4.塗り薬の怪

「煙たい」

「おや、久しぶりだね」

 秋の終わりごろ、小屋を訪ねる馴染の顔に、師走は長火鉢に肘を預けながら、煙管の吸い口から唇を離して緩い弧を描いて見せた。

 凛は履物を綺麗に脱ぎそろえると、座布団を引き寄せて師走の向かいに膝を曲げて腰を下ろした。

 煙草盆の上に煙管を置くと、最後の一息を障子を開け放した格子の間から外へ吹き逃がした。

「見かけない煙草ですね」

「あぁ。貰い物でね」

「なるほど、また」

 凛は首を垂れ、頭高くひとまとめにした艶やかな黒髪を流し、嘆息した。

 年若い忍びである凛には、身寄りがいない。

 師走とは数年前に縁あって出会った。

 博識でいて偉ぶらない師走を凛は姉のようにたいそう慕い、今では機会があれば顔を出すようになっていた。

 一方の師走は、世話焼きで好奇心旺盛な駆け出し女忍びに慕われ、数少ない若い友人としてもてなす事が多い。しかし時折、自身は失った、凛の眩しいほどの生命力に圧されることもあるのだった。

 二人は仲が良い。

 一度は、着物がしなびているのは、それもつくも物なのかと凛に聞かれた師走は、珍しく大笑いしてただの無精だと答え、憤慨した凛はいちもにもなく溜め込んでいた小袖や帯紐などをすべてかき集め、文句も言わずに洗い出したということもあった。

 今日も、昔と少しも変わらない真っすぐな瞳に捉えらた師走は、気だるげに体をずらして凛に向き直ると頬杖をつき、目を凝らして様子をうかがった。

「調子が悪そうだね。食あたりかい」

「いいえ、怪我に塗った薬が悪くなっていたようで、治りが悪くしばらく潜んでいるのです」

「それなら、いいものをあげよう」

 師走は立ち上がると、箪笥の引き戸をずらして丸い黒塗りの薬入れを手に戻った。

「綺麗な細工がありますね。けれど、やはり古い」

「嫌な顔をおしでないよ。いいものと言ったろう。これは遊郭の主人が持っていたものだよ」

 師走は先日、お婆が店で買い取ったという薬入れの修繕をいくつか頼まれた。。

 中でも凛に渡したものはお婆曰く、時代の流れか、取り壊しが決まったある遊郭の主人が捨てるに捨てられない思い出の品として、少しでも足しになればと捌きに来たものという。

「安心おしよ。修繕するから」

「しかし、あまり銭はありませんよ」

「何をいう。あげるから、ちょっと何日か付き合っておくれ。ここに泊まるといい」

 凛は口をもぐつかせると頬を染めて見開いた目もそのままに、弾かれたように深々と頭を下げた。

 愛らしい、愛らしいと笑いながら、師走は凛の頭を撫でた。

 それから、凛と師走は小さな小屋で寝泊まりをし、昼間は師走が修繕を行い、凛は遣わされた先で見聞きした面白い事柄を話して聞かせるという日常が過ぎて行った。

 旅を好まない師走にとって、凛の話は物語を聞くようであったり、世情を知るよい機会である。

 家事がまるで駄目だと凛はしきりに世話をした。

 忍びを生業としているとしても、少々小姑のような面がある。

 家庭を持てばさぞ良妻となるであろう。

 反対にいつ病や災害で亡くなっても構わないという体の師走に対して、凛は不養生を正して長生きさせようとしているのが見て取れるので、こそばゆさとまぶしさが増すのであった。


