第2話 シレジア生まれの医学者、エールリヒ

 時は春、木々は芽吹き、ライン川の水面に朝日が降り注ぐ。駒鳥のさえずりが澄んだ空気を震わせる。

古来よりその温泉で名高いドイツ西部の保養地、ヴィースバーデンは活気づいていた。

開催される国際内科学会のため、世界各地から医者、学者が続々と集まってくる。ホテルやレストラン、居酒屋や露店も稼ぎ時を逃すまいと準備万端だった。

1910年4月19日。

この日この場所から何が始まるのか、正確に見通せた者は誰もいなかった。

パウル・エールリヒと秦佐八郎、主役の彼ら自身でさえも。


 「実験治療研究所所長のパウル・エールリヒです。本日この場を借りて我々が報告する化学物質はジオキシ・ジアミド・アルゼノベンゾール、別名エールリヒ=ハタ606。最初に私が開発の意図とこの化合物に的を絞った経緯、現時点での到達段階について説明します。次に共同研究者、ハタ氏が実験動物での試験結果を報告、最後にマグデブルグ病院のシュライバー医師が臨床試験における人体への作用と効果をご説明します」

エールリヒは一瞬言葉を切る。眼鏡の奥で灰色の瞳が強く輝く。

「ーー我々はこの化学療法が人類の宿痾の一つ、梅毒および回帰熱スピロヘータに対する魔弾(Zauberkugeln)となり得ると考えています」

口髯、顎髭に眼鏡、背広は清潔ではあるが流行などどこ吹く風の古色蒼然。ドイツ人にしては相当に小柄な彼の早口の説明に誇りと自信が漲っていた。


 会場全体が水を打ったように静まり返った。あくびの途中で開けた口を塞げず、固まってしまった聴衆もいる。

わずか二年前にノーベル生理学・医学賞を受賞したばかりの気鋭の研究者、エールリヒ博士の報告は始まる前から多くの参加者の注目の的だった。

それでも報告が進むにつれ、会場内の興奮と熱気はいや増す一方、噴火寸前の火山のようだった。抑えた感嘆の叫び、鉛筆が紙の上を一心不乱に走る音が至るところから聞こえてくる。


 続いて秦の報告が始まる。東洋人の報告者に幾人かの参加者から戸惑いの呟きが漏れた。北里きたさと柴三郎しばさぶろう志賀しがきよし、エールリヒがこれまで何度も日本人と一緒に仕事をしてきたことを知る者にとっては意外でもなんでもなかったが。

黒髪短髪、薄い瞼の黒い瞳、髭もなく彫りの浅い一見表情に乏しい顔。小柄な体躯に強弱抑え気味のドイツ語。

男の控えめな佇まいに「学生じゃないか?」と半信半疑で耳を傾けていた聴衆は報告が進むにつれ驚愕の念で目を見開く。

「アトキシールを投与、…日後マウスは・・・アルセノベンゾール投与、…日後」

秦が淡々と述べる実験の手順と量と経過に、敏い化学者たちは目を見張り、息を呑み、首を左右に振る。

凡そ一人の人間がその期間でこなせる質と量ではない。だが聴衆の半信半疑の眼差しを他所に、秦の冷静な声には自分が成し得た仕事に対する堅固な自負が鳴り響いていた。


 エールリヒが秦の報告に耳を傾けながら、しきりに頷く。

「そう、その通り!」、「いいぞ!」、「すばらしい!!」

口髭の下から感嘆詞が漏れ出る。

彼の眼差しは共同研究者に対する信頼と満足に満ち満ちていた。

その表情を見れば、この小柄な日本人は自分で説明している通りのことをやってのけたのだと信ずる外なかった。


 発表が終わるや否や、会場は興奮のるつぼと化す。

「梅毒の特効薬だと⁉信じられん!!歴史を変える大発明だぞ!」

「さすがエールリヒ博士!またしても快挙!もう一度ノーベル賞取るんじゃないか?」

「あの東洋人がハタか?一体何者だ⁉」

その中で一人の記者が質問を投げかけた。

「エールリヒ=ハタはお二人の名前に由来するとして、606という数字は何を意味するのですか?」

「我々がスピロヘータに対する有効性を試験した606番目の化合物だからです」

再び会場がしんと静まる。


 薬の開発と試験に時間と手間がかかることは皆薄々勘付いていた。それでも606という数字の大きさに二の句が継げなかったのだ。

生成された化合物は試験管やシャーレで化学反応を確認されつつ、感染させた鼠や兎などの実験動物で試験が行われる。生体反応を確認したら再び化学実験の追試が行われる。有望だと判断されたら、猿のような霊長類でも試される。

そうしてようやく最後に罹患者で治験され、安全性を高めるため、更なる実験や改良が行われる。

気の遠くなるような長い時間、呆れるほどの手数の繰り返し、想像を絶する落胆と失望の連続、その果ての606番!

報告の最後に、エールリヒは秦に向って大きく頷いた。灰色の瞳が満足気に輝く。秦は顔を上気させ、恐縮する。


 ーー石見、岡山、東京、満州、広島、大阪、ベルリン、そしてフランクフルト。

エールリヒ博士の下、矢のように飛び去った一年数か月。

天王星のような人だと思う。何を探しているのか、それさえ正確に分かっていない人類の前に忽然と現れる輝く星。

この星はどんな軌道を描くのだろう。どこまで辿り着けるのだろう。

その眼に映る未来はどういう姿形なのか。

共に働けて、なんと自分は幸運だったのだろう。

魔弾の実現、きっとこの時のために自分は天に生かされてきたのだ……!

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