5.井戸の怪
「埋め立てるんだってな」
「どこをだい」
「あそこ」
飴売りの親爺は、山の方を指さして眉尻を下げた。
同じ方向に首をやった師走は、山に深く立ち込める霧を目で追っていた。
「馴染井戸か」
「なんでそう呼ばれてるか、知ってるかい」
「もちろん」
「師走の姉さんなら知ってると思ったよ」
飴売りは人懐こい笑みを浮かべた。
「この頃のガキはそんな話知らねぇのよ。寂しいねえ」
「だいぶ昔の話だ。それに幸せな結末でもなかったろ」
「まぁね」
桃色、青色、紫の飴を紙袋に詰めてもらい、銭を払うと師走は境内に戻って、狛犬のそばに腰掛けた。珍しく多良が近づいて来たので、懐から小魚を投げてやった。
「悪くなってると思ったら、やめときなね」
多良は面をあげて胡乱気な目を向けると、静かに小魚を咀嚼した。
「とても不思議なところだ。ついでに話を聞いてくるといい」
師走がまだ職人たちの弟子をしていた頃。
山奥のとある村で珍しい魚の干物が売られているからと遣いを頼まれた。
「銭は足りるのかい」
「あぁ。何年か前にも弟子に買いに行かせたんだが、川の魚、海の魚、色々あったが、それでたんと買えたよ」
「山でどうやって魚を獲るの?」
「そこが味噌なのさ。いい息抜きになるだろう。行っておいで」
酒好きの親方に頼まれ、師走は布袋に入った銭を携えて、気乗りはしないが、遠出することになった。
町に戻れば、祭日のおこぼれがもらえるかもしれないという算段もあった。
春の草花が、開かれた道に最初は背を低く、だんだんと色濃く空へ伸びるなかを歩いていくと、空気は澄み、風が木の葉を揺らす波のような音が耳をくすぐった。
疲れは確かにあったものの、眼を潤す景色に魅了され、気が付けば苔むした岩が点在する小さな村に着いていた。
鼻腔くすぐる香ばしい香りに誘われ歩を進めると、小さな子供たちが焚火のそばで棒に刺した魚を焼いているところであった。
引き寄せられるように近づくと、子供たちの後ろ、森の奥から籠を肩に担いだ逞しい男が師走を見つけた。
「おい、娘っ子。あんた客かい」
「あ、はい」
師走は焚火から男に顔を向けた。
籠を担ぎなおすと、男は満面の笑みを浮かべて、先ほどの焚火に向かい顎をしゃくった。
「もうすぐ昼だ。食べていきな」
慌てて師走が荷袋から銭の入った袋を出そうとすると男は近づきながら手で制した。
「初めて見る顔だな。下の町からだろう。試食がてら食べて行ってくれ」
師走は男を見上げ目を瞬かせると、無表情にうなずいた。
「しょっぱい」
「うん。海の魚だな」
師走はあぐらを掻き、子供たちに混じって魚をかじっていた。
頬ばり飲み込む前から次々歯を立てる様子に、男の妻らしい女は柔和な母の笑みを浮かべて眺めていた。
「女の子なのに、よく食べるね」
無心になって食べかすが口元に着いたことも気がつかない師走に、女は手を伸ばしてそれをとってやった。
師走はいったん手を止めると、無表情で女を見つめた。
女は肩をすくめて口の中で笑った。
「綺麗な髪してる。後で梳いてあげようね」
「構いません。ご馳走様でした」
師走は目をそらし、最後の一口を飲み込むと立ち上がって、まだ食べている最中の男に向き直った。
そして、先ほどの布袋を差し出す。
「ふむ。十分な銭だ。よし、後で魚の獲れる場所まで案内しよう」
断ろうとしたが、胃からガスが上がってきて、魚臭い空気を遠慮もなく大きな音をたてて出していた。
「では、腹ごしらえに」
目を見張る男の横で、女は口元に手をやって笑いをこらえていた。
子供たちは魚に夢中で取り合いの真っ最中だった。
「ここだ」
「井戸?」
男についていくと、そこは苔や、細い茎を持った植物が、拠り所とするように育つ大きな古井戸であった。
町にある水汲み用の井戸とは違い、定期的に整えたり汚れを落とした様子はなく、耳を澄ませると、内側からそう浅くない水面から生き物の動きによって水が跳ねる音がした。
