第7話 殺してやりたいほど雨が嫌いだ
「私ね、雨が殺してやりたいほど嫌いなんだ」
私は行儀悪く床に座りお酒を飲みながら、ガラス窓から外を見ては、ザーッっと音を立てて激しく降る雨に感傷していた。
ユウトの過去を聞いた代償を払わなければならい。そんな強迫観念にも似た何かに突き動かされるように私の頭の中は囚われていた。
久しぶりに体に入ったアルコールのせいかもしれない。そうじゃないかもしれない。今の心理状態の理由はどうあれアルコールが私の口を軽くしてしまっていたのは確かだった。
言葉はユウトに向けて、しかし、視線は窓の外に向けたままポツリポツリとぎこちなく話す。でも本当はくだらない過去の私をユウトに知って欲しいって思ったのかもしれない。どうせ嫌われるのなら自分から嫌われた方がいいって思ったのかもしれない。
そう思うのは、嫌いになって欲しくないという恐怖のせい。支離滅裂な思考と相反する自分。私の中のもうひとりのわたしの話。あぁ私は何を言いたいのかわからなくなった。
―――それでも話すよ。ユウト聞いて。私の話。
「私さ高校を中退しててさ、......どこから話せばいいんだろ......高校2年生の時にお母さんとすごいケンカしてね」
もう何年も前の話、母とケンカなんて日常茶飯事だった。一つ一つのケンカなんてもう覚えてもいない、とりあえず、沢山言い争い、ひどいケンカをした。
その沢山ケンカした中のひとつ。だけどその日のケンカは私の人生を壊した。幸せだった日なんて1日だってなかったけど、そんな私の中でも特に最悪の日だったって言ってもいいじゃないかな。
「もうなにが理由でケンカしたかなんて覚えてないんだけど、......事あるごとに私のお母さん『あんたなんか産まなければ良かった』って言うんだ。今はもうどうでも良いんだけどさ、あの時は悲しくて『私だってお母さんに産んで欲しくなかった!』って言い返した。そしたら、思いっきり頬を叩かれて『出ていきなさい!』ってすごい歪んだ顔で唾撒き散らかしながら怒鳴られてさ、それで私、家を飛び出したんだよ」
あの時思っていた感情は多くあった。母に対して言いたい事も、全部我慢した。本当に言いたい私の気持ちなんてひとつも言えなかった。私、本当に我慢してたんだよ? それなのに母の口癖は『どうして私ばっかり』だ。いつも母は被害者であり私は加害者として罵られる。
すべての不幸は私のせいだと、『すべてはお前が悪い』と、『あんたさえいなければ』そんな言葉を何度も何度も言われたせいで頭の中でグルグルとリピートされる。『どうして私ばかり』いつの日からか私も同じ言葉を心の中で思うようになっていた。
「顔を思いっきり叩かれたこと、ユウトはある? あれね叩かれた瞬間はバシって衝撃と音がきて最初何が起きたかわからないんだよ。でもすぐに顔の半分が痺れてきて、熱を持ってジンジンして痛みが遅れてやってくるの。それで、(今叩かれたんだ!!)って頭が理解して、『なんで叩くの!』って怒りがカッと沸騰するんだよ」
暴力にあうと理性とかそんなのはどこかに置き去りにされて感情で怒りが爆発する。あれはもう反射なんだ。本能が戦闘態勢に入れとスイッチを切り替える。そんな状態で冷静な判断なんてできるわけがない。
「私、その日は全てが嫌になって我慢できなくて『あ゛あ゛ああああぁ!!』って! ボロボロに泣きながらお母さんを突き飛ばして衝動的に家を飛び出したの、『もう嫌!』って」
お酒で口を湿らして喉の渇きを癒す。その束の間にユウトは私の後ろに座った。ユウトは無言だった。だから『それでね』と続ける。この過去を誰かに話すのは初めてだった。
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「飛び出したはいいけど、行くところなんてなくてさ、そん時に付き合ってた彼氏に連絡したの『どうしよう?』って送った。そしたらソイツからさ『とりあえず家に来なよ』って返事がきて、すごい迷ったけど雨が降ってたし外にいるのが寒くて、他に行くところもないし、ソイツの家に行ったの、バカだったなーって思うよ」
あの日の事を思い出して、イライラが背骨を通して駆け上がってきた。不快感を紛らわすために体を後ろに仰け反った。私の体はユウトの背中にぶつかり、鈍い衝撃が体を通り抜ける。
私はぶつかった体をそのままに、ユウトへ体重を預けた態勢で話を続けた。
