第4話 ディンスラーケン生まれの官僚、アルトホーフ

 「君はアルトホーフという役人を知っているかね?」

「え?いえ、全く」

突然変わった話題についていけず、志賀は目を瞬かせる。科学分野ならいざ知らず、異国の行政事情にこれまで目を向けたことはなかった。

「プロイセン文部省の局長、審議官だ。大学行政を20年以上担当していて、『文部省のビスマルク』と揶揄される傲岸不遜な男さ。畏怖もされるビスマルクと違って、傲慢なプロシャ人と戯画化され嫌われることが多い。事実無根の噂ではない。自分で呼びつけておきながら、しばしば庁舎の待合室で『人は希望を胸に抱きながらも、この部屋の中で、次第に年老いていくのだ』という詩の下に何時間も人を待たせるのだから」

「ーーだがその彼が、わが生涯の恩人だ」

「え?」

志賀は混乱した。さぞ間抜けな表情を浮かべていることだろう。話の筋が分からない。


 「彼は優秀な若い研究者にポストをあてがうために手段を選ばない。時には財務大臣の親友の学者のため教授昇進を強行して大臣の心証を良くし、その返す刀で病院の改築予算を認めさせたりした」

「……」

「偉大なパスツールやコッホ先生が自宅で研究を重ねていた時代から50年やそこらで、科学実験は恐ろしく人手や設備を必要とするものになったからな。彼は儂のために二度研究所を新設し、所長ポストを用意してくれた。この地位にあるから、君のように優秀な人間を他国から招ける」


 「シガ君、人はいつも公明正大でも卑劣不公正でもあるわけではない。家族にも同僚部下にも慕われる紳士が、同時にユダヤ人を学問共同体から排除するために手を尽くすことがある。かと思えば国民や同僚上司に煙たがられる尊大な男が、当面金になりそうもない基礎研究のため、ユダヤ人の若手に研究環境を与えるために粉骨砕身したりする」

「奇妙なものだ、人も社会も」

「資金に研究成果が大きく左右される自然科学と違い、社会科学や人文科学の分野では彼の恣意的な人事行政は功罪がより露骨なようで、最近はマックス・ヴェーバーという気鋭の学者に猛烈に批判されているようだが」

エールリヒは首を小刻みに振りながら苦笑する。一言ずつ考えながら語る言葉はシレジア訛りが強く出ていた。

「社会正義も時代によって変わる。ユダヤ人に対する差別が今よりひどくなるか、ましになるか、それさえ予測することは不可能だ。儂の人生と研究はそんなことで揺り動かされる。体に流れる血は自分でどうにもならんのに」

壮年のドイツ人はまた苦く笑う。生まれついての楽天家である彼のそんな表情は珍しかった。


 志賀は故国に思いを馳せる。

ーーしばしば帝大と揉める北里先生もこういうことに悩まされ、振り回されていたのだろうか?我々の視界に、意識に入っていなかっただけで。

福沢先生に対する北里先生の敬愛はエールリヒ博士のアルトホーフ氏に対する感謝と相通じていたのだろうか。

学歴の違いによる駆け出し学者の待遇差を思い出す。

更に学問など決して望めない場所に生まれつく多くの子どものことを。自分も親戚の養子にならなければ、大学や医者など高嶺の花だった。


 「……自分でどうにもできないことを悩んでもしようがない。反対に我々にできること、変えられることも数多い。科学の時代が始まるまで天然痘は死の病だった。病を予防することも、根絶することも望むべくもなく、回復するかは運次第だった」

「先人の肩の上に乗って、我々はより遠くへ手を伸ばせる。儂は近い内にスピロヘータの化学療法を探すつもりだ」

「え?」

「汽船に鉄道、交通機関が発達すれば病が広がるスピードも上がる。ましてや頻繁に戦争が起こるなら尚更だ。梅毒は戦時に蔓延する……だったら戦わずして外交で何とかすればいいのにな。科学は進歩している、紛れもなく。人類もそうありたいものだが」

「君は間もなく帰国するが、また優秀な若者が日本から儂の下へ訪れてくれることを願っている。時代が必要としているなら、そういう幸運もきっとある」

「シガ君。わが共同研究者、親愛なる友。君の未来に幸在らんことを」


 「エールリヒ先生。御恩は決して忘れません」

差し出された手は長年の実験で染料が染み付き、温かかった。その手を握りながら、生真面目な東北の男は俯き、唇を噛むようにして言葉を押し出す。

彼らの共同研究はこれが最後ではなく、エールリヒの晩年に再会するのだが、この時はどちらもそれを知らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る