第5話 石見生まれの医者、秦佐八郎
客間にピアノの音が流れる。弾いているのは夫人、ヘドヴィッヒだ。
エールリヒは上機嫌に髭をしごきながら音楽に耳を傾けていた。合間合間に調子っ外れの鼻歌が漏れ出る。
本業の医学・化学だけでなく、数学やラテン語にも卓越した才能を有する家長に、天は音楽の才までは恵まなかったようだ。
豊かな家庭とはこういうものか、とつくづく思う。エールリヒ家は裕福な方ではあるのだろう。だがもっと金持の家はドイツにも日本にも幾らもある。
そうではなく、この家では日々の生活の中に書物、音楽、食事が、それらを楽しむことが当たり前のように溶け込んている。他者に誇示し、自尊心を満たすためでなく。
時たま訪れる彼の二組の娘夫婦にもその空気は共通していた。楽しく豊かな暮らしを作り、受け容れ、過ごす感性。
不意に東京で自分を待つ妻子のことが頭を
「ハタ君。やはり606号が一番理想に近いな」
食後、エールリヒの書斎に場所を移せば自ずと話題は研究の事になる。最大の関心事である梅毒の特効薬、淡黄色の化合物に。
「はい、エールリヒ先生。ただ副作用の確認は十二分に済んだとは言えないのが……」
「やはりヒ素化合物だからな。動物では重大な副作用は出ていないが、人で治験しないことには本当のところは分からない。しかし世の梅毒患者の数を考えると、そろそろ臨床試験に取りかかった方がいいだろう」
小さなため息とともに呟いたエールリヒは窓の彼方、マイン川上空の月を見遣る。
「
エールリヒの信条だ。彼の側鎖説もここから導かれたものだった。
「世界や人類が果たして進歩しているのか、儂には分からない。ドイツとフランスの応酬を見てもな。ドイツはナポレオンの嵐を忘れられないし、フランスはビスマルクの鞭を忘れない。結果として翻弄されるのは国境沿いに暮らす人々だ……。わが郷里のように」
「頬を差し出す必要はないが、我々とパストゥール研究所のように競い合いつつ、姿は違えど同じ夢を見ることはできる筈なのだが。キタサトとイェルサンが競ったからペスト菌を迅速に特定できたように」
エールリヒの視線が遠くをさすらう。
「君に話したことはあっただろうか。アルトホーフという文部官僚は大学に女性の聴講と入学を認めさせるために尽力した。横柄で保守的な男は、人種や性別より能力を尊重するという点で、誰より急進的でもあった。教授陣の反対でどの大学でも難航していたが。その彼も今は亡い」
黙って師の言葉に耳を傾ける。女性が大学に進む、学位を取得する、考えてみたこともなかったと内心狼狽しながら。
今後606号の実験室での改良だけでなく、実社会における普及を目指すなら、更なる負担がきっとこの小柄な紳士に降りかかってくることだろう。子どものように純粋で楽観的な、生まれながらの学究の徒に。
至る所に読みづらい字のブロックメモを撒く、しょっちゅう手紙を無くす、カフスに手を焼き、ボタンに焦れる。実務処理や雑事が大の苦手の突き抜けた異才。愛すべき変人。
偉大な科学者、己を知ってくれた人、その名の通りehrlich(誠実な)師のために自分は何ができるだろうか。
たどり着く結論はいつも一緒だった。
「先生、治験を進めてください。私も改良に力を尽くします」
「ありがとう。儂は幸運だな。君のような誠実で忍耐強くて信頼できる、腕の立つ共同研究者を得られて、本当に運がいい」
「梅毒および回帰熱スピロヘータに対する魔弾となり得ると考えています」
その揺るぎない確信。誰も想像だにできぬ未来を見る眼差し。
病原菌に結合して無毒化する化学物質を探そうなどと、他の誰が考えつくだろう。
そんな天才が自分を信じてくれた……!
何時か報いることができるのだろうか。日本とドイツ、遠く離れても。
母国への帰路、フランクフルトで過ごした月日を反芻する。
マイン川に射す朝日と小鳥の囀り。並木道を往来する馬車の蹄の音、馬の嘶き。
エールリヒ家の団欒。食欲をそそるソーセージの匂い、コーヒーと紅茶の香り、暖炉の温かさ。夫人の指が紡ぐピアノの音。
広い実験室を埋め尽くす実験動物と化合物の独特な匂い。大柄な男たちの野太い声が鋭く議論を戦わせる。博士に予定を念押しする秘書の女性の声。当惑したような博士の返事。
夜更けの研究室を施錠する時、鍵と鍵穴が奏でる鋭い金属音。石畳を叩く自分の靴音。
人種、母国、宗教、言葉、年齢、目や髪の色も何もかも違う。けれど十数か月心を一つにして理想の薬、まだ見ぬ世界を共に追った。
どれほど感謝しているか。傍を去ることがどんなに寂しいか。
石造りの壁に響くあの声、あの言葉。
「Corpora non agunt nisi fixata! (結合なくして作用なし)」
博士の口癖、あのラテン語の響きが脳裏を離れない。
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