1-3 誰が世界のためになんか闘うもんか、僕は僕のために闘うのみ(1)

 正月の参賀日も明け、世界に日常が戻った。

 東京の不動産会社に勤める典史も、当然日常を取り戻した。まずは、朝のラッシュアワーでの満員電車で、都会の洗礼を浴びる。フレックスタイムやリモート勤務が増え、昭和や平成初期のような狂気の世界までではないにしても、九時の始業前には既に体力の何割かは使い果たしてしまう。

 東京の会社に勤めて五年目の典史ではあるが、未だ人混ひとごみには慣れていないのだった。


「しっかしなぁ……正月に見た夢、しつこくて困っちゃうよ」


 明らかに、あのひもじかった・・・・・・正月のときよりも頬がやせこけている。

 確かに彼は、元旦の日以来、ずっと同じ夢を毎朝に続けていたのだ。例の゛神様゛が出て来るもので、内容は取るに足らないばかばかしいものなのだが、さすがに毎日ともなると睡眠不足とともに精神もいたんでくる。


 だが、今日の典史の気持ちは、そんな憂鬱さを吹き飛ばしてしまうくらいに高ぶっていた。なぜなら、そう――育毛いくもうサロンの予約を、就業時間終了後アフターファイブの時間帯に取っていたからである。

 人生、初のこころみ。

 典史は、スーツの胸ポケットにしまった『お守り』――元旦に幼馴染三人で言った毛増神社で購入したもの――を、同僚には見られないようにトイレの個室で取り出すと、それを毛の薄くなった頭部にぎゅっと押し当てながら、何やら念仏のような、お祈りのような、呪文のような言葉を独り言のように呟いた。

 あと一時間もすれば、本日の勤務時間は終了である。

 当然彼は、定時になればかつては゛タイムカード゛が担っていた役割を引き継いだクラウドの勤怠管理システムのパソコン画面上にある「退勤ボタン」を速攻で押し、大急ぎで会社を後にする予定だ。できれば、このトイレ個室で残りの時間をやり過ごせたら最高なのだが、そうもいかない。

 便座から「よっこらしょ」と腰を上げて特に意味もなく水洗の水を流すと、典史は自身が所属する『営業部 法人営業課』のブースへと、重い足取りで向かった。課の入口側にほど近い自分の席に戻ろうとした矢先、奥の窓際席から、課長の岡田おかだ和利かずとしが軽快な口調で彼に声をかける。


「おお、斉藤君! とっても長ぁーい、トイレだったねぇ」

「すみません、課長……。昨日の晩からお腹の調子が悪くて」

「ふうん、そうか。お大事にな……。だけど、私が思うに、今の君に必要な一番の薬は、きっと゛営業成績゛だと思う。大きな契約でも獲得すれば、きっと腹の調子も良くなるさ」

「……頑張ります」


 丸型の黒縁眼鏡の奥にある岡田課長の眼は、笑っていなかった。

 しかめっ面で、頼りない返事しかしない典史を軽く睨みつける。


「我が『三九サンキュー不動産』は、確かに人材不足で困っている。けれども、さすがに゛タダ飯喰らい゛を雇い続ける余裕はない、ってことはわかるよね?」

「はい。おっしゃるとおりです」

「そうか。わかっているなら、いい。これから、就業時間終わりまで、身を入れてやってくれよな」

「……はい」


 典史は形だけ課長に向かって頭を下げると、ゆっくりと自分の席に着いた。

 机上のノートパソコンの画面が、長時間の不在でスリープモードとなり、真っ暗になっている。マウスを触ってスリープ状態のパソコンを復活させると、初期画面として、会社のコミュニケーションツールのグループウエアが現れた。

 そこでは、お願いしてもいないのに営業部の個人別営業成績グラフがどーんと画面の中心を占有しており、無視することがかなり難しい。かつて営業会社で広く行われていた『壁に手作り棒グラフ』というアナログな手法は完全に過去の遺物となり、今やデジタル的に、そして無機的にグラフ化された画像が、労働者の視覚を否応なしに占拠するのだ。

 典史は、物理的な無視をするため、視線をわざとずらした。

 というのも、1月の月末近くというのに、典史の名前の書かれた位置にある縦棒グラフは、まだ透明なままだったからだ。

 簡単に言えば、今月の受注成績が0ゼロ円なのである。


「はあ……」


 声にならない声で小さくため息を吐いた、そのときだった。

 彼のパソコン画面の右下あたりに、『新着メッセージ』の赤い文字が浮かび上がった。グループウェアを使って、会社の誰かが、典史に社内メールにより連絡をしてきたのだ。


(ん? 高山たかやまから??)


 高山というのは、典史の同期入社で、すぐ隣の席にいる同い年の男だ。

 何気ないふりして横を見れば、課長からは見えない角度で彼が典史に目配せをしている様子が見えた。すぐ隣なんだから言葉で伝えてくれればいいじゃないか――と思った典史だったが、メッセージの題名を見て、思わず目をひん剥く。


(ご、ごうコンへのお誘い……だとぉ?)