「ソイツの家に行ったら、ソイツ以外誰もいないの、なんか妹の部活の遠征で親も一緒に行ってるとかなんとかで、あの時はソイツの親がいない事に安心したんだけどさ、......その日の夜にソイツに襲われて、断れなくて最後までセックスしちゃったの。でも一応そんときは好きで付き合ってて、いや好きだったのかな? わかんないや、私だって高校生にもなれば男と女でエッチな事をするのは知ってたしそういうもんだと納得もしてた、でもね」
背中合わせにしたままユウトは動かなかった。私の言葉の振動はユウトの背中にぶつかり私の体に反響して体全体をビリビリと振動させた。
「―――でも、終わった後にさ、アイツ『初めての記念だから写真撮ろうよ』って言ってきて、勝手に脱がされて裸になってるし恥ずかしいしそんなの嫌に決まってるじゃん。それなのに『記念だから』とか『ピースして』って言われて押し切られて結局撮られちゃったわけ。私の言葉はいつも否定されるんだよ。あの時は心が弱ってたから私の気持ちが無視されてすごく悲しかったんだと思う」
あの時は悲しかった。でももう過去の話、今更悲しいとか、悔しいとかそんなのはない。ただ過去の事実として淡々と話を続ける。
「いやーあの時は純粋だったからさ、親とケンカして顔を叩かれたのとエッチしたのとで心がぐちゃぐちゃでソイツが寝てる横でずっと泣いてたんだよ。あーっバカみたいそんなことで泣くなつーの乙女かって、はは......今からでもあんときの私をぶん殴ってやりたいわー」
あぁ......もう過去の事だと思っていたのに、やっぱり思い出せばイライラが止まらない。
無意識に力が入り、パキパキっと手に持つ缶から潰れる音がした。
「朝になってこっそり家に帰って、気分は落ち込んでても家にも居たくないから学校に行くしかないんだけど、その日にあのバカがさー! 『童貞卒業しましたー!!』って、記念にって撮った写真をクラスの連中に送ったらしくて、それが拡散されて学校中にまわったんだ......まじクソ野郎だよねアイツ......」
私は前かがみになって新しいお酒を手に取り、プシュッと空けてゴクゴクと飲む、いくら飲んでも喉の渇きは満たされない。
また反動をつけて酔った頭をユウトの背中にぶつける。止まらないイライラをユウトに八つ当たりした。酔った頭をトントンと背中にぶつけながら話を続ける。
「それから、生徒指導に呼び出されて、その問題の写真をイヤミったらしくずっと見せられながらさ、ふたりで怒られて、私もピースして写ってるから『学生の内からセックスを楽しむな』って言われて悔しかった。私はしたくなかったのに」
きつく目を瞑り、奥歯を噛みしめ荒い呼吸をした。思い出すとイライラする。あの時の悔しくて堪らない気持ちが鮮明によみがえってきた。
「それでさ、お母さんも学校に呼び出されていたみたいで、私と顔を合わすなりなんて言ったと思う? 『いらんことばっかりして迷惑をかけるな、お前は男で不幸になるわ』だよ、ウケるよねぇ」
額に手を当てて、強く擦る。でも頭のモヤモヤが晴れる事はなかった。
「私、居場所がなかっただけなのに......」
そうだ、私は誰にも期待していなかった。なにも求めていなかった。ただ平和に過ごせる安全地帯が欲しかった。それだけでよかった。他はなにも要らない。
「当たり前だけどソイツとは別れてさ、クラスの連中も腐ってて、面白がって私のことをイジってきた。止めるヤツはひとりもいなかったよ。それで私、みんなの前で泣いたら負けだと思って、ずっと我慢して、我慢して何日も過ごしたんだ」
アイツは原因を作った張本人で童貞を卒業したというのを自慢するようなヤツだ。イジりに対しても途中からは楽しそうに談笑していだ。何を話していたのかは知らないけど。きっと私とのセックス体験の自慢でもしていたのだろう。私はアイツに犯されて自慢できるところなんてひとつもない。ただ辛いだけの日々だった。
「......でも我慢したからって言ってもさ、裸の写真は消えなくて、言い返せない私はビッチって呼ばれるようになった。あの時は、『私セックスなんて好きじゃないっ!』って頭の中で教室をめちゃくちゃに破壊したよ。......でも実際の私は下を向いて震える手を押さえて好き勝手に言われることに黙って耐えることしかできなかった」
クラスの連中は『ビッチ』って声高々に言うのがとても面白い事のように笑い合ってたな。そいつらの心底楽しそうな顔をみて『くだらない。私の存在ってアイツらのオモチャなんだ』って思ったんだっけ......。
