第15話 柚葉由衣の憂鬱

 夢を見た。

 麗美が転校した後のことを。

 人生で最も心を許し、最も好きだった人を失って、俺は毎日憂鬱だった。

 麗美がいない日常に中々慣れず、彼女が住んでいた空っぽの家を見るため毎日自転車で通り掛かった。

 荷物を忘れて取りに帰ったりしてないか。

 実は親戚が残っていて、いつか里帰りしてこないか。

 可能性は殆どないと分かりながらも、中学に入学する直前までの春休みは丸々通い続けた。 


 大雨の日、さすがに自転車は走らせなかった。

 それがきっかけで数週間赴かず、やはり寂しくなって出向いた時、麗美の家は綺麗な更地になっていた。

 思い出ごと消えた気がして、そこで初めて俺は泣いた。

 多分、あの時初めて麗美がいない現実を実感したんだろう。


 中学に入学すると、忙しくなったこともあって麗美が住んでいた場所には寄らなくなった。

 頭が初めて別のことで一杯になり、麗美のいない中で馴染む方法を模索していたのもある。

 だけど麗美を通じて友達作りをしていた俺は、一年のクラスに馴染めなかった。

 部活は珍しいハンドボール部だったが、それも学校では大した助けにはならなかった。


 そこで出会ったのが──


 ◇◆


「柚葉由衣」


 羽瀬川先生の口からフルネームが飛び出し、眠気から覚める。

 どうやらウトウトしていたらしい。


「また遅刻か。柚葉と仲良い人、注意しておいてくれ」


 一部のクラスメイトがこちらを見たが、すぐに視線を逸らした。

 柚葉と恋仲という噂はすっかり消えて、もう過去のこと。

 柚葉と仲良い人なんてこのクラスには沢山挙手したい人がいる。

 クラスというより、この学校にはといった方が正しいかもしれないけど。

 それでも、一番乗りであれば自分が声を掛けたい。

 理由は単純、友達だから。


 チャイムが鳴って、朝礼が終わる。

 皆んなが一時間目の準備に取り掛かった時、タケルがクルッと振り返った。


「お前なんも聞いてねーの? 柚葉さんと仲良いのに」

「全く聞いてないな。俺は毎日連絡取り合ってる訳じゃないし」

「あっそうなん? お前でそれじゃ、案外ダブる説あるのかもな。止めてくれよー、"クラスの太陽"なんだからさ!」

「まあ……俺で良ければ止めとくけど、もっと適任いるとは思うぞ」


 柚葉は四、五月だけで七回も遅刻をした。

 一時間目に間に合うならいいが、朝ゲキ弱の柚葉にはそれも難しいようだ。

 確かにこの調子なら、留年したっておかしくない勢いだった。


「柚葉もさすがに出席日数とか計算してると思うしな。でもまあ、言えたら言っとくわ」

「計算してたらいいけど。つーか意外だよなー、柚葉さんが朝弱いって。いかにも"朝から元気溌剌!"ってキャラじゃん? 太陽だし!」

「その太陽ってネーミングは柚葉が自称してる訳じゃないけどな。あいつザ・ギャルだし、どっちかというと夜型だろ」

「それはそーだけど! ギャルはギャルでもザ・オタクにも優しい系だし、そりゃー太陽扱いされてもおかしくねぇだろ!」


 瞬間、ガラッと教室の扉が開いた。


「おお……噂すれば、太陽サンのおでましだ」


 タケルはそう言って、ロッカーに教科書を取りに行った。

 残れよと言いたいけど、気持ちは分かるぞ。

 タケルの逃走を合図に、俺は席に座った柚葉の元へ歩を進めた。

 決して太陽とサンが掛かっていることに寒くなった訳ではない。

 柚葉は俺の顔を見る前に、机にうつ伏せになってしまった。


「おはよ」


 俺が声を掛けると、柚葉は気怠げに顔を上げる。


「……んあ。吉木か」

「おう、おはよ。柚葉はまた寝坊か?」

「そー、昨日寝るの遅かった」

「留年するぞマジで」

「うっさい今ほっといて……」


