第3話 仙台生まれの細菌学者、志賀潔

 「うん、うん、シガ君、君の実験手腕は大したものだ!わが友、キタサトの事を思い出すなあ」

「彼が『破傷風菌の純粋培養に成功しました』とジャガイモの芽でも取り終わったかのようにあっさりと報告してきた時、耳を疑ったものだ。何せ先輩同僚が何年も悪戦苦闘していたのを知っていたからな。嫌気性の菌をその特性を活かして純粋培養する、その着想が素晴らしい!実現できる正確な技術と細心もな」


 フランクフルトにある実験治療研究所、その一室に強い葉巻とアニリンの匂いが漂っていた。所長であるエールリヒは度を越した愛煙家で、特にハバナ葉巻の愛好者だった。

「コッホ先生の愛弟子、彼は実に先生そっくりだ。頑固で慎重で熟練した実験の名手!まあ彼は先生より気短かだが」

志賀は恩師のびりびりと空気を震わせる怒鳴り声を思い出し苦笑する。

「ええ、私たち弟子は北里先生のことをder Donnerと呼んでいました」

「ははは、雷か。なるほど」


 「研究には4つのG、Geld、Geduld、Gl ü ck、Geschick(金・忍耐・運・熟練)が必要だといつも儂は言ってるだろう?忍耐を備えた練達者、君を得てようやくトリパンロートは日の目を見たのだからな!」

「身に余るお言葉です、エールリヒ先生」

「事実なのだから、謙遜する必要はない。機械のように正確に何十、何百回と同じ作業を繰り返しながら、一回一回の反応の違いを見出すことができる、それこそ人間だ。そういう者がいるから化学は発展するのだ」

「お褒めいただき恐縮です。私の技術が先生のお役に立ったなら何よりです」

「謙虚すぎるぞ、君は。もっと胸張って功績を誇りたまえ。そうじゃないと研究費が降ってこないぞ?」

度の強い眼鏡の奥の片目が茶目っ気たっぷりに瞑られる。


 「この研究所は北里先生の伝染病研究所に似ています。風通しがよくて活気があって」

「そうかそうか!ところで君、儂は今、ここの所長だ。その前に42歳から3年間、ステーグリッツで血清研究所の所長をしていた。さてそれ以前は何をしていたと思う?」

「え?どちらかの大学で教授をなさっていたのでは?」

志賀は訝し気に返答する。

「そう思うだろう?ところが儂は所長になる前は員外教授しかやったことがない。自分の研究室も助手も持てない職位だ。あとは客員研究員」

「ええ⁉」

「ちょっと長い昔話をしようか。かけなさい」

そうは言っても、エールリヒは大変に片付け下手で、書類や本の山が載っていない椅子は室内に存在しない。

小柄な日本人は何とか椅子の腕に尻を載せ、座った態を装った。


 「儂はシレジア生まれのドイツ人だが、ユダヤ人でもある。そして多くの国でユダヤ人は公的な地位から締め出される」

「……」

志賀は息を呑む。富国強兵の手本と仰ぐドイツの違うかおを見せられるのだ、という予感に肌が粟立った。

「ユダヤ人の家庭は教育熱心なことが多く、進学率は高い。試験の合格率も」

「ところで高い地位に就くためには、能力だけでなく空席の有無という時の運も要る。まあ当たり前だが。加えて候補者の俎上に載るためには他者の推薦が必要だ。ここでユダヤ人は暗黙の了解で外される。社会に出て思い知った」

いつも闊達なエールリヒの顔に苦い笑みが浮かぶ。

「同胞に比べてきっと遅い認識だ。祖父は地方の名士で、若い頃はさほど出自を気にせずにいられたのだから」



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