贖罪の初恋草

雨岸かわず

第1話 贖罪のハツコイソウ

おかしい。絶対になにかおかしい。


岸本るりは夕暮れどき陽が差し込む角部屋の中で、確信めいたものを感じていた。

その手には半開きのスクールバッグ。

学生らしく整頓された鞄の中に、参考書、ルーズリーフ、数多の教材。

無駄なものなど一切ない。生徒会長という肩書きにふさわしい佇まいだった。


「絶対おかしい....」


端からみれば彼女のイメージ通りであるはずの鞄は、本人にしかわからない異常性を放っていた。

単刀直入に言おう、整い過ぎているのである。

そもそも彼女はズボラと呼ばれる部類だ。鞄を整頓することなんてあり得ない。いつのものだかわからないプリント類がところ狭しと底を占領していて、財布から零れた小銭が散乱している。スマホを探すのにも一苦労で、正直汚い。

それがどうしてか一人でに整頓されているのだ。あり得ない。


「ねえ直樹、私の鞄触った?なんか中身変わってるんだけど。」

「いや触ってないけど。お前私物漁ったらブチギレんじゃん」

いやまあ当然だけど。

「だから聞いたんだよ」

「てか今日お前ン家親いる?今日ヤらね?」


最後の一言は無視した。それにしても彼氏である直樹が触ってないとなると、誰がやったのだろう。鞄は5時限目には前の状態だったのに。

生徒会での委員会報告を済ませただけでこんな事になっていた。


もしかして。



「ね?聞いてンの?」

「ああ、ごめん何?」

「だから、今日ヤらないかって」

心臓の奥あたりに異物がつかえる音がした。

「あー....ごめん、気分悪いからやめとくわ」

「めんどくさ」


いい、先に帰る。


直樹はそう残して教室を抜けてってしまった。脱け殻のようになった部屋の中夕陽が傾き、安い蛍光灯が目の端で瞬く。

私は心のどこかで安堵していた。

 直樹とは付き合って2ヶ月になる。3年に上がりクラスが別れても、私達の仲は変わらない。そんな生易しいことをつい2ヶ月前考えていた。

現実は残酷だった。受験を理由に会うことも減って、目を合わせるのは月一の生徒会だけ。そんな限られた逢瀬のなかで、口を開けばヤらせろと。

もう私達恋人の仲は破綻していた。彼から告白してきたはずなのに、気づけば私が彼に縋りつく形になってしまった。


手元の寂しくなった鞄を眺める。

もしかして。

「ストーカーかな」

直樹以外から向けられる関心なんていらない。

私にとって鞄が何者かに荒らされている事実より、この緩慢な関係に果てはあるのか、そっちの方が大事だったのだ。







まただ。また鞄が荒らされている。

今朝返された小テストが消えている。それだけじゃない。

使用済みハンカチはおろか、家の鍵がないのだ。

初めて鞄が整頓されたあの日から6日経った。翌日は鼻をかんだティッシュが、2日後はお気に入りのシャーペンが、3日目はリップクリームが。

1週間近くたって家の鍵にまで発展するとは。気色悪さも去ることながら、少し感心してしまった。いつ私の鞄を漁っているのだろう。なるべく手放さないようにしているのに。


「まあたストーカーさんですか?」

可愛い後輩が恋バナでもするかのように、語尾を持ち上げた。

「そ、今回は家の鍵だよ。さすがに警察かな」

「きも..先輩愛されてますね、一途じゃないですか...」

「その愛の向けかたさえ正しければ純愛なのにね」

佳山は垂れ目の縁を歪ませて、いかにも"気持ち悪い"といった表情をして見せた。と、思えば花の綻ぶような笑顔をつくる。フワフワの色素の薄いショートヘアを揺らして、同じ色の太眉を下げた。純朴そうな、可愛いけど決して派手じゃない顔立ちは彼女の表情をよくうつす。強張った筋肉もほぐれる気がした。

