
一緒に帰った時はお互いの緊張してしまって、ろくに話せずに帰り道の途中で別れてしまった。
そこで週末、水島は意を決して佐藤をデートに誘った。交際しておいて何も行動を起こさないのはまずいだろうと思っての行動だった。
彼女は何が好きなのだろう。初デートにはどこがいいのだろうか。何もかもが初めての水島には何も分からない。ネットで調べると、カフェが無難だ、と出て来た。そこで水島は近くの丁度よさそうなカフェを調べて日曜の午後に誘うことにした。
当初は特別な感情を抱いていなかった佐藤も自分の恋人だと思えば、愛おしくも思えてくる。水島は週末を待ち遠しく思っていた。
だが、言ってしまえば結果は散々だった。必死に考えたデートは何一つ盛り上がらなかった。佐藤は誘いには応じて着いてきてはくれたが、終始無言。頑張って何かを聞くと返してはくれるが、会話は数ターンもせずに終わってしまう。
別に会話が盛り上がらなくても、何かカップルらしい刺激的な出来事があればよかった。だが、何もなかった。彼女から感じられれるのは緊張だとか萎縮だとか申し訳なさだとか、いずれにしろ負の感情ばかりだった。
水島は意気消沈した。
お互い恋愛初心者なのだからしょうがない。高校生のカップルにはありがちなことだから。初デートはこんなものだ。そんな理屈で十分納得させることは出来ることではあった。実際水島は自分の至らなさを反省もしたし、それは事実世間一般にはありふれた事象なのだから。
だが、のれんを腕で必死に押しているような、そんな手応えのなさ。何か自分は見当違いなことをしているのではないかという不安がどうしても拭えない。
水島は今日まで佐藤に対してそんな釈然としない思いを抱えていた。
そして――
「えっと、水島君……? ど、どうしたの?」
「…………」
「ほら、あっちだよ」
「あ、ああ……」
佐藤が水島の手をギュッと引く。
そして、今回の水族館デートで水島の中に生まれた違和感は無視できないものになった。
佐藤が待ち合わせ場所まで二人で一緒に行こうと提案してきたこと。そして水族館に入るや否や、彼女の方から手を繋いできたこと。
あんなに消極的だった彼女がなぜ水族館に来た途端こんなにも積極的になったのか? 水島は当惑を隠せなかった。
考えられる要因と言えば灰谷と来瀬の二人の存在。それ以外に考えられない。今まで一緒に帰った時やデートに誘った時とは違うイレギュラーな要素。
「ねぇ、見て見て、水島君。餌食べてるよ、かわいいよね」
佐藤の視線の向こうでは飼育員がバケツから投げた餌をプールの中を泳ぐカワウソが器用にキャッチしていた。
「いいなぁ、カワウソ。でも、さすがに家では飼えないよね、えへへ……」
「…………」
沈黙を埋めるように、取り繕うように話しているのが分かる。佐藤の表情には焦りが見え隠れしていた。
「ねえ、水島君」
突然、佐藤は緊張した面持ちで唇をギュッと結ぶとこちらに向き直った。
「あ、ああ……なに?」
水島は訝しがりつつ表情を強ばらせた。緊張が伝播する。
「――き、キスしよっか」
「……っ」
水島は閉口した。
突然、何を言うのか。こういうのは段階を踏むものじゃないのか。いや、自分がおかしいのか。カップルにとっては普通のことなのだろうか。
佐藤と目が合い、心臓が高鳴る。このまま言われるがまま押し流されてしまおうか。
いや。違う。
理性が水島を押し留めた。
そんなことをしても絶対に状況はよくはならない。見え始めた綻びはいつか取り返しのつかないところまで広がるに違いない。
――だから
「なあ、無理してないか?」
そう、言った。
「……え?」
「ごめん。でも、なんか今日ずっと様子がおかしいように見えて……さ」
「そんなこと……」
「もしかして来瀬さんに何か言われてるのか?」
目を丸くしている佐藤に、言葉を選びながら慎重に問いかける。
「な、何で……?」
佐藤は喉から絞り出すようにただ短く聞き返す。
「いや、なんかずっと来瀬さんの方を気にしてるみたいだったから」
「…………」
佐藤がキスをしようと切り出す前に一瞬後ろを向いた事を水島は見逃していなかった。その視線の先には確かに来瀬がいた。
また、だ。その時水島はそう思った。水族館の入り口で突然佐藤が手を繋いできた時にも佐藤は来瀬と目を合わせていたことに水島は気づいていた。その時は引っかかりを覚えただけだった。だが今度はそうはいかない。水島の中の違和感が確信に変わった瞬間だった。
