第9話 告白(水島悟視点)
翌日、いつもより早く登校した水島は教室の自分の席で席に突っ伏すと、ただ教室で話すクラスメイトのざわめきに耳を傾けていた。
「おはよう、悟、珍しく早いな」
「……ああ、おはよう」
よく知った声をかけられて顔を起こす。親友の灰谷優だ。灰谷は電車で通学しており、水島よりは前に登校してくるのだ
自分にかけられた声はまるでいつもの親友と変わりないようだった。
――俺はこんなにもお前のことで気を揉んでいるというのに。
「あのさ」
「ん?」
――来瀬さんとはどういう関係なんだ?
そう聞こうとしたが、途中で喉につっかえてしまった。
昨日、水島は自身が図書室で見てしまった光景を思い出す。図書室で目の前の親友が来瀬麗華と楽しそうに話していた、あの光景を。
水島は真意が知りたかった。あわよくば、あの時は偶々そういう風に見えただけで別に来瀬さんと仲良くなんてない、という言葉を期待していた。
昨日の心臓を打ち抜かれたような気持ちを水島はずっと引きずっていた。
水島にとっては青天の霹靂のような出来事だったのだ。どうせ優のことだ。緊張して誰とも打ち解けられず 何なら一緒に仕事が終わるまで話し相手になってやろうかな。そんな事を考えつつ図書室の扉を開けた瞬間に、水島は哀れなピエロに成り下がった。
ショックだった。裏切られたような気持ちにすらなった。
自分勝手な気持ちの押しつけだということは分かっていた。それでもこんな思いを抱えてしまうのは、親友が自分の知らないところで学年で人気の女子と仲良くしていたことに嫉妬しているからだろうか?
いや……水島は否定する。
多分それよりも、親友との今までの関係が変わってしまいそうで恐ろしかったのだ。他に友達がいなくても恋人がいなくても、学校生活が充実してなくてもお互いがいればいい。そんな今まで関係性が来瀬麗華という存在によって簡単に壊れる、それが恐ろしくてたまらなかった。いや、あるいは強固なものだと信じていた関係がこの程度で壊れる陳腐なものだったと認めたくないのかもしれない。
いや、こうして遠慮をしている時点で今までの関係性は既に崩壊しているのかもしれない。ふと、そんな絶望的な考えが囁いてくる。やめろ、そんなことはない、まだ何も壊れてなんていない、水島は必死に自分に言い聞かせる。
「おい、どうした?」
灰谷が何かを言いかけて止めた水島を訝しげに見ている。
でも、仮に優に恋人が出来たら自分はどうするつもりだったのだろうか、ふと水島は考える。もし灰谷の優しさに誰かが気づいて、灰谷もそれを受け入れるようなことがあったら自分はどうするのか。
今まで考えたことすらなかった。恐らく、その時は親友ならその恋路を祝福するのが正しいのかも知れない。よかったな、そう言ってやるのが正解なのだろう。
でも、今の自分にはそんな心の余裕はないみたいだ。器の小さい人間だな、と水島は自嘲した。
なあ、お前は知らない間に先に大人になって自分の手の届かない所に行ってしまったのか?
水島は自分の席の前に手をついて立っている親友を見やる。
そして――
「いや、何でもない。忘れてくれ」
絞り出すように言った。
「えっ、何、気になるんだけど……」
「いや、本当に何でも無いから! めっちゃ、くだらないことだったから。この話は終わり! それより優、英語の宿題だけどさ、ちょっと分からないから見せてくれね?」
水島は話を打ち切り、話題を強引に転換した。上手くいつも通りに取り繕えてるか不安に思いながら。
しばらくして、担任が教室に入って来たのを見計らい灰谷は水島の席を去っていった。
「じゃあ出席は……遅刻者、欠席者はなしと」
担任がいつものように気だるそうな態度で出欠を取るのを聞きながら、水島はおもむろに今日の授業で教科書を全て机に整理し出した。普段はこんなことはしない。だが、今は手を動かして心を少しでも落ち着けたかった。
机の引き出しの中を片手でガサゴソ漁っていると、妙な物が入っていることに気がついた。
「手紙……」
それは手紙だった、可愛らしいピンクの便せんが折りたたまれて置いてあった。
心臓が跳ねる。なんだこれは……。
とにかく開けてみよう。
周囲を見渡してだれにもそれを見られないように注意しながら、丁寧に折りたたまれたそれを手に取り開いた。
『放課後に特別教室棟の空き教室に来て下さい 佐藤百合』
手紙にはそれだけが書いてあった。
佐藤百合。それは水島と学級委員を共にする女子の名前だ。異性との関わりのほとんどない水島にとっては最も接点の多い女子だった。
異性からの手紙というだけで、心が高鳴った。
佐藤さんが俺を呼び出す? どういうことだ? 学級委員の仕事に関係することか? だとしても、どうして空き教室にまで呼び出す必要があるのか? 空き教室まで呼び出す意図。普通に考えれば誰にも知られたくないからだ。だが、全く心当たりがない。