「いつからあったかは知らないが、昔まだここが水に浸かっていた頃は漁村だったらしい。それがいつしか水が引いてしまって、この井戸が残った。村人は職を探して減っていったが、俺の親爺くらいのときから、突然色々な魚がここで見つかってな。どこの水流に繋がっているかはしらんが、季節ごとに絶えず魚が獲れるってんで、山を開いて魚を干す場所を作り、売ることになった。お前さんも食ったろうが、上手いし、珍しいから縁起物だってんで、こんな人里離れた場所にも買い求めにくる人がいるのさ」
話を聞き終えると、師走は腕を中に伸ばして指先を水に浸し舌で舐めてみた。
「味がしない」
「海水でも、淡水でもないんだ。本当に不思議だよ。だから、飲み水は他の井戸で汲んでる」
「そうですか」
師走はしばらく井戸を眺めていたが、井戸は多くは語ってくれなかった。
「言葉を忘れたかな。とても古いんだね、お前」
「何か言ったかい」
「いえ」
師走は村で荷袋いっぱいに干物を買うと、もと来た山道を下って行った。
そうして、目論見通り、祭日のおこぼれで干物を食べることができた師走は、やがて村の存在を忘れていった。
「馴染井戸だとよ。怖いねぇ」
「子供が溺れるのはあることさ。しかし仏さんが見つかったところが不気味だよ」
「嫌だ、嫌だ」
その村の瓦版が町にばら撒かれたのは数年後。
師走が別の職人の親方の元で修行していた時のことだった。
「おぉ師走。これさ、見てみな」
仕事場を掃除していた師走の元に、気忙しく顔を出した兄弟子が瓦版を見せてよこした。
「すみません。まだ字は読めなくて」
「そうか。んなら、読んでやるよ」
師走は、兄弟子がはやる気持ちを抑えきれないとばかりにそわつきながら読み聞かせるのをぼんやり聞いていた。
概要はこうである。
先日、村で一緒に育った仲のいい年頃の男女が、夕方海へと出かけた。
山育ちでなかなか下山することのなかった二人は、いつしか砂浜から浅瀬へ、そして沖まで進んで水と戯れていたという。
すると、夜になって村に血相を変えた二人のうち男の方が助けを求めて戻ってきた。
女が海で流されたという。
村人はざわめき立ったが、夜も深くなり、海も荒れ始めている事から、探すのは夜が明けてからということになった。
しかし、当の男は眠ることができず、家から黙って飛び出した。
山の男が昔漁村だと言っていた場所には、まだ漁船が残っていた。
海辺に捨て置かれたうち、小型のものを押して、男は船に乗って探しに出た。
翌朝、息子がいないことに気が付いた両親が慌てて海辺まで行くと、打ち砕かれた船の残骸が砂浜に散らばっていた。
長年放置された漁船は古くなっており、更に激しい波にもまれ耐えられず難破したものとされた。
村人は幾日もかけて二人を捜索したが、結局見つからなかった。
捜索が打ち切られると、とりわけ嘆いていた母親たちは古井戸に子供たちを見つけてくれるよう膝を折り手のひらを合わせて、昼夜問わず祈り続けた。
するとある日、いつものように祈りにきた母親が、異様なものが井戸の外に投げ出されているのを見つけて、悲鳴を上げた。
それは、水死した二人の子供たちであった。
「仲が良かったから馴染井戸か。それにしても気味悪いな」
兄弟子は百面相で、片手に瓦版、片手に団扇を持ってあおぎせわしない。
「今年はあそこの魚の干物、たべられるのでしょうか」
師走は思ったことを口にした。
「馬鹿お前、食って祟られたらどうすんだ」
兄弟子は吐き捨てるように言って、また外に出て行った。
師走は古い井戸の様子が気にかかったが、それ以上どうしようという気もなく、やがて数年が過ぎていった。
「魚が食べたいね」
昼頃、久しぶりに聞いた不思議な井戸の話を思い出しながら、誰にともなく師走はつぶやいた。
梅雨入りしたこの頃は、道がぬかるんでいたが、今晩の空は月に雲が かかることもない。
「明日あたり、ちょいと行ってみようかね」
窓辺でくつろぐ多良を見て言うと、大きなあくびをされた。
翌日、師走はゆっくりと村への一本道を進んだ。