私は彼女のくるくる変わる表情が好きだった。特にこの話題の時、彼女は楽しげに口角を持ち上げる。ストーカーは気持ち悪いけど、話題作りに貢献してくれるのはありがたい。

「鍵はちょっとなあ、いや、まだいけるか....?」

「先輩まずいですよお、襲われても知りませんから」

「それはないって。」

「ほんとほんと!てか、この話直樹先輩にはしたんですか?」

直樹、という単語が入ってきて、鼻を引くつかせるような物悲しさが走った。

「...まだ」

「えーッ早く守ってもらえばいいのにぃ、心配しますよ」

直樹は私を守ってくれるだろうか。もはや体しか繋がっていない私に。

上がっていた頬がなだらかに落ちる。

「直樹先輩、紳士だからなあ、あ!!私、先輩たちが駅でデートしてるの見ちゃったんですよ!先週の日曜日!無印でのお会計スマートでしたね!!」

日曜日?私はその日どこも出掛けていない。

佳山は興奮したように早口で喋り続けた。

「直樹先輩が岸本先輩の腰に手を回したとき、ドキドキしちゃいましたもん!いいなあ憧れちゃう!!」

そんなの、知らない。

「ストーカーさんも一途ですけど、直樹先輩はその倍、先輩を愛してますもんねえ、きっと守ってくれますよ」

「そうかなあ.....ッ」

声が掠れた。最後の方は涙声だったかもしれない。

「そうですよ、大丈夫。ストーカーさんなんて倒してくれますよ。

 だから先輩、泣かないで。」

佳山は声を殺してぼろぼろ涙を溢す私を、私の背中を撫で続けてくれた。

この手が直樹のだったらなあ。





赤い折り畳み傘を片手に通学路をたどった。雨雲の立ち込める6月の空には、早朝の清々しさはない。なんなら昨日の黄昏時のほうが明るかったのではないだろうか。

ヴーーッヴーーッ

スカートの右ポケットから断続的に携帯のバイブレーションが響いた。

さっきからずっとこの調子である。でも開けない。

おはようございます、とよそ行きの笑顔を浮かべて品行方正に見える歩き方。

教室へと続く階段を踏みしめる。

何時間にも感じられる瞬間であった。女子トイレに駆け込みすぐさま電源を入れた。

通知の数251件。

《るり起きてる?今ヤバイことになってるよ》

《2組どうしたの?祭りw?》

《黒板のあれって岸本の自演?》

《るり大丈夫?》

いろんな界隈の知り合いから受信するLINEはいまだにとどまる事を知らない。

全て目を通すことはできない。

さっきまで落ち着きを払っていたのが嘘のようだ。

手足の感覚が鈍くなり、背筋に冷たいものが走った。顎のあたりが心もとない。

スマホを乱雑に詰め込み、駆け出した。

昨日静かさを湛えていた廊下は、3年2組の前だけ人だかりができている。

7組まで続く長い廊下に足音を響き渡らせる私をみて、教室に向いていた人々の意識がこちらを向いた。

誰も何も言わなかった。


「失礼しまあす」

身体を縦にして人混みの隙間を縫うように教室に入る。

奇異の目を向けられていたであろう黒板には、びっしりと私の写真が並んでいた。カメラ目線の写真はひとつも目線ない。一目みて盗撮写真だとわかる代物だった。

周囲が静まりかえってこちらを伺っている。

私はというと、混乱と気味の悪さに動けなくなって、喉奥から酸っぱいものが込み上げる気配を感じていた。

階段を上る私をローアングルで取った写真。お弁当を口に運ぶ私の写真。友達に笑いかける私の写真。自宅でスマホをいじる私の写真。私の入学式の写真。

カーテンで仕切られシルエットとなった、直樹に跨がる私の写真.....

クラス集合写真も混じっていたが私の顔周りが赤いペンで囲われていた。

一枚一枚が隣と重なるようにして、マグネットで貼り付けられている。

「きも....」

私が言ったのだろうか。いや誰が呟いたのだろう。やけに他人事に伸びた声だった。











あの黒板は遅れて教室に来た担任によって、学級裁判にかけられることとなった。ただ学級委員を前に立たせて、誰がやったのかと問いかける。まるで小学校での犯人探しのようだった。黒板のインパクトが強すぎて気がつかなかったが、[岸本るりへ]というカードとともに、青い花が教卓に飾ってあった。

明らか異質なのに対応の浅い学校側を責める気にもなれない。

先生は形だけのお叱りをした。声だけ荒らげ内心保護者説明会のことを考えている。

その間私は聞こえる声全てが左から右に流れてしまって、もうなにがなんだかわからなくなってしまった。ただ、俯き垂れた前髪の隙間から、直樹が退屈そうにペン回しをする姿だけ捉えた。

