6.下駄の怪
「姉さんが妖怪の本読んでるなんて、意外ですね」
「そうかい。いたら面白いじゃないか」
「それらしい生業なのに」
「こんな面白可笑しい恰好のもんには出会ったことないねぇ」
縁側に貸本屋の男が腰掛けて、寝そべる師走をからかった。
境内に建つ小屋に、貸本屋が通い始めたのはずいぶん前になる。
師走が読み書きができるようになったのは、ひとえに惹きつけられる挿絵の入った本にあった。
春の陽気は師走の白い小袖に木陰を落としている。
「それはそうと、兄さん。いつもの下駄じゃないね」
「あぁ、あれなぁ」
「いいつくも物だったじゃないか」
「そうなのかい」
初めて聞くことに貸本屋は目を丸くする。
師走は体を横にずらして、腕枕をした。
「意地の悪い人だなぁ。教えてくれてもよかったろうに」
大あくびをした師走は、体を丸めて瞼を半分開けた。
「ま、自分の持ち物に意思があるなんて、聞いて気持ちのいいもんじゃなかろ」
貸本屋は難しい顔をして言葉を詰まらせた。
師走は瞼を閉じて続けた。
「それで、前の下駄捨てちまったのかい」
「いや。それが最近履き心地が悪いというかな」
「どこか欠けでもあるのかい」
「それがな。歩くほど、重くなるんだよ」
男は語った。
その下駄は男が独り立ちするために町へ出てきた時に安く買ったものだった。
値段の割に作りはしっかりとしており、実際履き始めると足裏にしっくり馴染んで疲れにくい。
男は馴染の客はもちろん、新規の客も迎えるために長屋から長屋を一日中歩いて回っていた。
師走も客の一人である。
ところが、数日前。
「ありゃ、足が」
歩いていると、次第に足に違和感を覚え始めた男は、橋のたもとにある大木の木陰に腰を下ろした。
下駄を脱いだ足は、丁度鼻緒のところで衣擦れを起こし、薄皮はめくれ赤く血が滲んでいる。
「参ったな」
まだ本の届け先が残っていたが、一度気が付くと痛みで履く気が起こらなくなった。
そこで、近くを通った小坊主に小遣いをやって、外歩き用の足袋を買ってきてもらったのだった。
こうしてその日は凌いだものの、翌日傷が癒えたので馴染の下駄を履いて歩いていると、やはり足に違和感が出始めた。
鼻緒に足の指が擦れる上、どことなく下駄が鉛を底に張り付けたように重くなっていくのである。
そして、昨日不調のために休んだ橋を越えようとすると、決まって重さは足を持ち上げられないほどになり、仕方なく足袋を履いて渡るしかなくなった。
使い勝手が悪くなったとは言え、職を始めたころからの付き合いということもあり、男は店で新調した下駄と一緒に玄関口にそれを並べている。
「なるほど。買った店っての、覚えてるかい」
「そりゃもちろんだ。お前さんと商売仲間のお婆の古物屋さ」
両腕を空に伸ばして眠気を飛ばしていた師走が静かに首を男に向けた。
「あそこはいい物が置いてあるな。色々世話になってるよ」
「そうかい」
「どうした。変な面して」
師走は古物屋から買われた物のうち一体いくつが、こうして主人に反抗したりしているのかと思うと、げんなりするのであった。
「なんでもないさ」
師走は、男に向き直った。
「今度来るとき、その下駄を持ってきておくれ。見てみよう」
「お安い御用だ」
「それと、お婆にもどこから買ったのか聞いてみる」
「ありがてぇ。で、依頼料はいくらだ」
師走は口を開きかけて、少し思案した後、受け取ったばかりの貸本を手に持って左右に振った。
「5冊分、タダにしておくれ」
「元は下駄じゃないよ」
古物屋で茶を飲んでいた師走は、店じまいを終えたお婆に事情を聞こうと上がり込んでいた。
お婆は帳簿に目を通しながら、丸眼鏡をかけている。
「売りに来たのは駆け出しのひよっこ職人だったよ。なんでも材料の木材から自分で集めて作ったって言ってたね」
「その木材、拾い物だったのかね」
師走が湯呑の中の茶柱を見つめて聞く。
お婆は片目で見遣ってから、帳簿をめくった。
