第7話 目障りな男
新学期が始まってから約一月半が経ち、六月になっていた。
私はお風呂から上がってドライヤーで髪を乾かすと、倒れ込むように自室のベッドに体を埋めた。
「へへっ……」
にへらと顔を綻ばす。既に緩みきっている顔が今日の帰り道の出来事を思い返すと、まだもう少しという具合にさらに緩んでいくのが自分でも分かる。
この頃になると委員会が一緒になったことを足掛かりにに彼と打ち解けて普通に話せるまでの仲になっていた。
きっと『ピクルス大戦争』の話を出した事が功を奏したのだろう。それまでは明らかに壁を作るような態度だったのに、あの本を話題に出してから彼の私に対する態度は軟化した。
私の思惑通りだった。
私は毎日電車で彼のことをバレないように遠目に観察していた。だから、彼がその題名の本を愛読していることはすぐに分かった。ネットで調べるとそれは書店にも置いていないようなかなりマイナーな本のようだった。
私はそれに目をつけた。彼との距離を近づけるのにうってつけだと思った。
彼にはあの本の面白さについて語り合える存在がいない。自分だけがその面白さを分かっているのだという優越感と同時に、誰かと本について語り合いたいという欲求もさぞかし大きくなっていたことだろう。
そこに、あの本に最近ハマっているという女の子が現れたらどうなるか。
「ふふふっ……」
脇に置いた本の表紙を撫でる。この本には感謝している。私と彼をつなぐ架け橋になってくれた。
図書委員のある週に一回だけ放課後を図書室で過ごして、少しだけ本について少し語り合う仲になって二週間ほどが過ぎた頃。確かゴールデンウィーク前だっただろうか。私は次の段階に移行することにした。
次は偶然を装って一緒に下校することにしたのだ。ああ、灰谷君一緒の電車だったんだね、一緒に帰らない? といった具合に。最初から同じ電車を使って登下校していることなど分かりきっているのだが、あくまで知らなかったという体を装った。
私は彼の前では愛想を振るまく優しい積極的な女の子を演じた。彼のような他人に対して心の壁を作ってしまうタイプに近づくには、こういう接し方が最適だと思ったからだ。私は自分が他人にどう見られているかよく分かっている。本当の自分をさらすこと無く偽りの仮面を被って過ごしてきた私には造作も無いことだった。
今日の帰り道もちょっと顔を覗き込んでからかってやった。優君、すっごく照れてたな。かわいい。
「優君……」
愛おしい彼の名前を呟くだけで身もだえしてしまう。
そう。全ては私の思惑通りに運んでいる。
――そのはずだった。
私の頭の中で一人の男の存在が頭をかすめた。水島悟だ。
水島は優君の友達、いやこんな表現を使うのは癪だが親友といっていい男だ。
教室でも彼と水島は常に一緒にいる。休み時間、お昼の時間そして帰り道。私が彼を見てきたこの二ヶ月間の内のほとんどの時間を二人は一緒に過ごしていた。
私は歯がみした。水島が憎かったからだ。
私のいるべき彼の隣をただ一人で独占しているからか。私の王子様と見せつけるかのごとく親しくしているからか。あるいはかつて、私の手の届かなかったものを持っているからか。それは自分でも分からない。
彼にとって水島の存在がいかに大きいか。今日の帰り道の会話でそれは決定的になった。
ひょんなことから水島の話になった。あの本を水島に貸しても自分は興味ないの一点張りで水島は読まなかったのだという。
それを聞いて私は愕然とした。私はあの本を利用してようやく優君に近づいたというのに、水島はあの本を読むことなく彼の隣にい続けている。
私は彼に水島の話を続けるように促した。すると、まだ私に緊張していたのか、ぎこちなく会話をしていた彼が途端に饒舌に話し出した。私はその間、苛立ちを悟られないようにするのに必死だった。水島は私の知らない時間を共有している。水島は彼の心の奥深くにいる存在である。その事を嫌というほど分からされた。水島の事を話す彼の横顔はどこか優しく、安らいでいるようにすら見えた。