まさか、告白? いや、まさか俺に限ってそんなはずはない。友達といえば優くらいで教室の端っこにいてクラスでも目立たないこの俺が? いくら自分に都合よく解釈しても、とても急に女子に告白されるだなんて思えない。第一、佐藤さんとは同じ委員会だが事務連絡以外でほとんど話したことすらない。
頭の中に浮いた都合のいい妄想を必死に打ち消す。
水島は手紙を鞄の奥底にそっとしまい込むと、緊張と期待を必死に隠しながら一日過ごした。
*
放課後になった。
「おい、悟。帰ろう」
「……俺放課後は用事あるから、今日は一緒に帰れないわ。ごめん」
嘘だった。あの手紙の呼び出しに応えるためだ。手紙のことをどうしても目の前の親友に打ち明ける気にならなかった。
それは水島にとって一種の仕返しのようなものだった。親友は自分に来瀬麗華と距離が近づいていることを言わなかった。ならば、自分だってこのことを言う必要はないだろうと水島は考えていた。そうでなければ不公平ではないか、と。
「また、学級委員だからって雑用やらされるのか? 大変だな。ホント同情するよ」
いつもと変わらない様子の親友は水島の考えていることなど、一寸も知らないようだった。
「あ、ああ。まあな」
「じゃあ、今日は先に帰るよ」
「悪いな、優。じゃあな」
親友が鞄を肩にかけて教室を去って行く後ろ姿を見届けると、肩の荷が少し下りたような気がした。
ふと、教室を見回す。佐藤はすでに教室にはいなかった。
「……行くか」
水島は自席から腰を起こして、特別教室棟へと向かった。
特別教室棟は中庭を挟んで教室棟の向かい側、音楽室や美術室、化学実験室等などのある建物だ。教室棟から特別教室棟へと続く廊下を歩いていくに従って、生徒達のざわめきが遠ざかっていき、更にそれと反比例するように心臓の鼓動は高まっていく。恐らく音楽室で吹奏楽部が練習を始めたのだろう、上の階からかすかに聞こえる管楽器の音だけが唯一の救いだった。
特別教室棟二階。化学実験室や物理実験室などを通り過ぎて、突き当たりの部屋にたどり着いた。手紙の情報は少なかったが空き教室といえばここだ、と水島は確信していた。授業でもほとんど使われることなく、どこの部活動の活動場所でもない場所はこの部屋くらいだ。
部屋開けるとは窓際に佐藤は立っていた。外は曇り空で電気もついていない部屋では、ほとんど佐藤の表情はよく見えない。
「水島君」
「は、はい」
「あ、あの……手紙読んでくれましたか?」
「はっ、はい」
たどたどしいやり取りが続く。
「そうですよね……だから来てくれたんですよね。何、言ってるんだろ私……あはは」
様子を見れば佐藤の方も緊張しているのは明らかだった。だが、それ以上に緊張しきった水島には笑い返す余裕はなかった。
「えっと、水島君に伝えたいことがあって……」
スーハーと深呼吸をする。
「私と付き合って下さい」
まさか、と思った。まず最初に聞き間違いを疑った。水島は目を丸くする。
「す、好きなんです。み、水島君のこと」
時間が止まる。身動きを取ることも声を出すことすら許されない気がした。
「あっ……えっと……」
何か言うとするが思考がまとまらずに口を閉ざした。数秒の沈黙が数時間のように感じられる。
「あの……返事、してくれま、せんか?」
佐藤は水島を上目遣いで見つめた。
「えっと、その……」
どうしたらいいのか。
水島は自分が告白されることなど考えたことなどなかった。水島は色恋沙汰に無縁な男だった。他人を好きになるなんて、無益な行為だと予防線を張っては意図的に恋心というものを忌避してきた。恋愛をしている人間をひねくれた目線で見ては会話のネタにしてきた。そんな自分が今更恋愛なんて、というある種のプライドが今この瞬間の水島の首を苦しめる。
それに、水島は佐藤のことが異性として好きな訳ではなかった。ならば断るのが誠実なのではないか。
いや。
脳裏に昨日の図書室での光景がフラッシュバックした。どうして自分は親友が異性と親密になることに、あそこまでの忌避感を感じたのだろうか。 親友との関係が崩れるのが怖かったから、というのも間違いではない。だが、その根底にある願望はきっと違う。
ああ。今になって気づいた。
自分も本当は恋愛をして、異性を好きになって、手をつないだりデートしたりして見たかった。恋の歓びを知りたかった。ひねくれたようなことを言って本当は羨ましかっただけだったのだ。
異性から手紙を貰い、告白されて浮き足立っている今の自分の有様が如実にそれを証明していた。
何重にもなったプライドの柵の向こうにあったのは、思春期の男にはありふれた実に単純な願望だった。
水島は自分のちっぽけさを認めた。
そして今、手を伸せば、自分の求めていたものが手に入るかもしれない。
ならば――
「……俺でよかったら、お願いします」
水島と佐藤はこの日から付き合うことになった。
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