 ある日、凛は暇ができたので古物屋を訪ねることにした。

「お邪魔します。誰かおられますか」

 物が天井まで積み上げられ込み入った店内にくぐもった声が響くも、返事は無い。

 お婆は留守にしているらしく、ややして替わりにお爺が顔を出して凛を迎えた。

「いらっしゃい。師走のとこに寄り道かね」

「お邪魔します。はい、少し怪我をしまして」

「うん。あの子は薬の調合も多少心得があるからね。ともあれ、あがっておくれ」

「では」

 店を抜けて縁側に出ると、午後の日差しが木板にしみ込んで、足に心地よい。

 並んで腰かけると、お爺がつぶやいた。

「来るもの拒まず去る者追わず」

 お爺のつぶやきに凛は先を聞きたそうな顔をむけた。

「師走さ」

「なるほど。確かにそんなところがありますね」

「よく世話してくれてるそうで、いつもありがとう。うちのお婆もそうだが、あの子はどうも他人がほっとけない子でね。けれども、当人は何事にも頓着しない。危ういよ」

「まるでお孫様のことを心配しておられうようですね」

 お爺は深い皺の刻まれた口元を笑みで深くし、今度は凛に顔を向けた。

「だが、このところ少し変わって来ておるようだ。凛、師走を頼むよ。ものに肩入れして人を失うような事があってはならんからな」

「はい。爺様」

 何処かで雀が鳴き、遠く寺社の鐘が響いた。

 お爺は肩をすくめた。

「さて、茶でも飲まんか。師走が世話したつくも物の火箸があるのだ。こういう話好きじゃったな」

「火箸ですか。ぜひ」

 その後、二人は師走を肴にお爺の茶で夕暮れまで話し込んだ。



 それから幾日か過ぎ、いくつか修繕が終わると、夕餉のあとに師走は再び煙管をふかしながら、凛に例の薬入れを手渡した。

 細工は禿を塗りなおされ、欠けは継ぎ足し、留め金は新調されていた。

 素人目でも高価なものだとわかるものだった。

「まぁ、つくも物なんだが、この子の話を聞く限り悪いもんじゃないから、試しに使ってあげておくれ」

「薬入れとお話したんですか。面白い」

「これこれ」

「分かりました。ありがとうございます。大切にします」

「うん。私も少しは己を大事にしようかね」

「別れ際にいつもおっしゃっておられますが…。しかし、お願いしますね」

 胸の内をくすぐる会話を交わしながら、翌日凛は勤めに戻っていった。


 凛に手渡す前。

 薬入れの修繕を終えた師走は、お婆から聞いて、薬入れの主人の元を訪ねていた。

 出迎えたのは、年増の疲れが染みついた女であった。

 師走は小袖に両腕を通して細糸のような目元に笑みを浮かべた。

「ご主人がお売りになった薬入れについて、お聞きしたいことがあって参りました」

 女は呆気にとられたあと、不意に目じりから大粒の涙を溢れさせ、短く謝ってから奥に消えた。

 ややして主人らしき男が現れた。ひどくやつれていたが、面持ちは穏やかである。

「あの品を使って下さる方がいたとは、なんと嬉しいことでしょう。ご質問も察しはつきます。どうぞおあがりください」

「では、失礼します」

 戸をくぐると、質素なつくりのいたって普通の長屋だった。

 丸座を進められて師走と男が残り、女は外へ出て行った。

「ご無礼をお許しください。あれにとってあの薬箱は少々思うところ深すぎるものでして」

 主人は語った。


「女将さん、子が出来ちまった」

 遊郭を取り仕切っていた年季明けの女は、当時、遊女が子を孕むと産むか堕胎させるかを選ばせるようにしていた。

「そうかい。どうする」

「この前あの子に何か薬やってたろ。あれおくれ。子供なんてできちゃ金返せないよ」

「分かった」

 女将は自身も何度か堕胎の経験があった。

 奇跡的に生き延びてはいるが、堕胎は施術がうまくいかにないと母体である遊女もろとも亡くなることも少なくなかった。

 そのため、仕切り役となったときには、堕胎薬だけは高価でも信用の厚いものを買うようにした。 丸い粒上の薬を、女将は縁を担いで自身が家宝にしていた綺麗な細工入りの薬入れにしまい、神棚の隅において管理していた。

