7.鏡の怪
「誰かいるか!無事か!」
「あいよ」
煙があがる格子戸から女の間の抜けた声が聞こえ、続いて白い腕が伸ばされたことに火消しの頭は驚いて尻もちをついた。
玄関戸を引いて煙の向こうから姿を現した師走は、着古した小袖についた煤をはらっていた。
すると、片足に何かぶつかり、縋り付かれ足元を見下ろした。
「た、助けて」
足に取りすがったのは、女の童だった。
歳のころ6つ程で、おかっぱ頭に地味な紺の着物を着ている。
「あんたが火消しを呼んでくれたのかい」
師走は普段と変わらない調子で笑みを浮かべ、安心させるようにしゃがんだ。
「なんてことはない。試しに飯を作ってみたら、これが私に向いてなかったようでねぇ」
師走は目の前の小さな頭に手のひらを置いて、左右に撫でた。
「初めて見る顔だ。もしかして何か頼み事があるのかい」
「うん」
童を覗き込むと、真っ赤に腫れた目ながら真っすぐ師走と視線を合わせてうなずいた。
師走は目を細めてうなずきかえした。
「わかったよ」
「凛、その鏡を見るんじゃないよ」
行燈もついてない真っ暗な小屋に足を踏み入れた凛は、鋭い声に動きを止めた。
その日の昼。
凛は任務を終えて、いつものように師走の様子を観に行こうとして街に来た。
挨拶がてらお婆の居る古物屋に立ち寄ると、ボヤ騒ぎがあったという。
お婆は師走に怪我はないと言っていたが、胸騒ぎが収まらずいてもたってもいられなかった。
気が付けば、境内まで急いで駆けてきていたのであった。
声のした方に首を向けると、師走が闇から白く浮き出るように現れた。
凛は生気のない師走に気をやって傍に駆け寄った。
「師走さま、顔色がお悪いですよ」
「そうか。うん」
はっきりしない答えを返して、師走は玄関の上がり口に腰を下ろした。
「何かあったのですか」
「寂しいのは、つくもさんも同じなんだね」
誰にともなくつぶやかれた言葉を凛は理解しようとした。
しかし師走は顔の横で手を振って、自嘲気味に首を振った。
「すまなかったね。なんだ、こっちに来ていたのかい」
取り繕う笑顔に、しかし騙されまいと凛は険しい顔になった。
「はい。休暇が取れましたので、婆様の店に寄りましたところ、火消しが、煙を見た童に連れられてきたのがこちらだと言ったそうで」
「あんなに小さい依頼人は初めてだけど、内容はずいぶんだったよ」
「依頼?火事はそのせいですか」
「いや、味噌汁をこさえようとして、うっかり他の薪に火移りしちゃってね」
「そんな摩訶不思議な事…」
思わず、凛は体の力が抜けた。
しかし、近くで見た師走は頬が削げている。
凛は気を取り直した。
「とにかく、何か召し上がりませんと。それと、童の依頼の事もお聞かせください」
師走は断ろうと開いた口を、目の前の断固否は認めぬという凛の険しい視線で閉じて、大人しく飯屋に行くことにした。
「おかわり」
「あいよ」
夕暮れ時。
客は仕事を終えて飯をかき込んでは帰っていく男ばかりで、師走たち三人のように居座る客は珍しかった。
師走は店に入るなり、定食を頼み、米と味噌汁を飲み物のように、繰り返し注文し続けていた。
「凛とお前さんは何かいるかい」
湯呑で熱い茶を飲みながら、師走は凛の隣に腰掛ける童にうかがった。
「もち」
「私は結構です」
「そうかい」
凛が師走に代わって店を駆け回る女に餅を頼む。
威勢のいい返事のあと、しばらくして湯気立ち上るきなこもちが童に出された。
手を止めずにひたすら咀嚼していた師走だったが、童が餅を珍しそうに見てから思い切って箸に絡めた餅にかぶりつくと、見守るようにゆっくり手を止め、頬杖をついた。
童は口で熱さが暴れている餅を落ち着かせようとしかめ面をして奮闘している。
凛は童の口元を布で拭いながら、師走も安心している様子に、どこか安堵を感じていた。
「おいしい」
「そっか。ほしかったら、いくつでも食べな」
「で、でも銭…」
途端に小さくなる童に師走は台を隔てて頭を撫でて笑った。
「ボヤから助けてくれたんだ。銭より恩返しだよ」