 柚葉はそう返事をして、ベチャッと机に顔を埋めた。

 たまに柚葉はこんな感じで不機嫌になる。

 "柚葉由衣のモーニングモード"と俺の中だけで呼んでいる。

 先生には笑顔を作るので、柚葉が気を許している人にだけ起こす現象だ。そういうことにしているだけだけど。そっちの方が嬉しいし。

 なんにせよ、柚葉の性格まで変わった訳じゃない。


「なあ、柚葉」


 苗字を呼ぶと、柚葉は「なに……」とおもむろに視線を合わせた。


「コーヒー飲みに行くか? 中庭行こうぜ」

「……あー、ありかも? ……うん、行きたいかも」

「よし、行くか」

「ういー」


 案の定、ちょっとだけ陽気になった柚葉は腰を上げた。

 視線を感じて、横を見る。

 麗美が女子たちと話しながら、俺がどこに行くのか見ているようだった。


「……どったの?」

「……あー、いや。なんもない、行くぞ」


 そう返して、俺と柚葉は教室を出た。

 麗美には後で言っておこう。

 柚葉と教室で二人抜ける時は、大抵遅刻するって。


 ◇◆


「眠気覚めたか?」

「んー。……覚めた。ごめん、あんがと」


 柚葉はクワッと欠伸をしてから、空き缶を捨てた。

 高校に入ってから明らかに遅刻が増えた柚葉には、カフェインを摂取させるのが手っ取り早い。

 時折奢らなくちゃいけないのが玉に瑕だが、日頃お世話になっているのでそれくらいはしなくちゃいけない。

 まあ柚葉本人は世話なんてしてるつもりないだろうけど。

 なにより、留年されるよりマシだ。


「柚葉、高校に入ってから遅刻多いぜ。先生から柚葉に注意しろって頼まれちゃったぞ」

「えー、ヤッバ。私もーそんな扱いになったか。先生今年が初めての担任って言ってたし、私に鍛えられることに免じて何とか見逃してくんないかなー」

「どの立場で言ってんだ、アホか!」


 柚葉は「吉木きびしー」と小さく笑った。

 本人は冗談なんだろうが、先生が聞いたらカンカンになりそうだ。

 少し時間を置いた後、柚葉は肩をコキッと鳴らす。

 制服の上から羽織ったパーカーから石鹸の香りが漂った。


「そーいや、昨日二階堂さんとはどんな感じになった?」

「あー。無事一緒に帰れたぞ」

「えっ、やんじゃん。それで、その後は? やっぱ脈ありだった?」

「別に何もないよ。皆んなの憧れになりそうな女子に変なことできるか」


 そうじゃなくてもできないけど。

 俺の返答に柚葉はかぶりを振った。


「皆んなの憧れって、花園サンがいるじゃん。二組の憧れ枠はあの子っしょ」

「うーん」


 確かに花園はクラスを飛び越え、学年男子の憧れ枠にも入りつつある。

 あいつ可愛いよな、という話題には決まって名前が出る。

 もはや殿堂入りしているので、花園の名前を出したら安牌で面白くないという扱いをされてしまうほど。

 昨日クラスの男子が二階堂にあからさまに詰め寄らなかったのも、花園にその姿を見られたくないという男心があるからだろう。


 しかしまあ、柚葉も憧れという枠では同じだ。


 実際に花園が裏天使などと呼ばれていることから、表では柚葉の方が人気のあるだろうし。

 男子の中で花園はクラスで二番目という認識でも、当の柚葉からみれば一番に思うのかもしれないが。

 何にせよ、それらを柚葉に伝えるほど下世話じゃない。


「花園は確かに憧れとは言われてるけど、それよりも隠れファンが多いって方がしっくりくるかもな」

「ふーん。確かに、ヒソヒソ可愛いって言われてるイメージかも」


 柚葉は納得したように頷いてから、小さく口を開いた。


「……私はなんて言われてる?」

「……ん、これは誰かから言われてる訳じゃないけど。俺は毎日会えるアイドルギャルって思ってるぞ。柚葉を中心に皆んな繋がれるし」