「どうでもよくなってさ、もう死のうって本気で思って、初めてリストカットした。カッターで腕を切った時、不思議と痛くなくてさ、腕から流れる血をぼーっと眺めてさぁ、これで私は消えれるとだけ思った」
腕に残る傷痕を眺めて思う。あの時はなんだか他人事のように腕から滴る血が床で弾けて、段々と血だまりができるのを見てたっけ。
「その時にさ、丁度カッターを使いたかったのかどうかわからないけど、不機嫌丸出しのお母さんが『あんたカッターをどこへやった!』って怒鳴りながら部屋に入ってきて、腕から血を流してる私と目が合ったの。普段カッターなんて使わないクセに何かが消えたらすぐに私のせいにするんだよ」
あの時の母の表情が急に変わるのは面白かったと思う。死ぬ前にその顔が見れて良かったってあの時は思ったんだ。
「あの時のお母さん、顔が青ざめて、口をパクパクさせて、私を助けるでもなく、その場から逃げ出したんだ。きっと私が死ぬ現場に居たら殺人事件にでもされるとでも思ったんじゃないかな。実際私は死ぬつもりだったしね」
死ぬつもりだったのに、結局心が揺らいで死ねなかった。
「あの時は生きたいってこれっぽっちも思ってなかった。でも、血が止まるんだよ。それに気付いてもう一回切ろうと思ったら腕がズキズキ痛み出して、痛くて痛くてさぁ、痛みで怖くなって手に力が入らなくなってできなかった。私は死ねなかった......」
あの時の事を鮮明に思い出して悲しくなってきた。私はどうしてあの時勇気を出して死ななかったのだろう。
「あ、でも、死んだのかも」
わざと1トーン高い声でなんでもない事を強調する。もう過ぎた話だから。
「ふふ、その日から私はビッチになって、髪の毛を染めて、全部捨てたんだ。お前ら全員死ねって、嫌なら私を殺せって、私はお前らを傷つけても心は痛まない。そう思って嫌な女になったら少し楽になった」
髪の毛を染めて、分厚いレンズのメガネを外して、赤いアイラインの化粧をするようになった。ビッチはビッチらしくだらしない格好で制服を着こなして、他人の顔色を伺う事をやめて、相手が嫌がりそうな事を選んで話をした。大抵のやつは怒って距離をとるようになった。勝手に離れてくれるのが嬉しかった。
「でもさぁ、めんどくさいのが、ビッチが好きな男が沢山いてさ、私とならヤレるって思って近寄ってくることなんだよね。あいつら頭おかしいよな。誰がヤラすかっつーの」
香水つけて、無害を装って、近づいて、発情してるのバレバレでこっちはウンザリしてるのにも気付きやしない。
(でもまぁ......)
振り向いてユウトの耳元に唇を寄せて、囁く。私がユウトに返せることもこれしかない。
「......ねぇユウトが望むなら私を抱いてもいいよ。本当はこの体に価値なんてないんだから、中身はもう死んでるの」
ユウトは良くしてくれたし、私の体を使いたいって言うなら、1時間ぐらい好きに使っていいよ。私は目を瞑って終わるのを待てば良いだけだけだし。
私の問いかけにユウトからは何の言葉も返ってこなかった。
「......まぁ、ユウトぐらいのイケメンになると、私になんて興味もないか」
ユウトからの反応が全くない。
もしかして怒らせたか? 私は気になってユウトの顔を覗き見た。
「......なんで? なんで? なんであんたが泣いてるの? っバカじゃないの?!」
ユウトは静かに瞳から涙をぼたぼたと落として泣いていた。鼻をすする事もなく、声を発することもなく、身動きすることなく気配を消して、静かに泣いていた。
「意味......わかんない」
頭が混乱する。なんで? いつから? 心臓がぎゅぅっと痛んで悲鳴を上げる。喉の奥から熱いモヤモヤしたものが上がってきて、目頭が沁みてくる。ふざけんな。私の話でユウトが......あんたが泣くな。私をバカな女と笑え。
「サクラ、そんなに傷だらけだったんだね」
「はぁ? 何言ってんの?」
「我慢して辛かったよね」
「辛くないし、......終わった話だし」
「サクラの事、教えてくれてありがとう」
「っうるさい。黙って」
「サクラは、優しいし、可愛いよ」
「あぁ! そんなわけないでしょ! っもう! これ以上なにも言うな......」
喉の奥が熱い、目がジンジンと痛む、声が掠れる、モヤモヤする、不快だ。不快だ。不快だ。こっちは話せば嫌われると思って話したんだ。こんな私を受けいれようとするなッ!