童は撫でられ続けていると、くすぐったくなったのか笑窪を見せて笑った。
「師走さま」
「うん?」
穏やかな様子を見守っていた凛だったが、聞くべき機会を逃さないように話を切り出した。
「それで、この子の依頼というのは」
師走は凛を一瞥してから、片足を腿に上げて、髪を結っていた赤い紐を解いた。
灰色の髪が流れ、うつむく師走の顔を隠す。
「さっきの鏡だよ」
師走は語った。
「何が見えるというんだ、いい加減にこちらを向け」
長屋住まいの童の両親は、越してきて間もないが、やけに身なりの良いことで周りから浮いていた。
男の怒声が聞こえたのは、童が眠りに落ちていた時だった。
童は驚いて掛布団をひっかぶり、怯えながら覗いていた。
母は夜着姿で鏡台の前に座り込み、食い入るように鏡を覗き込んでいた。
一方の父は母の肩をつかんで自分に振り向けようと必死だった。
「魂はあるんだね、あんた。あの子だよ。化けてこの部屋にいるんだ」
「何を言っているんだ」
浮足立つ母とは対照に、男は土間に崩れて嗚咽を殺し始めた。
童は勇気を出して布団から這い出て、母親の袖を引っ張った。
「母様、父さまが」
幼子の声に母は目を吊り上げて、加減もなく童の頬を張った。
「あぁ!あんたの兄様がびっくりして隠れちまっただろ!何すんだい!」
覆いかぶさってなおも童に拳を上げようとするのを、父親は後ろから羽交い絞めにしてやめさせた。
「何してる!これもお前の子だ!忘れたか、忘れたかっ」
童は大泣きし、父親の大声に長屋住まいの人々も起き出し、騒ぎになった。
その夜から、童は隣の気のいい女房が預かるといってそこに寝起きしていた。
しかし気になった童は、折りを見ては、隣の長屋の障子に小指で穴をあけて覗いた。
母親は、昼も夜も鏡を見て、やせ細った頬、乾いた唇で鏡を見つめては嬉しそうにして動かない。
その隣で父親は、必死に話を聞かせようとしながら、片手に粥らしきものをすくったのを持っていた。
「気が狂ったのではないですか」
凛は師走の話を聞いて疑問を呈した。
身分の良かった夫婦と子供が、故あって身を落として気がふれることも珍しい話ではない。
しかし、師走は首と横に振った。
「鏡から離れないっていうのが、ちょいと気になってね。鏡に死んだ子供が映ったなら部屋にいるか振り返って確かめるだろう。この子の話じゃ、どうもそんな素振りはないようだ。それでさっきこの子に長屋まで案内してもらったのさ」
確かめるように小さい頭を叩くと、童は大きくうなずいて、師走の隣に急いで移った。
餅は2皿たいらげられていた。
師走は童の髪を指ですきながら、続けた。
「鏡台を見たいというんで」
「はい」
夕暮れ、童を抱いて現れた師走を見て、父親はすっかり頬の削げた顔の中に安堵を浮かべた。
汚れた姿の師走を不審そうにしていたので説明し、本題の鏡について思い当たることはないか聞いた。
「これは、嫁が結納の時に家の者から受け継いだものだそうで。たいそう古いようです。引き出しなんかはもう引っ掛かって使い物になりません」
中に通された師走は、童が言っていたまま、女が鏡を見入る姿をみとめた。
師走は男にことわって部屋に上がると、女の後ろに座り瞼を閉ざした。
やがて瞼を上げた師走は、畳の上を膝で進み、女の後ろからゆっくりと両手を回し、両の目を覆った。
慄いた女は、師走の手を剝がそうと引きはがそうと爪さえ立て、全身を強張らせながら喚き散らした。
師走の白い手の甲に幾筋もの赤い爪痕が刻まれていったが、より力を込めて頭ごと女を胸に引き寄せた。
そして、強い意志を持った目で、半ば睨むように鏡に向かって言葉を向けた。
「この女はおよし。主には私がなろう。私がお前のそばにいよう。離れはしない。私が見たいものが分かるだろう。それを写せ」
師走が硬質な口調で言い終えた途端、その顔が驚愕に歪んだ。
焦点をぶれさせながら、奥歯を噛み、そっと女の顔を解放する。
慌てて女は鏡に突進する勢いで、目を見開いて隅々に素早く視線を走らせた。
