第3話 どうか降りてきて

きっと不可抗力だった。

例えば、林檎が地面に吸い付くように。

S極がN極にくっついて離れないように。

どんなに回そうと方位磁針が北を指すように。

磁界の中に岸本るりという人間が入り込んでしまった以上、私は目を反らせない。

私の人生は彼女と出会った以前・以後で分かれている。

指の隙間をすり抜ける磁力は取り払えないから、生涯私は取り憑かれる運命にある。



𝟤𝟢𝟤𝟢/⃨𝟩/⃨𝟤𝟢 午⃨後⃨𝟩時⃨あ⃨た⃨り⃨

繧⃨九⃨°⃨ち⃨ゃ⃨ん⃨と⃨ケ⃨ン⃨カ⃨し⃨て⃨、⃨い⃨た⃨か⃨っ⃨た⃨け⃨ど⃨、⃨中⃨学⃨生⃨の⃨お⃨姉⃨さ⃨ん⃨が⃨助⃨け⃨て⃨く⃨れ⃨た⃨!⃨


正直なところ、当時のことはあまり覚えていない。4年前で私は小学生だったのだから当然だ。当たり前のことのはずなのだ。

 あの日。人生で初めて友達と喧嘩をして、帰るに帰れない状況になった。真夏の助けもあって日は出ていたものの、19時を回った頃には影も地面に溶け込んで、団地の黄ばんだ電灯だけが私たちを見下ろしていた。

門限をとうに過ぎても帰れない。友達も譲らなかったので私もどうしていいかわからなかった。今思えば、とっとと謝って逃げればよかったものを。

一生その場から、公園から動けない気がして慄いた。

非日常に当てられて、無限のテーマパークから抜け出せなくなった私は泣き出した。

 その時、紺色のセーラー服を纏う天使さまが現れた。瞬く電灯の下で私と目線を合わせ、懺悔を聞き入れる彼女はまごうことなき天使の類だった。

鼻水を詰まらせ垂れ流す、泣きじゃくりながらの自白は聞き取りずらかっただろうに、うん、うんと相槌を打ち背中を摩る。

均整の取れたすらっと長い手足。無垢な少女の象徴である紺色プリーツがよく映えて。

胸元の朱のリボンにさらりと流れ落ちる、濡れ鴉の黒髪。空気の隙間を縫い、神経を介さず脳にそのまま届ける言葉。

色素の薄いグレーの目ん玉が自分の瞳の奥を見通しているようで、少し尻込みしてしまった。

きっとどんな嘘も彼女の前ではなんの意味もなさない。この世の全ての事象は彼女の手の中で、14才の皮を被ってこの地球の何億年を知っている気がした。

私はその日、初恋というものを知った。


 程なくしてお姉さんとの再会は果たされる。季節が一コマ進められた銀杏香る秋頃のことだった。

卒業間近の引き取り訓練にて親に迎えにきてもらったあと、兄のいる中学についていった。知らない校舎に自分より一回りも二回りも大きい中学生がひしめき合う中で、見知った顔があった。

天使は兄と同級生だった。

環月たまき、私隣の席の女子知ってる」

「ああ、岸本?」

「岸本さん?岸本なにさん?」

「岸本るり。前言ってた生徒会長だよ」

「生徒会長なの!?優等生じゃん....」

「なんなんお前」

一夜の夢のごとく現れ消えた天使は今も人の形をしていた。

岸本るりさん、私の人生は彼女に出会った以前・以後で別れることとなる。

中学2年生のるりさん、合唱コンクールで伴奏してた。

中学2年生のるりさん、期末テストの英語で学年トップを獲った。

中学2年生のるりさん、自転車通学に切り替えた。

中学2年生のるりさん、腰のあたりまで伸ばした髪を切った。

中学3年生のるりさん、制服を買い直した。

中学3年生のるりさん、生徒会選挙で当選した。

中学3年生のるりさん、部活を引退した。

中学3年生のるりさん、友達関係が崩れた。

中学3年生のるりさん、また髪が伸びてき

た。

中学3年生のるりさん、家の鍵を無くした。

中学3年生のるりさん、両親がギスギスしてきた。

中学3年生のるりさん、身長が止まった。

中学3年生のるりさん、笑顔を人に振りまくことをしなくなった。

中学3年生のるりさん、成績が下がってきた。

中学3年生のるりさん、第一志望校に落ちた。

中学3年生のるりさん、顔にあざを作るようになった。

中学3年生のるりさん、卒業と同時にクラスLINEから退会した。

高校1年生のるりさん、生徒会で当選した。

高校1年生のるりさん、父方の祖母が越してきて二世帯住宅に改装した。

高校1年生のるりさん、父親が単身赴任にドイツへ向かった。

高校1年生のるりさん、特進クラスに振り分けられた。

高校1年生のるりさん、服のサイズが変わった。

高校1年生のるりさん、インスタを始めた。

高校1年生のるりさん、ヨーグルトにハマり出した。

高校1年生のるりさん、カーテンの色を変えた。

高校2年生のるりさん、下駄箱に鍵を閉める癖をつけた。

高校2年生のるりさん、スマホの検索履歴に化粧関連が増えた。

高校2年生のるりさん、スカートを折るようになった。

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん

るりさん?