 薬の効果は高く、早期に飲めば命を落とすことはまずなく、吐き気や腹痛を起こすこともなかった。

 しかし、ある日、産むと言っていた遊女がどうしても降ろすと言い出した。

「やめておきな。死んだらどうする」

「嫌だ嫌だ。あの人の面影見ながら、別の男に商売なぞできないよ。お願いだよ、姉さん」

 遊女の腹の子は町人の小さな問屋の息子であったが、辻斬りにあって亡くなったという。

 前世で結ばれていたのではないかと思われるほどの睦まじさは周りをも喜ばせていたので、遊女が取り乱して無茶を言うのも会得できることころであった。

 しかし、女は頑としてそれを断り、生まれた子は売ってしまい、他の男が現れるまで待つよう諭した。

 その日は、寝所からすすり泣く声が一晩中屋敷に木霊していた。

 やっと女が静かになった頃、女は神棚の榊の水を変えようとして手を滑らせ、薬箱を落としてしまった。

 女は慌てて拾い上げ顔面を蒼白にした。

「ない。一つもない」

 呟くやいなや、女は遊女の寝所に飛び込んだ。

 寝に入ったばかりの遊女たちの文句も気にせず、一人先日の遊女を血眼で探した。

「どいとくれ。お前、医者を呼ぶようにあの人に言うんだ。早く!」

 見つけて腕に抱いた若い体は白を過ぎて青くなっていた。

 呼んだ医者も、少し診てすぐに首を横に振った。

 遊女は堕胎薬をすべて飲んだために自分と子供の命を絶ったのだった。


「いつの間に見つけたのか。床下にでも置いておけばよかったか。もっとこまめに少ない量にすべきだったか。そういつもこぼしていましてね。それから、何度か意気地のない客の男が薬をすり替えて殺したり、どこで仕入れたのか安物を飲んで早めにおろして仕事に戻ろうとした遊女が失敗して亡くなったり。結局は商売立ち行かなくなって畳んだのですが、実はその薬入れ、取り壊しで忙しい最中に私が持ち出して乞食に少しの銭を渡して譲ったのです。しかし気が付いたあれは必至に探して持ち帰ってくる始末。強い女ではありましたが、このままではいかんと、きちんとしたお店に買い取ってもらいました」

「それは気の毒なことを。しかし思うにその薬入れ、入れた薬をきちんと飲む分には、亡くなった方は少ないどころか、居なかったのではないですか」

「なぜそれを」

 男は驚き露わに鬱々とした顔から一転、困惑の表情を浮かべた。

「いやなに、私もお聞きしたいというのは建前で、先の女性にお伝えしていただきたいことがあって参った次第でして」

「それは、いったい…」

 師走は、長屋の格子戸を見上げた。


「師走様!」

「おぉ、り…」

 飛び込んできた凛はいつもの冷静さをかなぐり捨てて出迎えかけの師走の胸に飛び込んだ。

 むせび泣き、ひたすら、ありがとうございます、と繰り返す。

 師走は大儀そうに態勢を整えてから、胴に両腕を巻き付けて泣き続ける少女の背を撫でた。


「なぁ、凛。その薬いつ足したんだ」

「足していないよ。減らないのさ」

「けちなだけじゃないのか。治りが悪くなるぜ」

「おかげ様で、あんたより丈夫だよ」

 戯れに手裏剣を投げると、同期の忍び仲間は声を立てて逃げて行った。

 例の薬入れは塗薬を入れていたが、使っても使っても減らず、塗れば立ちどころに治ってしまった。

「さすが師走さまの見込んだ物なだけあるね」

 凛は不思議な薬入れを大事にして常に身に着けていた。

 しかしある日、夜任務に出向いた翌朝、仮眠明けの装具点検で薬箱が空になっていた。

「しまった不注意だった」

 言いながら予備の薬を落とし込むと、なんと薬入れは吐き出すように薬を外に出してしまった。

 それから何度試して受け付けようとしない。

「やはりつくも物は怪しいのかもしれないわね」

 そう思っていた。

 しかし、運悪く敵襲にあった際、持ってきていた自分の薬を塗った仲間の一人が夜ひどくうなされた。

 班の長として傍で励ましながら、傷が腫れて様子もないことを不審に思い、まさかとは思ったが一応のためと凛は仲間が塗ったという薬をすくって舐めてみた。

「なんだこれは」

 凛は血相を変えて薬を吐き出した。

 明らかに腐った混ぜ物の匂いと味だった。

 すぐさま他の者にも捨てるように告げて、うなされている仲間の傷口を水え洗い清めると、すぐに里に帰るよう命じ、正しい治療を受けさせた。

 残りの任務は凛が先頭を切り、無事終えることができた。

 里へ戻って事の次第を長に伝えると、女が若くして忍びで活躍することを妬んだ里の者の仕業であろうとされた。

「薬入れは、毒のある薬を持ち主に塗らせまいとしたのだろうね」

 師走は言った。

「あれがなければ仲間は皆いずれ亡くなっていました。たとえ亡くなっても敵が武器に毒を盛ったと思われるだけだったでしょう」

「怖かったな、凛。よかったな」

 師走はつくもになった薬入れが、女の遊女を思う気持ちを受けて、人身の毒になるものは決して受け付けないようになったことを主人に伝えていた。

 図り事の多い忍びの世界で凛の役に立つのではないかと思って渡した品であった。

 凛は気が済むまで泣き続けた。


 その後、凛という忍びは、とある里の実力ある者として重宝されたという。

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