第2話 紺のプリーツに左手絡めて

湿気の多さに髪がごわついた。車の水溜りを散らす音が授業を妨害する。カビっぽい匂いが校舎に充満して、上履きを湿らせた。

私は梅雨が嫌いじゃない。外界から遮断され教室の雰囲気がくっきりと輪郭を保つ。この独特の空気感が、嫌いじゃない。

 5時間目の自習時間。本を読むパフォーマンスをする私は、下の階の愛人に想いを馳せた。彼女の癖のある栗色の髪は湿気で広がる。今頃、抑えても抑えても踊るボリュームに溜め息をついていることだろう。

 私の愛人____佳山玻月とは一昨日浮気契約を交わした。ストーカーであった彼女と、彼氏持ちの私。互いのこれからの意見はお世辞にも誠実とは言えない代物だった。


私は佳山のことを愛している。けれどそれ以上に直樹を諦められないのだ。一晩悩んだ末、折衷案として浮気を持ちかけた。

佳山は激しく反対した。自分が最低である自覚はあったが、何もそこまで言わなくとも。

途中、刃物も飛んできた。

 およそ2時間に渡る話し合いの中で、浮気契約は締結された。


一 表向き私たちは先輩後輩の関係である。

二 あくまで直樹と付き合っている状態とする。直樹から関係終了を言い渡されるまで、本命をこちらとする。

三 浮気契約があり限り私と直樹は性交渉をしてはならない。

四 契約と引き換えに、私は佳山を通報してはならない。



第4条。これは私から持ちかけた条件だ。これを切り札にしてしまえば、佳山は身動きが取れない。万が一通報なんてされたら、交際どころではないからだ。私は鼻から通報する気なんてなかったが。


 雨足が強くなってきた。窓を叩く水圧もどんどん大きくなってきて、サッシに水が貯まっている。その場しのぎで雑巾を詰めた。

教室に残っている生徒は半数ほどになっていた。ここまでくると会話も少なくなってきて、教室の空気にも多分に雨水が含まれている気がした。

担任の貧乏ゆすりが空気を萎縮させ、蓄えられた雨水が冷えて首筋を伝う。


「岸本先輩はいらっしゃいますか?」


そんな地獄の空気を正面から切り捨てる猛者がいた。彼女だ。


「おい岸本、一年が呼んでるぞ」

「はい、今行きます。」


浮かれた足音を悟られぬよう消した。

あくまで業務で関わる後輩と連絡をするように。


「どうしたの佳山さん」


「会議室で探したいものがあって。会長もきていただけませんか?」


いかにも営業スマイル。私も同じ対応をしているのに、いけすかない気持ちになった。


「もちろん。ちょっと待ってて。



先生、私このまま会議室によってから帰ります。」


「おう。遅くなるなよ」


「佳山さんいこっか」


努めて冷静に。私たちを結ぶ距離は1m。とても恋人同士には見えない。

老朽化する校舎は階が違くとも同じ棟というだけで足音が響く。ゴム張りの廊下はところどころ剥げていて足元が悪い。

この時ばかりは歴史ある学校が恨めしかった。

 佳山の一歩後ろで着いて回った。

北棟一階の会議室。それだけで私は膝を擦り合わしてしまいそうな妙な興奮を覚えていた。

確かに佳山は“会議室”に用がある、と言った。先生の耳にも届いていたであろう。

きっと生徒会で使用される南棟二階の会議室だと考えるはずだ。物置と化し放置されている空き教室だなんて、思いもよらない。

立て付けが悪いのか、指先を白くして扉をスライドさせる。

内鍵をひねった。


「だーッ疲れたーー」

「お疲れ様」


佳山は脱力したようにその場にしゃがみこんだ。彼女のつむじがよく見える。なんだか見てはいけないようものの気がして、目を逸らした。この教室はブレーカーが落とされているので電気すらつかない。机には埃が被っていて、誰かが指でなぞった跡があった。