るりさん?


高校2年生のるりさん、男と電話する機会が増えた。

高校2年生のるりさん、乗り換えの電車を変えた。

高校2年生のるりさん、寄り道が増えた。

高校2年生のるりさん、ボディケアに気を使い出した。

高校2年生のるりさん、男を家に招き入れた。

高校3年生のるりさん、私の先輩になった。

高校3年生のるりさん、男に汚された。

高校3年生のるりさん、

るりさん!!!



四年ぶりに顔を合わせた彼女はあいも変わらず魅力的だった。

深みを増したグレーの瞳は髪と同じ艶やかな黒で縁取られていて、微笑む度に儚く揺らぐのが堪らない。

形のいい唇で紡がれる言葉の一粒一粒は音ではなく直で脳髄に伝えてくる。

思わず賞賛の声をあげれば、頬を蒸気した朱色で染め上げ、黒髪とのコントラストで目眩がしそうだった。

筆にも言葉にも尽くし難い美貌だけれど、ジワジワと肌から感じる触れてはいけない不可侵の美しさが消えつつあった。画面越しでない生身の彼女は、あまりにも人の形をしていた。

そして何より、女の香りがした。

私はすぐに勘づいた。やはりあの男、田島直樹に汚されている。私たちに隙間を作る2年の間に、汚されている。

あの日の天使はどこにもいなくなってしまった。岸本るりは人間に引きずり降ろされてしまった。


なんで?


私は激しく後悔した。なぜ気づけなかったのか。家にも出入りして、行動を監視して。天使の全てを把握した気になっていた。

同じ空間で息を吸って初めて、私は彼女を知ることができた。

なら私は?

彼女にとっての私は?

きっと彼女の人生の一万分の一にも満たない。記憶の中の掃いて捨てるほどのノイズ。

気づいた時には、もう、駄目だった。

4年間もの間、彼女に気づかれることなく干渉し続けたと言うのに一夜にしてぶち壊した。

私のうちに秘めた滲み出る欲とともに、公衆の面前でぶち撒けた。その場に私はいなかったけど、きっと彼女は絶望してくれただろう。岸本るりは神でも天使でもなんでもない。当たり前で考えることさえしない当然の事実が私には耐え難かった。

もう撮り溜めた写真も音声データも意味をなさない。彼女を知ってしまった。

どれだけもがいでも掴めなかった彼女を、たかが付き合って2ヶ月のどうでもいいやつに、薄汚い人間の皮に加工されてしまった。


軸の安定しない足取りで危うい彼女を見ても、何も感じなかった。

いつもと同じようにつけた。

めくるめく四年間を思い返しながらだんだんと彼女の影に近づく。

安蛍光灯に照らされる彼女はまごうことなき人間だ。後光も差さなければ自分の足で歩いている。

安っぽく薄暗いスポットライト。無駄に作りのいい顔をしているせいで、売れない舞台役者のようだ。

消音モードの住宅街は衣擦れの音すらないものにしてしまう。私は至って冷静だ。

現実すぎて、夢みたい。


本当は、本当は殺してしまうつもりだった。

けれど骨が見えてしまいそうなほど深い本音で抉りあい、醜い彼女の人間たり得る一面をまじまじと見せられて、その胸の中に抱こまれたら。

あまりに酷くて、押さえつけてきたものが溢れて止まらなかった。

なんでかわからない。何がわからないかもわからない。ただ絶対的な正解を教えて欲しくて、筋が収縮し涙の味がする口角を必死に持ち上げた。


先輩、もしあなたが天使でいてくれたら。


捻り出したくて堪らなかった問いかけを最後の最後で飲み込んだ。

「先輩ぃ、

 もし、もし直樹先輩と出会う前で、

 もし私が男だったとしたら、先輩は私を選んでくれてましたか?」

「どうだかなあ、佳山、私はあなたがわからないよ」

歪む視界の手前で、ああやっぱり彼女は人間なのだなと安堵した。

私はどこかでこうなることを切望していたのかもしれない。

崇めるだけ崇めて、自分と同じ場所まで落ちてくるのを虎視眈々と狙っていた。

私と同じ目線で、私を見て欲しかった。


「先輩、私が置いた花瓶見ました?」


花言葉なんてはなから信じてない。

植物に身勝手に意味を押し付ける愚鈍な商人のやり口だ。

けれどもこんな秘密、人間の私には抱えきれなかったから。

生涯枷になって私を蝕んでいくはずだから。


「うちで育ててるんです。結構繊細な花なんで、大変なんですけど。

 先輩、また贈りますね」


貴方に小分けにして送り続けようと思う。

贖罪になんてなれないけれど、あなたの今生の淵で思い出してはくれないだろうか。

その時まで、送り続けるから。

ねえ先輩。

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贖罪の初恋草 雨岸かわず @Anzu-amagisi

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