「そういえば、同じころに洪水があった。覚えてるだろう。隣町まで渡る橋が壊れた時だよ」
「あぁ覚えてるよ。その隣町も水浸しになって、店が何件もつぶれたって話だったね」
「いい職人がたくさんいたのにね」
そこにお爺がひょっこり顔を出した。
手に持った丸盆の上に、生菓子が3つ乗っている。
師走は目を輝かせた。
「爺様、それ、くれるのかい」
「うん。いいぞ、好きなのを取りな」
「また高いもんを買いおって」
お婆の小言を聞きながら、お爺は柔和な表情は崩さず、文机にお婆の分も置いた。
師走は一口食べると、頬を綻ばせた。
「美味しいねぇ。どこのだい」
「今度連れて行ってあげよう。さっき話していた下駄職人にも心当たりあるからね」
「お、さすが爺様」
そう言って、残りの菓子を口に頬張り上質な舌触りに笑みを深くした。
「持ってきたぞ」
男が下駄を持ってきたのは、珍しく小雨降る日であった。
玄関からすぐに部屋へと招き入れ、師走は乾いた布を貸してやった。
「かたじけない」
そういって、男は腰に括り付けていた荷袋の紐を解いて、師走との間に置いた。
袋の口を開くと、使い込まれた下駄が顔を出した。
師走は下駄をまっすぐ見下ろしてから、恭しく手のひらに置いて持ち上げ、眺めた。
一枚の木から刳り抜かれて作られたであろう下駄は、職人のこだわりを思わせる。
「この材料、特別分厚く、いいものだったらしい」
「分かるかい」
「修繕屋もしてるからね。この一点物は直すとなったら大変さ。特に色合いは似た木を探してもまったく同じには戻らない。確かにいい品だ。それに、ほころびもないね」
「え、じゃあなんで」
師走は下駄を見つめてから、噛み締めるように唇を口内に含み、やがて小さな笑みで返した。
「分かった気がするよ。兄さん、明日まで預かってもいいかい」
「いいぞ。なぁ、師走の姉さん」
「うん?」
「そんな顔しなさんな」
「どんなだい」
男は眉尻を下げた。
「誰か死んだみたいな顔だ」
師走は苦笑を浮かべた。
師走がお爺に伴われてきた生菓子の店を訪れると、店番は快くお爺に今日のお勧めを説明し始めた。
顔馴染のようで、言われるままその品を3つと師走に選ばせたいくつかを指して、常より多めに買い込んだ。
「何か、いいことでもあったので?」
「いや。ちょいと旦那に聴きたいことがあってな」
「なるほど、それで。では伝えてきますんで、そちらで休んでいてください」
店番の男は店で飲み食いできる席を指してそういった。
「恩に着るよ」
客の二人はそのまま席について、日の沈みかけた店内で熱い茶と菓子を食べて待った。
しばらくして職人と思われる男が暖簾をくぐってお爺に頭を下げた。
「いつもありがとうございます。それで私に何か用とかで」
「うむ。旦那、この子が先だって話していた師走だ。ちょいと昔の下駄について聞きたいらしい」
師走は顔を合わせると、風呂敷に包んだ下駄を台に置いた。
親爺は近くに腰掛けると、布を丁寧に解いた。
そして、一目件の下駄を見るなり、驚きに目を見張り、恐々指先で触れて確かめた。
夕暮れが下駄に影を落とし始めていた。
「私の家は、代々下駄職人でね。私も子供のころ、職人目指してました」
親爺は、武骨な両手で下駄を持ち上げ胸に抱くと、しみじみと語った。
親爺には商売敵の店があった。
例の橋を隔ててすぐのところにその店は建っており、どちらが先に客を取るか取られるかで競い合い、結果技も磨かれ、どちらも他の店より数段出来のいい下駄を作る事で有名であった。
特に跡継ぎだった倅たちは、来る日も来る日も喧嘩したり、腕を競い合っていた。
「見て、今日も二人して下駄つかんでにらめっこしてるよ」
「本当だ。可愛らしいねぇ」
日々、訪れる客にとって倅たちの言い争いは可愛らしい活気であった。
当人達はいたって真面目であり、懲りずに同じようなことで口喧嘩をしていたが、ある日、親が掲げる看板が話の中心になった。
「お前な、家より己の腕だろ」
