『第2章 喧嘩(side 壁の外側)』

『第2章 喧嘩(side 壁の外側)』


 あの人と喧嘩するのは、もしかしたら初めてかもしれない。でも、私たちはどこかで信じ合っていると思う。だからきっと、謝ればあの人も許してくれると信じている。でも、どうやって謝ればいいのか、あの人と初めての喧嘩だからこそ、余計に迷う。迷路で迷子になってしまったかのよう。


 夏の風に当たりたい。私はそう思って、少し外に出てみることにした。ただ、外は暑いを通り越して身体が溶けてしまうのではないかと思うほどの気温だった。スマホで確認すると、今日はどうやら40度の地点が全国で20を超え、埼玉県のとある暑い街では43、1度と歴代1位をまた更新してしまったようだ。ただ、この辺りは太陽の光が、木で遮られるため少しは凌ぐことができる。それでも、体感温度は確実に35度を超えている。ゼミはどんな気温でも必死に生きているのに、私は情けない。


「あっ、先生ー!」

 

 その暑さを少し和らげてくれたのは、私が先生をする保育園の園児だった。私の住むところはほとんど家が存在しない静かなところだ。この子もこの場所に住んでいたため、日頃からよく顔を合わせる。その子がちょうど家から出てきたところだった。


「ん? 氷織ちゃん、汗、すごいね」


「今さ、エアコン、壊れてるの! でも、お店の人が来くれて、あと1時間後には直るらしい! 家の中、暑いから外に出てみたけど、外も同じぐらい暑いね」


「あ、じゃあ先生、とっても涼しい場所を知ってるよ。そこに行く?」


 それは気の毒だと思い、私はある所を思い出して、氷織ちゃんを誘う。私には魔法みたいに涼しいところを知っている。


「えっ! 行く行く! お母さんに言ってくるね!」


 涼しいところ。このあたりには謎とも言えるトンネルがあり、そこだけ別世界のように涼しいのだ。体感温度でいうと、10度は違うのではないだろうか。ただ、氷織ちゃんの無邪気な笑顔を私の心に吸い込むことで、落ち着きを更に取り戻すことができた。


 ちなみに私が、絵に描くのにも時間がかからないほどの殺風景な所に住んだのは、ただ単に家賃が安かったという理由もあるけれど、それ以上にこの景色が好きだったからだろう。


 氷織ちゃんがお母さんの許可を得て戻ってくると、そのトンネルの中で食べる用のアイスを家から持ち出す。そして、トンネルの方に向かって、一緒に歩いた。そのトンネルまでは徒歩3分ほど。その間の光は、身体を貫通するように痛いが、その先にご褒美が待っているとなんだか頑張れる。


「よし、着いた!」


「あー、ほんとだ、すごく涼しい! 魔法みたい!」


 氷織ちゃんは、その涼しさに感動したのか、そのトンネル内を走り回ったのだ。ただ、このトンネルを通る車などは簡単に言うといないので、ほぼ安全だ。


「はい、氷織ちゃんのアイス!」


「えっ、アイス!? 先生ありがとう!」


「皆には内緒だよ。2人だけの約束!」


「うん、約束守る! じゃあ、いただきます」


 氷織ちゃんは、丁寧にいただきますをしてから袋を開けると、その小さな口でかぶりついた。美味しさを表情で表現していてなんだか面白かった。私もそのアイスに大人気ないかなと思いながらも、氷織ちゃん以外に誰もいないという理由から、豪快にかぶりついた。ただ、食べ方を失敗したのか、少しこぼしてしまい、氷織ちゃんに大爆笑された。大人げない。


「あのさ、先生、少し元気ない?」


 アイスを半分ほど食べ終わったところで、氷織ちゃんが私の目をじっと見つめてきた。そして、元気がないのではと指摘したのだ。小さな子どもの鋭さに驚いて、どう答えようか戸惑う。大人の会話に子どもを巻き込むのはよくないし。ただ、ここで嘘を付くのもなんだか罪深い。


「まあ、価値観の違いっていうのかな。ちょっとあってね」


「かちかん?」


「うん、考え方っていうこと。例えば、保育園の皆も好きな食べ物とか人によって違うでしょ?」


「うん、私はアイスが好きだけど、お寿司が好きな子がいたり、焼き肉が好きな子もいるし、オムレツが好きな人もいるね! ……そういうこと?」


「うん、そういうこと」


 保育園児とは思えない回答だと反面思っているが、要はそういうことだ。人によって考えは違うということ。それで対立が生まれるときもある。それが時には大きなものになる。


「それで喧嘩しちゃってね……」


 喧嘩という言葉をこの子の前では言わない方がいいと思っていたのに、自然と言葉の方が先に出てしまった。私は慌てて口を押さえる。


「えっ、先生喧嘩しちゃったの? じゃあ、ごめんなさいしなきゃ! 私たちも喧嘩しちゃった時はごめんなさいするよ?」


 そうなのは分かっている。子どもは素直に謝れるのだ。この子も昨日、ぶつかってしまった子にごめんなさいをして、それからその子と積み木で仲良く遊んでいた。なのに、大人ができないのはおかしい。見本にならないといけない大人が、ちゃんとしていないなんて。


「……そうだよね。うん、仲直りしようと思えたよ。ありがとう、氷織ちゃん」


「うん。ねえ、先生、見て、大吉だった!」


 氷織ちゃんから元気がもらえたとき、氷織ちゃんがまた嬉しい報告をしてくれたのだ。このアイスはおみくじ付きで、大吉の確率は1%だと言われている。つまり、100本に1本という確率だ。その大吉を見せながら氷織ちゃんは自慢してくる。


 私も残りを一口食べると、嬉しいことが待っていた。


「あ、先生も大吉! すごい!」


「えっ、あっ、本当だ……!」


 私よりも氷織ちゃんが先に私のアイスのおみくじも大吉であることを発見した。1%の奇跡が、連続した。


「ねえねえ、また嬉しいことがあったよ。先生、こんなところに四葉のクローバーがある!」


「ん? 四つ葉のクローバー?」


 なんで奇跡が度々起こるのだろうか。四葉のクローバーも見つけてしまったのだ。幸せを運ぶという四葉のクローバーを。


 ただ、その四葉のクローバーがあった近くには、私と同じような顔がトンネルの壁に描かれていたのだ。ただ、私より少し幼い顔立ちだった。どこかその子は、感情の対立により葛藤しているようにも思えた。そういう年頃の子なのだろうか。私は少し遅れてなんで? という気持ちが浮き出てくる。


「この絵、なんだか先生に似てない?」


「うん、似てるかもね。先生にそっくり」


 私はクローバーをポケットの中にいれると、この壁の向こうの私のような人が笑ってほしいなという、そんな思いから、私の足につけていたミサンガを置いた。おそらく風で飛んでいってしまうと思うが、それでも構わない。この壁に描かれている人は、一体誰なのだろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

著者より編集者さんへ:この子、本当に幼稚園生ですか!? 最近の子は、すごいですね。ちなみに僕の誰にも譲れない価値観は、目玉焼きには絶対オイスターソースをかけることです。

(7月16日午後7時記入)

編集者から著者さんへ:まあ、いろいろな子がいますからね。幼稚園生で九九とかできる子とかも。ちなみに、著者さんが目玉焼きにはオイスターソースは知ってます(笑)私は断然マヨネーズ派です。ミックスしたらどうなるんだろう。今度、やりましょうね!

(7月20日午後4時記入)


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