草花は変わらず瑞々しいが、山道は人があまり通らなくなったのか、整えられず足で緑を踏みつけて開かれた様子となっていた。
村にたどり着くと、師走は賑わいを失った村を散策した。
人は見るからに少なくなり、玄関先には杖に寄りかかり気力をなくした老人たちが残るばかりで、子供や若者の姿は数えるほどであった。
試しに井戸まで行ってみると、ようやく見覚えのある顔に出くわした。
「親爺さん」
丸い背中に声を掛けると、男はゆっくりと吹き返り、師走を見てしばらく黙り込んでいたが、徐々に目元が懐かしさに弧を描いた。
「やぁ。大きくなったな」
「えぇ。おかげ様で」
歩き通しで疲れた師走は、近くの苔むした岩の上に腰を下ろした。
男の足元には、身の落ちた魚の骨が山積していた。
骨の周りには腐った肉を求めて蝿がたかっていた。
「その様子じゃ、ここを仕舞うって聞いて来たようだな」
「まだ魚が残っていたら、買おうと思いまして」
男は乾いた笑いをこぼした。
「まさかお遣いってわけでもないだろう。変わった姉さんだ」
「美味しかったですからね」
「そうかぁ。そうだったなぁ」
懐かしむ口ぶりで、男は井戸の縁に腰を預けた。
「もうずいぶん前から、魚はあがっておらんのよ。あの子らが見つかって、干物の評判が落ちてからこっち、みんなここに寄り付かなくなってな。気が付きゃ、魚もいなくなっていた。もともと作物の育ちにくい場所だ。みるみる村の者は下っていってしまったよ」
「親爺さんは、ここを埋め立てて、どうするんだい」
「自分と母ちゃんがが食うに困らんくらいには、作物は育てられるだろう。幸いにも魚の干物を作るとき、みんなしてお天道様に当たるように、土地だけは広く耕したからな」
師走は気落ちする男の話を聞き終えると、立ち上がって古井戸のそばにしゃがみこんだ。
瞼を閉じ、額を冷えた石に当てる。
「何してんだい」
不思議がる男に、師走はしばしして面を上げて答えた。
「いい事、思いついてね」
師走は男を伴って、村まで戻った。
かつて見渡す限り天日干し用の網が広げられていた土地は、乾いてひび割れていた。
「親爺さん、飲み水の井戸はまだあるかい」
「あぁ」
「よかった」
師走はおもむろに荷袋から先ほどの井戸で汲んだ水を入れた水筒からとりだすと、しゃがんで地面に垂らし乾いた土を捏ねて柔らかくすると、いつの間にか集まってきた村人に囲まれながら、不意に指先で泥をすくって舐めた。
仰天した男が、走り寄ってその腕をつかんだ。
「おいおい、気でも狂ったか!腹壊すぞ!」
対する師走は悪戯っ気を含んだ面持ちで笑みを浮かべた。
「うまいよ」
「何を馬鹿な事言ってんだ」
「この土、魚の滓が染みて、いい塩梅になってる」
「へ?」
男は魚と聞いて心くすぐられ、試しにほんの少し泥を舐めた。
「本当だ」
呆気にとられた男に、師走は続けた。
「魚粉といってね。田作りにはいい肥料になるんだが、なかなか高値で買えない。けど、ここはそれがしみ込んだ土地と日当たりのいい場所でもある。今年は無理でも、耕せば昔の干物に引けを取らないくらい、うまい米が育つはずだよ」
師走の提案に、男は周りを囲んでいた村人を見回して大声で笑った。
その目元には涙が滲んでいた。
「多良、こいつとお前さん。どっちが年寄りなんだい」
幾年か過ぎたころ、すっかり希少な米の産地となった村の外れで、師走と多良は例の井戸の傍で酒を舐めていた。
つまみは差し入れの味噌せんべえである。
多良は言葉選びが悪いとばかりに低く唸って古井戸の縁に寝そべっている。
「ま、長生きはするもんらしいね」
師走は口元をほころばせ、風に揺れる木の葉に包まれながら瞼をゆっくりと下ろした。
「けなげだねぇ、お前さん。使われて、怖がられて。それでも悪さしない。いったいどんな恩があったのやら」
師走の言葉には答えず、井戸は水滴が落ちる音を静かに響かせていた。
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