風通しも悪く、湿気が溜まっている。

雨粒が窓を打ちつけた。雨の激しさに外の景色が目視できない。


「先輩、呼び出して早々申し訳ないんですけど帰りません?2人で」


「この嵐の中帰るの?傘持ってるの?」


「持ってたらとっくに帰ってます!2人で濡れて帰りましょ?」


「ええー...」


いいじゃないですかと頬を膨らませる彼女が可愛いらしくて、距離を詰めた。

一歩二歩。

あと5cm。

「先輩、帰りましょ?」

寸前でかわされる。忸怩たる思いに駆られて、気づけば1人でに昇降口へ向かった。

上履きを適当に放って、踵を潰したままスニーカーを履いた。

頭皮から被る冷水の感覚に肩が跳ねる。

「待ってくださいよ先輩」

私を取り囲む豪雨の層の向こうから聞こえる佳山の呼びかけ。口を開く気にはなれない。

スポーツ用の通気性に優れたスニーカーはいとも簡単に水没した。着衣が水を吸って重い。触れる雨粒は冷たいのに蒸し暑さは変わらなくて、舌打ちをしてしまいそうになった。変わりに親指の爪を噛む。

「先輩、綺麗な爪が割れますよ」


佳山は口を合わせてきた。舌が絡む深い深い口付け。

この時ばかりは雨音しか聞こえなかったが、佳山が私の耳のあたりを挟み込むようにして手を頬に添えた。

その手も雨に晒されてぬるついている。

丁度いい不快感がとてつもない興奮を煽る。

お互いの唾液を口内で流し込んで、顎を伝った。それも雨が流してくれる。

最後は舌を包み込むように舌で覆われて、強く吸い上げられた。

四肢に強烈な刺激が走って、腰が抜けそうになる。

「そんな目で見ないでください。誰もいませんし、誰も見ていませんよ」

垂れ目で丸い彼女の瞳が劣情に濡れていて、とてつもない色気を振り撒いていた。

「...わざわざ雨に濡れようだなんて可笑しな事を言うと思ったら、これ目当てだったのね」

できるだけ非難の意を眼光に乗せて真っ直ぐ見つめた。

「先輩だって、会議室でしようとした癖に」

先刻私の中を犯した口で、幼い声色が発される。その不自然さに足の指が疼いた。

彼女の冷たい手が私のスカートをなじる。

プリーツの一つ一つを触れるか触れないかの瀬戸際で、なぞる。その動きがいやらしく写って、その手を引っ叩いた。


「先輩ったら、酷い」


「うるさい。」


「ひどーい」


雨音が私たちのやり取りを掻き消してくれるようで、どんな秘め事もなかったことにしてくれそうだった。

 できるものならそうして欲しい。

こんな行為に意味があるのか。仮に互いを愛し合って社会的に認められたとて、その先に何があるのか。命のやり取りは生まれない。

これは種の保存に囚われた卑しい考えだろうか。だったら純愛の皮を被った佳山の方がよっぽど文明人らしいというのか。


「あなたって快楽主義がすぎるのよ」


自分に向けた凶器をそのまま佳山に突き立てた。


「また難しいことを言いますねぇ

 私をここまで仕込んだのは先輩ですよ」


「私、初恋草の事忘れてないから」


あの花は私達にとって贖罪の象徴だ。


「私だって忘れてませんよ

 明日には渡しますから」


罪悪感を帳消しにしてくれる純潔の花。


「青色がいい」


「わかってますから。先輩の事は私が誰よりわかってます。」


「あなた、私にいくつ仕掛けてるの」


「何をですか?」


佳山の、母が聞き分けのない子供を諭すような口調が鼻についた。


「盗聴器」


雨足がこれでもかと強まる。虎の尾を龍の逆鱗を自分から踏むにいくようなものだった。


「いくつ付けたの。」


「先輩は頭が悪いですね。言わなくてもいいことを」


素早く胸ぐらを引き寄せられた。首が嫌な音を立てて項垂れる。

緊張感に体が硬直して、冷えた体温が首筋を這う感覚を覚える。

じわじわと根を張るように視線が巡った。

手は首周りのシャツを弄って、離れていく。

「1番近いのは外してあげました。今日はこれで納得してください。」

彼女の2度目に聴く、抑揚のない無機質な声。

途端に自分の拍動が主張しだした。動揺を悟られないよう、軽く深呼吸した。


「明日、初恋草忘れないでよね」


精一杯の抵抗だった。


「焦らなくても大丈夫です。あなたには私のできる最大限を注ぎますから」


手足が冷えて痛んでいた。私の痛覚を麻痺させる彼女の声色は完璧にコントロールされていて、全てを掌握されそうな恐怖が染みついた。


まだ、彼女は満足していない。

予測できない不審行動に潰されないよう、折りたたみ傘を広げ、家路を辿る。

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