魔弾の助手ーDie Mitarbeiter in die Zauberkugeln―

楢原由紀子

第1話 己を知る人に

 姿勢の良い、小柄な短髪の男性が現れた瞬間、実験室に緊張が走った。

はた先生⁉何か御用ですか?」

志賀しが君から君がモルモットの頸静脈注射の工夫を考案したと聞いてね。私にも見せてくれるかい?」

「は、はい」

(わざわざそのために先生が此処へ⁉落ち着け、慌てるな、俺!無心だ、無心。モルモットだけを見ろ!)

若い軍医は手の震えを必死に抑え、緊張の中、注射を行う。

「なるほど、よく考えてある。どうも有難う」

伝染病研究所第三部長、秦佐八郎はたさはちろう博士は丁寧に礼をし、去っていく。

「んあ~、緊張した~!!」

「おい、お前すごいな!秦部長ってあのサルバルサンで有名な人だろ。向こうから声かけられるなんて!」

「あー、全てお見通しみたいな鋭い視線意識しながら注射すんの、生きた心地しなかったわ。今ごろ手が震えてきた……。でも俺みたいなひよっこにあんな丁寧にお礼言ってくれるなんて思わなかった。なんつうか、すごい人だなあ」


 「君、やってみたまえ。腰椎穿刺ようついせんしは動物で稽古しただろう?万一うまくいかなかったら私が代わるから」

(あの猿は僕の訓練のためだったのか。そのために頭を下げて借りてくれたのか、先生が。どこからか都合よく実験動物が現れたもんだ、とあの時思ったけど)

北里研究所の新人所員は込み上げる熱いものを呑み下し、眼前の患者と自分の手元に全神経を集中させた。


 「君の論文の校閲を済ませた。紙数を少なくし紙の節約をするとともに、冗長なものを人に読ますは礼を失すると心得なさい」

「は、はい、先生。有難うございました!」

師弟の会話を耳にした旧友が二人きりになってから忠告する。

「秦君。多忙な君が弟子や学生の論文で校閲乞われるもの全部引き受けなくても」

「これも仕事の内だ」

「できる奴のところに仕事が偏るのは世の常とはいうものの、君ちょっと滅私奉公過ぎやしないか?自身の研究に、梅毒・結核の予防啓蒙活動、加えて研究所の財務改善・血清薬剤の製造販売促進も担当してるんだろ?その上に他人の論文校閲も手ずからなんて。体が幾つあっても足らないだろう。いくらなんでも北里研究所に首ったけすぎないか?」

「己を知る人の為なら命を捨てても尽くさねばならないものさ」

「……そうか」


 同郷出身の官僚は目から鱗が落ちる思いで初老の医師の横顔を見つめる。

短く刈り上げた髪には白髪が混じる。髭一つない綺麗に剃刀を当てた顎と頬、大きな耳にやや尻下がりの眼、平均より小柄な体躯。

とかく若く軽く見られがちな容姿の印象を真反対に覆すのは、軍人のように伸びた背筋と対面を射る鋭い眼光だった。太刀や脇差のようには目立たないが、この上なく鋭利な短刀のような。

口数は少ないが、一度ひとたび口を開けば争点を逃さず、広範な知識に裏付けられた明解な弁に圧倒されるのが常だった。特に数字の使い方が綿密で、他者の追随を許さない。

またどんな作業であれ、彼ほど正確に素早くこなせる人間はそうそういない。手先の器用さ、空恐ろしい集中力、呆れるほどの根気、不測の事態への機転を併せ持つ。

味方であればこの上なく心強く、甘く見れば必ず後悔させられる男。若い時からずっとそうだった。だが。


 ――ああ、それが君の核なのか。万事得心した。長い付き合いなのに、君を全く知らなかったんだな、俺は。厳しさの奥にそんな熱誠を秘めているのか。理詰めで冷たいようで、君は……


 恐慌の余波が世界中を揺さぶり続けている。日本と中国の間で長い闘いの戦端が開かれようとしていた。

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