 合コンとは、言わずもがな、『合同コンパ』のことである。

 広辞苑によれば、『付き合う相手を探すために、男女それぞれのグループが合同で開くコンパ』のことであるが、もうひとつおまけに広辞苑から引用して説明すれば、『コンパとはコンパニ―の略で、学生などが費用を出し合って催す懇親会』のことである。

 普段の典史なら「どうせ僕なんて……」と伏し目がちになって断るところだが、今日の彼は違った。お正月に、かつてのクラスメートで皆の憧れの的だった欄羅蘭に会って刺激も受けていたし、今日はなにせ、退社後に育毛サロンに予約もとっているのだ。


(髪の毛がふさふさなら――僕だって!)


 典史には分かっていた。

 背も高く、顔もそれなり・・・・の同期は、典史を合コンの席で笑いものにして、自分のポジションを相対的に高めようとする作戦なのだ、と。

 彼からのメッセージに目を通す。

 するとそこには、コンパの情報として2週間後の日時と場所が記されていた。お相手は、同じビルの中にある上場企業の女性職員オフィスレディたちらしい。


(あそこのたちか……。エレベータで会うけど、みんなかわいいよね)


 隣の同僚に冷めた笑いを向けた典史は、キーボードに指をかけると、力強い指さばきでメッセージに返信した。


【ぜひ、参加します!】



 17時00分05秒。

 典史は、オフィスを既に飛び出していた。



 ☆



「増毛コースへの変更をお願いします!」


 サロンの受付で、典史は声高らかに宣言した。

 彼の手の中には、今年の正月に購入した、毛増神社のお守りがしっかりと握られている。その圧力まで感じる゛前のめり姿勢゛に後ずさった若い男性の受付が、目をパタパタとしばたかせる。


「いや、でも……。お客様は、じっくりと育てるコースの方を選択すると先週おっしゃいましたよね……」

「そんなものは、取り消しです。僕には……時間がないんですから!」

「時間がないことは、なんとなくわかるんですけど……あ、いえ、こちらのことで。わ、わかりましたよ。それでは、いかほどの本数、増やされますか? 今ならキャンペーンで千本無料――」

「1万本! 2週間で」

「え? それは、大分だいぶハードな工程になりますけど……大丈夫でしょうか?」

「もちろん、です。毎日来ますから!」



 それから2週間の後。

 典史は、5人づつの男女、計10人が賑やかに歓談する宴席の輪の中にいた。

 ――特に違和感はない。

 彼の目の前にいる女性たちも、彼へ――彼の頭部へ、と言った方がよいかもしれないが――奇異な視線を向けることなく、和やかに接していた。典史は、生まれて初めて自然体で合コンにのぞめている気がした。

 そろそろ二次会へ移ろうと麗しの女性らが席を立った、そのとき――隣の席にいた同期の高山が典史の耳元でささやいたのである。


「今日はえらく元気よかったなあ、斉藤君。女子たちの前でこんなに楽しそうにしている君を、初めて見た気がするよ……。気のせいかもしれないが、君の頭の毛・・・も元気になったみたい」


 典史を踏み台にして自分を高く見せようとしていた目論見もくろみが外れたせいであろう、高山が典史を睨みつける。

 しかし、それに怯むこともなく、典史は余裕をもって答えた。


「うん? それは本当に気のせいじゃないのかな……。あ、僕はトイレに寄ってから二次会の場所に行くので、君たちは先に行って外で待っててくれる?」


 典史は高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、一人、トイレへと向かった。

 用をすまし、他に誰もいないことを確かめた彼は、洗面台の鏡の前で髪の毛に乱れがないことに満足げに頷くと、例のお守りを胸ポケットから取り出した。


(神様のお蔭だな……すべて順調!)


 そんな思いとは裏腹に、急に顔色が暗くなる。

 実はここ数日、同じ夢――正月に見た例の白い神様の夢――を、毎朝見させられていることを思い出してしまったからだった。

 他愛もない内容だが、毎日ともなれば、さすがに具合も悪くなる。

 赤いお守り袋の口を開けた典史は、中から一枚の紙切れを取り出した。それは、夢の中の出来事として神様から無理矢理渡されたものだが、なぜか現実世界の実家のベッドの上にそっと置かれていたという、あの・・紙切れである。

 自称゛神様゛は「続きはWebで!」とか何とか言っていたが、典史はその場所――Web Site――には、今まで一切、訪れることはなかった。


(誰が世界のためになんか闘うもんか……。僕は、僕のために闘うのみ!)


 典史はきっと楽しい二次会のために、足取りも軽く、トイレの扉を開けて外の煌びやかな世界へと飛び出していった。

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