「本当に邪魔」
許せない許せない許せない。
私の運命の人が私以外の違う人間によって形作られていることを私はどうしても許容出来ない。
親指の爪を噛む。ガリガリ。ガリガリガリ。綺麗に磨がれていたはずの爪がボロボロになっていた。
いけないな。
何か上手くいかない事があるとやってしまう私の悪癖だった。何度も辞めようとは思うもの、無意識の内にやってしまう。
このまま進んでいけば彼と彼氏彼女の関係になれるかもしれない。いや、間違いなくなれるだろう。彼が既に私に好意を持ち始めていることは彼の態度から何となく分かる。
――でも、それだけじゃあ駄目だ。
彼氏彼女なんていう関係はすぐに壊れてしまう事を゙私は知っている。私の周りでは誰と誰が付き合った、別れたなんて情報がうんざりするほどに行き交っている。きっと世間では付き合い、別れを何度も繰り返すのが当たり前なのだろう。
だが、違う。
私の求めているものはそんな脆い関係じゃない。待って待って待ち望んだ果てがそんな掃いて捨てるほどあるような陳腐な物だなんて私は認めない。
私が本当に欲しいのは決して壊れることのない鎖のような強い結びつきだ。死ぬその時まで、互いの心と体に刻みつけられた決して拭うことの出来ない結びつき。
まだ、そのためには全然足りない。
水島を排除する。
私はそう決めた。彼の心の中に存在する物を私だけにする。
だから、そのために私はまたあの子に電話をかける。
「もしもし……」
呼び出し音二回の後、弱気な声がスマホのスピーカーから返ってくる。
「な、なに? 麗華」
「ねえ、私がいつ名前で呼んでいいって言った?」
「ごめん、ごめんね……」
電話の向こうの彼女がか細い声で謝ってくる。こんな態度をされては私が苛めているみたいじゃないか。ふと、父親の暴力に従うままなにも抵抗しようとしない義母の姿がちらついた。
ああ。腹が立つ。何でこいつが被害者面しているのだろうか。お前は加害者だろうが。私は苛立ちを隠せないでいた。
「まぁ……いいや。今日頼みたいのはね。そう、あいつ……水島よ。あの男、邪魔だから何とかしてほしいのよね」
「水島君……?」
「そう、委員会決めで引き剥がしたのはいいけど、全然足りない。あの男、優君と四六時中一緒にいるのよ。見る度にいらつく」
「…………でも、だったらどうすれば」
「そうね……」
少しの間、思案する。どうすれば最も確実に水島と優君の仲を引き裂くことができるか。
「そうだ。ねえ、あんた、あいつと付き合ってよ」
「え?」
電話の向こうの相手は戸惑いの声を漏らす。
「どうせ、あんな男、アンタの方から告白したら、食いついてくるに決まってるんだから」
「そんなの……水島君に悪いよ。それに水島君のことをそんな風に言うなんて……」
「は?」
自分でも分かるほど低い声が出た。
「――お前、何、善人ぶってんだよ」
スピーカーの向こうで彼女が息を飲むのが分かった。
「ねえ、自分のしたことを忘れたの? お前は立派な悪人だろうが」
「ごめんっ、ごめんなさい……」
冷たく吐き捨てる。彼女が謝っているが、無視して続ける。彼女の心を折るように、彼女の罪悪感を煽るように言葉の刃で突き刺す。
「は? 何? 手伝ってくれるって言ってたでしょ? それとも私をまた裏切る気? 友達なんじゃなかったの? そう言ってたよね? まあ、私は友達だなんて思っていないけどね」
「ごめんなさい、ごめんなさい。やるから、許して……お願いします……」
その言葉を聞いて私は溜息をつく。最初から従ってればいいんだよ。
「はぁ……なら、明日手紙でも出して告白しなさい分かった?」
彼女が小さく頷くのをスピーカーで確認すると私は一方的に電話を切って再びベッドに倒れこみ、白い天井を見つめて一人呟いた。
「優君、君には友達なんていらない。私がいればいいの。ねえ、そうでしょ?」
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