「……そっか。吉木にそー思われてんなら、ちょっとは頑張ってる甲斐あんね」


 柚葉は口角を上げた。

 我ながら言い得て妙だったな。

 アイドルギャルにツッコまれないのはびっくりだけど。


「花園さんっていえば、吉木って中学の頃から塾同じじゃなかったっけ」

「まあな。今は授業全く被ってないけど」


 だからクラスが同じになった今でも、花園に話しかけるのは勇気がいる。

 花園には不可侵というのが、最近の男子における暗黙の了解になりつつあるから。この前俺が周囲を警戒したのは、そういう理由もある。


「そんならもっと教室で喋ればいいのに。そのために中学の時よりイイ雰囲気にしてるんだから」

「それはありがたいけど。男子にも色々あるんだよ」

「吉木なら大丈夫だって」

「何を根拠に……」

「根拠あり。私が見込んだ友達だし?」


 柚葉はニッと口角を上げた。

 ……花園とは中学時代にイイ感じになったことがあるなんて言っても殆どの人間は信じてくれないだろうけど、柚葉だけは信じてくれるかもしれないな。

 仮に妹に言えば、「それ全然イイ感じじゃなくない!? 勘違いキッショ!」と罵られるけど。


「でもまー実際問題、二階堂さんの方が幼馴染の分、脈アリぽいよね」

「アホ。花園はもちろん、二階堂だって全然脈ねえよ。昨日だってな──」

「なんで? 昨日言ったじゃん、目で追ってたって。どー考えても脈アリっしょ」


 ……目で追うから脈アリか。

 男子の視線の先にいるのが柚葉由衣なら、そうなるのかもしれないけどな。

 能天気な返事に、俺は溜息を吐いた。


「なあ」

「なに?」


 俺は空き缶をゴミ箱に投げた。

 綺麗な放物線を描いて吸い込まれる。

 柚葉は無邪気にパチパチ手を叩いた。


「おーっすごいじゃん」

「違う。今の目で追ったろ」

「え?」

「それと同じってことだ」


 柚葉は小首を傾げた後、ポンっと手を鳴らした。


「あー、吉木がゴミってことか!」

「ちっがうわとんでもない勘違いすんな!? 俺が動いてたから目で追っただけって例えだよ! 反射的に見てただけってことだ!」

「あはは、なるほどそーいうこと!」


 気持ち良さそうに笑いやがって、ほんとに友達かこいつ。


「ったく……じゃあ教室戻るぞ、もう授業始まる」

「えー、まだ一分時間あるよ。もうちょいココいない?」

「柚葉の感覚がバグってるだけだろ、普通はもう戻るんだよ!」

「ハイ出た普通。私にとっての普通が違うだけだから!」

「はいはい……」

「次はいはいって流したらキレっからね!?」

「すまんて!」


 いつものやり取りをしながら、俺は廊下へ歩を進める。

 次の先生は緩いから、遅れてもそこまで怒られることはない。

 あまり良くない思考になっていると、柚葉が声をかけてきた。


「ねえ、吉木」

「ん、どした」


 立ち止まって振り返る。

 柚葉は大きな瞼を瞬かせた。


「……私と友達で良かった?」

「…………当たり前だろ? あんま言いたくないけど、柚葉がいてどれだけ心強いか」


 俺の返答に、柚葉は目をパチパチさせる。

 そして。


「吉木って割とストレートに言ってくれるよね。そーいうところが好きなのカモ」


 と、微笑んだ。


「……そういうの、すぐ明け透けに言うなよな。それで勘違いしたらさすがに文句言えないんだぞ」

「別に、文句言う気ないし。本音言うくらいいーじゃん? 好きだよ、吉木との時間。気楽でさ」

「……?」


 柚葉、何かあったのかな。

 ……陽キャにも陰キャにも隔てなく接するクラスの太陽。

 その分、たまに疲労もあるのかもしれない。

 何の確証もないけど、そう思った。

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