ユウトは突然私を抱きしめて、頭を撫でてきた。
「なに急に? 離して?」
「ごめん」
「ごめんって言うなら放してって!」
私は叫んだ。力を込めてユウトの体を押す。しかしユウトは私が苦しくないように優しく抱きしめたまま離れてはくれなかった。
私は抵抗するのをあきらめ、腕の力を抜いてされるがまま楽な姿勢を探してユウトの肩に顎を置いた。
「バカ、アホ、ヘンタイ」
「うん、うん」
ユウトは壊れ物を扱うように優しく、背中を抱き寄せ、私の頭を撫で続けた。私の頭を撫でたいというヘンタイな一面を持ってるユウトの奇行もこの時だけは都合が良かった。
私はユウトの優しさが嫌いだ。甘えてしまう自分が嫌いだ。弱い自分が嫌いだ。私はあの日から泣かないと決めていた。
―――なのに、またユウトは私の決意を崩してしまう。あの日我慢していたものが、馬鹿みたいに目からこぼれ落ちる。
私はこぼれ落ちる弱さをユウトにバレないように、息を殺して、口を引き結んでやり過ごした。私は泣かない。認めない。
一時の同情で動かされるものか、こんな私を愛してもらえるわけがない。誰かに期待してはいけない。
私は膝立ちの体勢から無意識にユウトの背中に伸ばしてしまっていた手を下ろす。私は今何をしようとしていた? 私がしがみ付けばユウトを不幸にする。しがみつけば振り払われてケガをする。
ユウトと過ごす時間は楽しい、ユウトの優しさに包まれると安心する。でもどうせなくなってしまうのなら、こんな感情要らなかった。
―――私は何も要らない。ユウトお願い。優しさじゃなくて、自分の都合の良い様に私を利用して、私も私の都合の良い様にあなたを利用する。それなら誰も傷つかないでしょ。
私は自分から出ていく事なら耐えられる、でももうユウトに『出ていけ』て言われるのはちょっと辛い。
私の下げたはずの手はいつのまにかユウトの洋服の裾をしっかりと握り返してしまっていた。
死んだはずの弱い私が、『助けて、私を愛して』と頭の中で泣き騒いでいる。『私に居場所をください』と慟哭している。いつもなら『うるさい』と文句を言うところだけど、今はそれで願いが叶うならいくらでも叫べばいいと思った。
もうしばらくして、お互いが気まずくなって離れるその時まで、その短い間だけは頭の中の私も泣けばいい。すべてはお酒のせいにすればいい。私はユウトの服を掴んでいた手を離し、ユウトの背中に手を回す。体重のすべてをユウトに預け力いっぱい抱きしめ返した。我慢するのはやめたよ。やられたらやり返してあげる。
胸にある空虚な隙間が埋められるような、心地よさを初めて感じた。人とこんなに近づいて安らぎを感じることもできるんだって初めて知った。
......ねぇ、今抱き合ってる私とユウトだけどさ、この手を最初に離すのは私かな、それともユウトかな?
―――『嫌だよ。ユウトからは離れないで】と願ったら感情が抑えきれなくなった。私がずっと我慢して言えなかった事があるの、ユウト教えてよ。ユウト教えてよ。
「うぅぅぅあっあぁ、ユウト、ユウトあぁあ、ひっく。私ね、私ね、死ぬほど辛かった。いっぱい我慢したんだよ。文句も言わずに良い子にしてたんだよ。なんで? どうして? どうして私は愛してもらえないの? 嫌だよ。居場所が欲しい。居場所が欲しい。居場所が欲しい」
「っサクラ......」
ユウトも息が苦しくなるくらい力強く抱きしめ返してくれた。この苦しいほどに力強い安心感が心地よい。私はやっぱりズルい女だ。ユウトの優しさを利用している。ごめん。ごめんね。こんな私でごめんなさい。
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