橋むこうの倅に、街の倅が言う。
「それもそうだが、見な。あの立派な看板。あんなにでかい看板を俺たちは毎日掲げて商売してんだぜ」
「こちとら店は小さかろうと物の良さで客集めてるんだ。こっちのが上だね」
「なんだと」
店の格、実力、あらゆることを重箱の隅をつつくようにして見つけては争う口実にする。
こうして火花散らせる倅たちではあったが、彼らは同じモノづくりを極める者同士、固い絆のようなものを持ち合わせ、口にこそ出さがないまでも尊敬しあっていた。
「水だ。水の音が聞こえる」
そんなある日、夏前の大雨で川が氾濫した。
地面を揺らす異様な気象に目覚めて外へ飛び出すと、ひと際大きな波が橋に迫っていた。
男は腰を抜かして逃げようにも逃げられなくなった。
元は水とは思えぬ勢いで凄まじい音を立てて迫りくる波は、こちらを飲み込まんとする化け物のようだった
「危ねぇ!」
轟音と体が水に飲みこまれる寸前、馴染の声が聞こえたと思うと温かい腕が体をつかむように抱いて一緒に水の中に溺れて行った。
ようやく目を覚ますと、滅多に見ない父親の泣き顔が叱咤と共に男を襲った。
「お、親爺。あいつに助けられたんだ。あいつは大丈夫か」
聞き覚えのある声は橋むこうの倅であった。
言い募る倅に父親はうつむいたまま答えず、代わりに母親が両腕に倅を抱きこんだ。
「向こうの倅さんは、流されたんだよ」
男は頭が真っ白になった。
翌日、長年の商売敵一家の葬儀が執り行われ、参列した男は、仏壇に飾られた例の大きな看板を見て大泣きしてしまった。
看板は半分に割れていた。
「後生です。あの看板下さい」
土下座をして親戚に頼みこむと、一部だけならと半分に折れた片方を譲ってくれた。
「下駄屋に生まれたなら、下駄になるのが筋だ」
自分に言い聞かせながら、男は昼夜問わず、一心にひと揃えの下駄を作った。
しかしいざ出来上がってみると、己が履いて使うには助けてもらった相手に申し訳なく、誰か必要な人があれば使ってもらいたいと、泣く泣くお婆の古物屋に売ったのだった。
「供養だったんだね」
「まぁ、そんなところかね、それを機に下駄作りはやめてしまった。気が乗らなくてね。そんで食い気の多いことを支えにして、この店で一から修行させてもらったわけで」
「師走はどう見る」
「うん。やっと会得がいった。ちょいと親爺さんに力を貸してほしいことがあるんだが」
「何かね」
師走は嬉しそうに目を細めた。
「守ってたって?」
約束の日。
貸本屋は再び縁側で師走の話を聞いていた。
長火鉢にもたれて、師走は貸本をめくりながら続けた。
「そう。主人を危険な目に遭わせまいとしてたのさ。その下駄がつくもさんになったのは看板だったころで、今の主人は兄さんだ。たとえ直った橋でも惨事があった場所には近づけさせない。義理堅い子だったんだ」
「なるほど。でもよ、こっちの新しいのはなんだい」
「これは私からの贈り物」
縁側に載せた真新しい下駄は、先のつくも下駄と対照的に接ぎ木が多く幾つもの木材を削ってははめ込んだものだった。
「これ、作った職人は同じだが、生きてきた場所は違う材料でできてるんだよ。先に持ってたのは菓子屋の親爺を助けた倅の店の大看板。こっちは親爺が下駄作りをやめた時に下ろしてとっておいたよくある大きさの看板。まぁ雨風には強い代物さ。騙されたと思って履き替えてみるといい」
半信半疑ながら、男はそれらを持ち帰ることにして、師走には貸本が5冊渡された。
その後、貸本屋は少しずつ隣町まで商売の場所を広げていった。
兄弟下駄の貸本屋、と呼ばれているという。
それは、橋で男が師走に言われた通り、こちらの町ではこの下駄。あちらの下駄ではその下駄と使い分けている様子が見られるからだという。
男は時々、新しい方の下駄を作った菓子屋の商品をおまけに師走にくれるようになった。
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