そうして、悲痛な声を上げて嗚咽を漏らし始めた。
「いない。いない。どこにもいない。置いていかないでおくれ」
天を仰ぐ女に、男は体をそわつかせ女と師走を交互に見やっていた。
そして、暫く鏡と向き合った後、再び男を振り向いた師走は、蒼白の面に脂汗を流して低い声で強く言った。
「この鏡台をお譲り下さい」
「師走様」
凛は語尾を震わせて名前を呼んだ。
語り終えた師走の顔が灰色の長い髪で覆われて見えないことが、不安でならなかった。
師走の袖を握りしめる童を、師走は見下ろしていた。
「小屋に鏡台は分かりました。しかし、それでは師走様が何か障りを受けたのではありませんか」
心配する凛の様子に気が付いた童も、師走を見上げる。
そして、眉尻を下げると、小さい片手を伸ばしてうつむく師走の頬に当てた。
「こわいの?」
すると、師走は小さく息の混じった笑みをこぼし、幼い手に自分の手のひらを重ねた。
「そうだね。とても怖い」
面を上げた師走は、凛を見て力なく笑った。
「大丈夫だよ、凛。あの鏡は手放す」
凛はわずかに安堵を感じながら、浮いた腰が落ち着くのを感じた。
しかし、何を見たか聞き出さなくてはいけない気がした。
「鏡は、師走様に何を見せたのですか」
すぐには答えなかった師走だったが、再び童の頭を撫でながら、静かに言った。
「つくも鏡は繰り返し同じことを念じていたよ」
「何と?」
「もっと自分を見てくれ、と」
師走はいったん言葉を切って、深く息を吐き出しながら続けた。
「祝いの鏡台。作りもいい。けど、代々祝いの席でしか掛け布はあげない。それが寂しくて、とうとう悪戯をしたんだ相手が見たいと思ったモノなら何でも映せるだけだったんよ。悪気はない」
「それで母親に死んだ子供を」
「うん」
「では、あの鏡は今、師走様が虜になるようなものを写しているのですね」
師走は苦笑を返した。
「かわいいものさ」
明らかにそうではないと分かっていても、凛は黙って頷くしかなかった。
これ以上、師走を問い詰めると傷を深める予感がしたのである。
それきり、師走は口を閉ざし、代金を払うと二人を伴って、無言で境内まで戻っていった。
「これでいいかな」
境内の一角に火を起こした凛は、師走を呼んだ。
師走は鏡台を抱え引きずりながら外に運び出し、焚火の傍に移動させた。
「師走様」
「なんだい。時化た面して」
凛は、赤く爆ぜる炎の熱さを感じながら、握った拳に力を込めた。
師走は優しく微笑み返した。
「なぜ、壊してしまうのですか。鏡なら作り替えればよろしいではないですか。つくも物を壊す師走様を見たことがありません。手鏡でもなんでも」
「いや」
師走の口調は強い。
顔を上げると木槌を振り上げているところで、凛は思わず後ずさった。
「寂しがりが過ぎた物は、いずれ相手を放せなくなる」
と、高い音と共に硝子が布の下でひび割れる音がし、続けて打たれていると、焚火に木片が散った。
凛は黙って見ているしかなかった。
木片が落ちる度に炎は勢いを増し、砕けた破片が下に落ちる。
師走は無心に木槌を振り下ろす。
凛は、師走が殺め事をしているように見えた。
高い音は、悲しい悲鳴のようで、師走の後ろ姿は小さくなっていくように感じられた。
主になると言った師走が、普段はつくもを愛でるその手で、友人を殺しているようであった。
ようやく鏡も木片も焚火にくべた時、師走は力尽きて地面に仰向けに寝転がり、荒い息を繰り返した。
凛は立ち上がり、傍に座った。
「髪がこげてしまいましたね。少し切りましょう」
「うん」
乱れて、焦げて、すすけた師走は、両手の平で顔を覆って笑った。
それは深い悲しみの笑いだった。
その後、長屋の一家は静かに暮らしたという。
凛は常以上に腑抜けてしまった師走を世話したが、味噌汁と米を炊いたある朝、満面の笑みで凛に抱き着いたという。
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