 共働きの両親は私を迎えにいけるはずもなく、直樹さえ送ろうとしない。

こうして今日も一人、夜道を歩いている。

しんと夜の帳が降ろされて、閑静な住宅街を寝かしつける。

瞬く古い街灯に影が伸びる。影は2つ。

私は私の5m後ろを足音無くしてつきまとう人物に、一か八かで賭けに出た。


「佳山、直樹は守ってくれなかったよ

 あなたの二分の一も愛はなかった。佳山は私を守ってくれるの?」


「気づいてたんですね、先輩。」


聞きなれた声色が聞いたことのない低音を奏でた。

初夏を過ぎぬるくなった夜風が背中をじっとり這う。蛾を寄せ付ける古びた電灯だけが、寝静まる街のなか相対する私たちを見下ろしていた。


「いつからこんな事をしているの、四年前の写真もあったよね」

「その四年前からですよ。認めます。私はあなたをストーキングしていた」

「どうやって私を見つけたの、まだ入学して2ヶ月でしょう」

「兄が西山中出身なんです。先輩と同級生で」

「なんでこんなことをするの」

強気に問いかける。佳山の口元しか動かない、無表情さに唇が震えた。


「先輩が好きだからです。」


一際抑揚のない言葉が吐き出された。


「先輩が大好きで大好きでしかたなかったんです。」


「私はずっと先輩を見守っていたのに、あんな男と付き合うから、」


「私、やっと入学できてやっと生徒会に入れて。」


「やっと先輩に認知してもらったのにッッ」


「あんなクソ男と付き合うからッッッ!!!!」


私は立ち竦んでしまった。今朝の黒板よりも強い衝撃で頭を殴られて。

今にも泣きそうに声を荒らげた佳山が、私の知らない佳山で。可愛い顔が目を腫らして憎悪に染まる形相に、動けずただ見つめている。

 佳山は強い力で私の手首をつかみ乱暴に引き寄せた。


「いっだッ離してッ」

「嫌ですよッッ」

「もういい加減にして!!あなたは何をしたいの!!!」

「先輩を今から襲うんですよッ私言いましたよねッ!?そんなに甘いと襲われるってッッ!!!!」


怖くて怖くて上手く力が入らない。でも全身の筋肉を使って抵抗した。

二人のどちらかが足を引っかけコンクリートに背を打った。激痛に痺れたけどここで耐えなければもう家に帰れない気がして。私は拳を作って佳山の鼻の付け根を殴った。鼻血が滴って、顔を歪めた佳山が手の力を緩める。ぬるりと真っ赤な体液が拳を伝って、よりパニックになった。

そこからは上になったり下になったり。

お互い泣きじゃくって抗った。夜の住宅街は閉鎖的で、叫ぶ声すら響かせない。誰も起きてくれる気配がなかった。


「ねえ先輩ッ田島直樹はあなたを見捨てましたよッッ!大人しく受け入れてくださいッ!!」

「まだッまだ見捨てでない、」

「もうあなたには私しかいないんですぅ、うッッ」


佳山はその細っこい手足から強い力で、私をコンクリートに縫い付けた。

手首を片手で一纏めにされ、スカートに手が伸びる。

私は半狂乱になって、どうにか逃げなければと必死だった。思い切り頭突きをかました。目の前で白い閃光が弾けて、耳鳴りで何も聞こえなくなった。

佳山は相応に痛がった、けれども私を捕らえる四肢を緩めない。

閃光がぼやけて薄くなる。まさに目と鼻の先とでも言うのだろうか、10cmも開けずに揉みくちゃになっていた。

佳山の濡れた睫毛が、蛍光灯の灯りに反射してキラキラと光る。鼻の頭も耳も頬も赤く染まって、涙と汗が混じる様を綺麗だと感じた。

殺されかけてもなお、心のどこかで佳山をいとおしく想っている。私が思うように手に入らず藻掻く姿は滑稽であり可愛いらしい。

私は抵抗する手を止めて、彼女を腕に抱く。彼女はきゃうっと小さな悲鳴をあげて、膝立ちを崩し倒れ込んだ。張り付いた前髪が鬱陶しいけれど、動けそうにない。

二人ぬるいコンクリートで横になった。荒い息遣いと厳かな住宅街の隙間から聞こえる居酒屋の喧騒。華の金曜だ。きっと喜びに胸を踊らせどんちゃん騒ぎを起こしていることだろう。意外と世の中の事件は日常の片隅でひっそり起こっているものなのかもしれない。

腕の中で啜り泣く声が聞こえた。


「先輩ぃ、

 もし、もし直樹先輩と出会う前で、

 もし私が男だったとしたら、先輩は私を選んでくれてましたか?」


「どうだかなあ、佳山、私はあなたがわからないよ」


さっきまで私の貞操だけでなく命まで脅かさんとしていた者が、私の中で弱々しく泣いている。調子が狂いそうだ。いや、私はとうに狂っている。

こんな子を愛してしまっているほどに。

瑞々しい唇に口を押し付けた。彼女の口の中は汗と血でしょっぱいような鉄っぽいような気がするが、舌がひんやりとしていて心地よい。


「へへ、先輩浮気ですね」

「3ヶ月目の浮気」

「なんでしたっけそれ3年目の、ってやつですよね」

「40年位前の曲」

「ふは、ババくさ」

「うるさい、実際あなたより年上よ」


軽口を叩いた。私たちの関係には何て名札をつけるべきだろう。

先輩後輩、被害者加害者、彼氏彼女、浮気相手愛人相手....

キリがない。でも全てどうでもいい気がしていた。


「先輩、私を捨てないでくださいね」


「手放す気なんてないくせに」


「よくわかってるじゃないですか

 約束ですよ」


「はいはい」


「先輩、私が置いた花瓶見ました?」


「ラブレターの重石でしょう」


「あれ初恋草っていうんです。瑠璃色で可愛いでしょう」


「あなた本当重いよね...」


「花言葉知ってます?」


「初めて知った花」


「約束を守る、だそうです」


「そう」


「うちで育ててるんです。結構繊細な花なんで、大変なんですけど。

 先輩、また贈りますね」


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