佐藤は黙り込んだ。
「……違う」
「……?」
「違うよ……。それはっ、来瀬さんにいろいろアドバイスを受けてただけで……」
「アドバイス?」
「だって、私達のことを心配して今回のことを計画してくれたって言ったでしょ。だから、水島君との距離を近づけるためにいろいろこうしたらいいとか言ってくれて……」
佐藤が呟くように言う。
「無理してない、のか?」
「うん」
「嘘だ」
「嘘じゃないから……」
押し問答。だが、佐藤の言うことが詭弁だと確信していた水島は事実を突きつける。
「――じゃあ、何でそんなに手が震えてるんだ?」
佐藤はハッと驚いたとような表情を見せると両手を咄嗟に手を後ろに隠した。酷く怯えているようにすら見えた。
「いや、ごめん。別に怒ってるとかじゃないんだ」
「…………」
張り詰めた空気を和らげるために言葉を紡ぐ。だが、既に佐藤はその表情が視認できない程に俯いてしまっていた。
「だけどさ、いくら来瀬さんに言われたからってそんなに気負わなくてもいいんじゃないかな。別に僕達のペースでやっていけばいいと思うんだ」
「……ごめんなさい。ちょっと飲み物買ってくるね」
「あっ……ちょっと……」
佐藤は小走りでその場を去って行ってしまった。去り際の横顔は苦痛に歪んでいた
ように見えた。
「…………」
水島は一人取り残される。他の客が何があったのか、と訝しげに見ていた。
やってしまった、と思った。せっかくのデートを台無しにしてしまった、と後悔した。
別に言わなくても良かったことだったのかも知れない。思ったことを全て言うことが正しいとは限らない。それくらいの分別はついているつもりだった。だが、水島はただ佐藤が何を考えているか、今何が起きているのかを知りたかった。何も知らないまま状況に流されることを水島の矜持が許さなかった。
そこまで考えて水島の中に嫌な考えがよぎった。
――本当に佐藤は自分のことが好きなのだろうか?
あの日、手紙で呼び出されて好意を伝えられた時、水島は素直に嬉しかった。異性から好意を向けられることなど生まれて初めての出来事だったから。
佐藤は来瀬にアドバイスを受けたと言っていた。察するに恐らくは自分から手を繋いでみたり、キスを迫ってみたり、と積極的にアプローチをかけてみろ。そういう内容だったのだろう。
だが、それだけであんな切り詰めたような、何かに追われているような表情になるのだろうか。
仮にそういうアドバイスを受けたとしても好意を抱いている相手ならば、少しは喜びだとか期待といったプラスの感情が見えるものじゃないのか。
だというのに佐藤からは付き合ってから終始、負の感情しか見えない。恥ずかしがり屋だから、内気だからなどとポジティブに解釈するのは無理があるのではないか。
何か。自分の知らない何かが、ある。
思考は深く落ちていく。
「…………」
いや。やめよう。
全てはただの邪推に過ぎない。自分が異性の感情に疎いゆえの思い違いなのかもしえない。少ない情報で断定するのは危険だ。
一人取り残された水島は順路の後方に目を向けた。そういえば、来瀬と灰谷はどうしているのだろうか。突然この場を去っていてしまった佐藤に戸惑っているのではないか。ならば事情を説明する必要があるだろう。
「あ、れ……?」
いない。灰谷の姿が見えなかった。
どこいったんだ、あいつ……。さっきまで数個前の水槽を来瀬と一緒に眺めていたはずの親友の姿が見えなくなっている。人混みに紛れているのかと思って見渡すが、やはりいない。
そして、その場には遠目にでも分かるほど目を奪われるほどの美少女が一人残されていた。
来瀬麗華。
思えば来瀬の存在は特異点だった。親友の前に、突然現れたクラスの人気者。そして今回のデートの計画者。なぜ自分の周りにこうも来瀬が関わってきているのか。確かに偶然の産物だと片づけることも出来る。だが、水島は来瀬に何とも言えない不気味なものを感じていた。
佐藤へのアドバイスの件を知ったことで来瀬への違和感は決定的となった。クラスでみんなから慕われている来瀬ほどの人格者が、手を繋いでキスをしろなどと、時と場合も考えない的外れなアドバイスをするのだろうか。
もしかして純粋な厚意以外の何か恣意的な考えがあったのではないか。
「………っ」
その刹那、息を飲んだ。
来瀬の恐ろしいほど綺麗な瞳が水島を射貫いていたからだ。
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