第6話 チンパンジーと僕の間に

平日の動物園は今日もひと気がなかった。

僕は象のエリアを越え、けたたましく鳴く鳥たちのエリアを越えチンパンジーの檻へ着いた。

今日もチンパンジーの檻の前には誰もいなかった。

僕は檻と道を挟んで反対側にある2人がけのベンチに座り僕はチンパンジーを眺めた。先ほど飲んだビールによるつかの間の快楽は消え去り、二日酔いが再び僕を襲っていた。

頭を正中位に保つと気持ち悪いので頭だけを少し横に傾けて、ベンチに手をつき辛うじて座位を保ちながら小さな道を挟んだ向こう側にいるチンパンジーを見ていた。

頭を少し傾けるただけで世界が少し変わって見えた。

傾いた道、傾いた檻、傾いた床から滑り落ちないチンパンジー

チンパンジーのモナは相変わらず檻の中の日陰で地面をいじり暇をつぶしていた。

そこには人間関係が存在しなかった。

モナは自分の時間を過ごしていた。誰に質問されることもなく、誰に行動の説明をする必要性も無い様だった。


僕もああなりたい。


心の底から思った。

言葉のある世界が煩わしかった。

”大学生活は楽しい。”

”サークルで飲み会をすると楽しい”

などというような意図的に作られた幸せに対し嫌気がさした。自分が生きたいように生き、誰も干渉してこない環境で過ごしたいと思った。たとえそれが檻の中であっても。

しかし僕とモナの間には冷たくて硬い”鉄格子”があり、

”言葉を必要とする世界”。”言葉のいらない世界”とを分けていた。

急な嗚咽とめまいが再度僕を襲う。

頭を真っ直ぐにすると気持ち悪いため、相変わらず世界は横になっている。

「大丈夫ですか?」

近くで女性の声がしたのでその方を向く。

誰もいない。二日酔いもここまでくると幻が見えるらしい。

それもそのはずこの少し斜めになった世界には僕とモナ以外は存在しなかった。


モナは木の枝をもって地面を掻いている。その動作に目的はなく自由であった。


僕はもう少し近くでモナを見ようとベンチから立ち上がる

その物音に気付いたのかモナと僕は目が合う。初めてモナと目が合った。

その目は僕になにかいいたげだった。


僕は一歩一歩モナに近づく


モナは木の枝を持った手を止めじっとこちらを見ている。モナは何か僕に伝えたいのではないか。

言葉のある世界とない世界の境界へ一歩づつ近づく


モナは木の枝を床に置く。モナは僕から目を離さない。


モナの檻の前で僕は足を止めた。

目を疑った。

檻はあるが、こちら側の”鉄格子”がないのである。檻の後方や側方、上方の鉄格子は存在していたが、正面の鉄格子のみ綺麗に消えていた。直方体の一面だけ鉄格子がない。鉄格子のあるところとない所の境界を見ようとすると二日酔いの波が僕を襲い、焦点が定まらない。


モナが一歩ずつ僕に近づく。

だめだ、チンパンジーが逃げてしまう。

そう思いながらも僕は目の前の光景が信じられず一歩も動けなかった。

モナが近づいてくる。急に二日酔いの嘔気が強くなる。

僕はまだ動けない。

そしてモナは僕の目の前に立った。僕はモナの顔を見ようとするがうまく焦点が定まらない。

モナが立っているところはすでに動物園の”言葉を必要とする我々”の通る道の上だった。”言葉を必要とする我々”が動物の観察めぐりをするために設けられたコンクリート造りの道の上にモナは立っていた。

そしてモナの口のある方向から声がした。


「”言葉を必要とする世界”。”言葉のいらない世界”の間に鉄格子を作っていたのはあなた自身よ。」


そのモナの口のある方向から聞こえてくる流暢な日本語を聞いたとともにさらに激しい二日酔いが津波のように僕を襲い、僕は”言葉を必要とする我々”の通る道の上に嘔吐した。吐いても吐いても胃液が収まらなかった。このままでは”言葉を必要とする我々”が作成した道を不可逆的に穢してしまうのではないかと思ったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

体の中にある胃液をすべて吐き出すと体中の力が抜け寒気がした。

そのまましゃがみこみ、目の前が次第に暗くなっていった。

意識が遠のく中、何か大きな音がした。

しかしその音は僕が知っている類の音ではなくまったく新しい音であった。僕は記憶をたどり何の音か推測しようとしたがそのまま意識が遠のき道へ倒れこんだ。

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